『週刊鉄亀』2000年9月分

※末尾に、僕が本誌で書いたことに対する山口剛氏からの意見を収録してあります。
 
 
 
 

『週刊鉄亀』2000年9月4日号

●8月28日(月)
 ベージュの麻のジャケットに、ブルーのネクタイというスタイルで新宿へ。歌舞伎町のロフトプラスワンで、VIDEO ACT ! 主催のイベント「ビデオアクト多文化探検セッション」に参加。Kさんに「今日は、ジャーナリストみたいなカッコしていますね!」とからかわれる。「リトルヤンゴン物語」、「いっしょに生きたい」などのドキュメンタリー数作品を鑑賞。監督数人によるトークが始まったところで、残念ながら退席。
 新宿から羽田に移動。ANA267便で福岡へ。福岡空港から地下鉄を乗り継ぎ、博多市内へ。2年前の記憶を頼りに、駅前地下街にあるラーメン屋「一蘭」に走ったのだが、なんと10時ぎりぎりで閉店。失意をかかえてビジネスホテルへ。しかし、ホテルの近くで屋台を発見。急いでチェックインし、ネクタイをほどくとすぐにその屋台へ。キムチラーメンと替え玉で750円。絶品。飛び込みで入った屋台でこれだけ高レベルの博多ラーメンが食べられるとは、さすが本場である。
 ホテルに戻り、衛星放送でCNNニュースを観て就寝。 

●8月29日(火)
 7時起床。一時間ほど電車に乗って、筑後市へ。グリーンコープ生協ちくごの主催の「遺伝子組み換えイネ学習会」に、講師として参加。200人近い参加者に圧倒される。いつものように大量のスライドを見せながら、イネを中心に遺伝子組み換え食品の実態と問題点を説明。ウケはまあまあ。生協だから、すでに天笠啓祐氏の話などを何度も聴いているはずだが、僕の話で初めて知ったことも多かったらしく、主催者は喜んでくれたようだ。
 終了後、博多市内へ。すぐに「一蘭」に行く。絶品。いま東京はちょっとした博多ラーメンブームのようだが、この九州では有名なチェーン店はまだ進出していない。ぜひ、東京でも展開してほしい。
 ANA264便で帰京。

●8月30日(水)
 終日、雑務。
 
●8月31日(木)
 またまたネクタイを締めて、のぞみで大阪へ。地下鉄とモノレールを乗り継ぎ、某大学病院に行って、研究者を取材。再生医療の基礎研究について話を聞く。あまり表に出てこない技術上、安全上の問題点などを知ることができ、なかなか有益。
 夕方、関西在住の同業者Mさんと夕食。近況報告と情報交換。関西の出版業界の状況はあまりよくなさそうである。
 
●9月1日(金)
 電車に乗り、滋賀県にある某企業の研究所へ。同社のバイオ関連事業の戦略について取材……というか、お偉いさんのレクチャーを聴く。一通りの話は聞くことができ、資料も大量にもらったのだが、なんとなく不満の残る取材であった。どうも手のひらの上で転がされたようないごごちの悪さを感じた。取材力不足を痛感。まだまだ修行が足らん!
 のぞみで帰京。疲労困憊。 
          *          *          *
 一泊二日の出張中に読んだ本が2冊。
・米本昌平ほか著『優生学と人間社会』(講談社現代新書)
 米本昌平氏が英語圏の、市野川容孝氏がドイツと北欧の、ヌデ島次郎氏がフランスの、松原洋子氏が日本の優生学史を叙述し、現代の先端医療を考える上でのヒントを提示する。どの論考も、紹介されている事例のなかには興味深いものがたくさんあった。しかし、市野川氏と松原氏が優生学/思想への批判的な態度を見せているのに比べて、米本氏とヌデ島氏の態度がイマイチはっきりとしない。読む前から予想していたことではあるが。
・中島義道著『<対話>のない社会』(PHP新書)
 石井政之氏がホームページで紹介していたのを覚えていて、新大阪駅の構内の書店にあったのを立ち読みし始めたらやめられなくなり、即購入。コーヒーがまずく、冷房が効きすぎて、タバコの煙がむせかえる喫茶店で、その続きを読む。帰りの新幹線で読了。著者は気鋭の哲学者。「私語」と「死語」に支配された教室に代表されるように、言葉が大切にされず、かつ言葉が圧殺されている社会をよくないものだと断じるところに共感。しかし、僕もどちらかというと叱られる立場かもしれない。

●9月2日(土)
 DNA問題研究会の合宿に参加するために、埼玉県飯能市のそのまた奥地の名郷というところへ。西武池袋線の池袋駅で特急に乗るつもりが、乗り場がわからず、乗り損ねてしまう。特急乗り場はちょっとわかりにくい場所にあり、表示もほとんどなく、ふだん乗り慣れていない者にとってはきわめて不親切な構造の駅である。移動中は、チャールズ・ブコウスキーの短編集『ありきたりの狂気の物語』(新潮文庫)を読む。飯能でFさんと偶然合流。バスに乗り、途中、温泉に立ち寄って、名郷の山荘へ。
 夕方からまじめな報告、情報交換。その後、なぜか怪談で盛り上がる。

●9月3日(日)
 まじめな報告、情報交換。バイオ関係の動きは激しい。調べるべきこと、考えるべきことがあまりに多すぎて嘆息。
 夕方に帰宅。(つづく)
 
 

『週刊鉄亀』2000年9月11日号

●9月4日(月)
 終日、雑務。

●9月5日(火)
 昼間、国立国会図書館で資料収集。主にゲノム解析についての論文や雑誌記事をコピー。
 夜、東中野のBOX東中野で、松江哲明監督のドキュメンタリー映画『あんにょんキムチ』を連れ合いといっしょに鑑賞。主人公で監督の松江は、キムチが食べられない在日3世。韓国人の祖父が「哲明バカヤロー」と叫んで死んでいったことを悔やみ、自分のルーツに目覚めて、家族や親戚に直撃インタビュー。祖父のことや在日韓国人としてのアイデンティティを尋ねまくる。しかし、そのやりとりに暗さは全くない。どちらかというと、クスリと笑ってしまう発言ばかり。遺影を持って訪ねた祖父の故郷では、祖父の若いころを知っている人へのインタビューにも成功。語り手は「元コギャル」という監督の妹で、ひょうひょうとしたセリフが面白い。「在日」という重くなりがちなテーマでありながらも、充分に笑いながら観ることができた。また、この監督・主人公は顔でトクをしていると思う。つぶやきシローにも似たルックスと、それを活かしたポスターのインパクトはなかなか忘れられない。ちなみに監督は、BOX東中野でバイトしている(笑)。
 帰りの地下鉄で、向かい側に座った人をふと見たら、同業者のHさんだった。たくさんある席のなかで、知り合いがよりによって目の前に座るとは(笑)。こんなこともあるのだ。

●9月6日(水)
 午前11時、某大学の研究所で、ゲノム解析の大物研究者を取材。ゲノムの構造解析終了の背景などを聞く。
 
●9月7日(木)
 午前と午後、テープ起こしなどの雑務。
          *          *          *
 フリーランスのTVディレクターで映像作家のKさんから借りた『ブッダの嘆き』というドキュメンタリー映画のビデオを観る。インドのウラン採掘現場の周囲で先天異常やがんなどの健康障害が多発している様子を描いた作品で、地球環境映像祭で大賞をとっている。
 率直な感想としては、そんなに悪いものではなかった。僕がいちばん気になっていた先天異常にの取り扱いについては、中盤を過ぎたころ、および最後のところで出てくるだけで全面に出されているわけではなかった。むしろ、がんや皮膚病などほかの疾患についての説明も多くあり、しかも証言が中心であった。
 ということは、僕が見て「ひどいな」と思ったニュース番組(「ニュース23」?)での紹介は、センセーショナルなところだけを切り取ったもので、さらに僕がそれに敏感に(過剰に?)反応した、ということなのかもしれない。
 がんや不妊や先天異常の増加傾向については、専門家へのインタビューと企業側の反論はあったのだけど、欲をいえば、具体的な数値データを紹介してほしかった。また、ウラン採掘工場がつくられた背景などについて、ちょっと掘り下げが足らないなとも思ったが、まあ、そこそこよくできていると思った。
 先天異常について付け加えておくと、多指症、つまり指がたくさんあるという先天異常の人が何人か映し出されていた。実は、日本を含む先進国でも多指症の子どもはあるていどながらも産まれてきているのだが、大半は乳児のうちに外科手術される。つまり、多指症の
まま大きくなった子どもたちがいるということは、医療の不足を意味する。医療の不足が深刻な地域、つまり貧しい地域に、あのような危険な施設がつくられる、この社会構造にこそ気づくべきだろう。
 しかし失礼ながら、この作品を見て、肯定的に評価する人のなかには、単純な論理立てしかできなくて、そうした社会構造的な問題を読みとることができず、ただ放射能のおそろしさを感じるとることしかできない(健康への不安から原子力には反対するが、社会的不公正には気づかない)人もいるかもしれない。残念ながら。
          *          *          *
 夕方、飯田橋で、自主制作ビデオ流通組織「VIDEO ACT ! 」の上映会「隠された死刑の実像に迫る」に参加。大阪在住の静原雄一さんが監督した『ある殺人犯の独白〜隠された死刑囚〜』と、死刑が執行されると予想されていた6月9日の実況中継『東京拘置所前インターネット生中継ドキュメント』を観る。前者は、ある死刑囚とその弁護士との手紙のやり取りをたんたんと読み上げるというシンプルな作品であるが、その文面から近づく執行を待つ死刑囚の心理がかいまみえて興味深い。監督はあえて、この死刑囚の個人史にはほとんど踏み込んではない。ドラマティックなエピソードによる感動など、感情という覆いを取り去ってこそ見えてくるものに監督はこだわったのだろう。

●9月8日(金)
 午前中はテープ起こしなど雑務。
 午後3時、神奈川県の某大学の研究所に行き、ゲノム解析の大物研究者を取材。現状に不満が多いらしく、やたらと政治批判、行政批判を繰り返していた。あまり面白くはなかったが、「コメント」としては使えるかもしれない。
 帰宅すると、日刊工業新聞社から『TRIGGER(トリガー)』10月号が届いていた。今回は、連載「バイオの世紀」で、角膜上皮細胞の移植技術と、特集の中でNECのプラズマディスプレイをレポートした。計5ページ。前者はともかく、後者は修行不足、実力不足を痛感した取材・執筆であった。編集者がずいぶんと加筆したようである。
 また、『望星』という雑誌の10月号も届いた。こちらは「なぜ誰もが「書く」時代なのか?」という特集が組まれており、そのなかでフリーライターの藤宮礼子さんが「「書くこと」で自分を表現したい!」というレポートを発表しているのだが、僕はそのなかでフリーライターのプロ意識についてコメントしている。なおこの記事には、以前『フリーライターになる方法』(青弓社)という本の中で僕を紹介してくれた樋口聡さんもコメントを寄せている。
 僕も参加している市民団体「遺伝子組み換え食品いらない!キャンペーン」事務局から、来週13日に開く記者会見の案内がファクスで届いていた。僕も参加した4回にもおよぶ調査で発覚した新事実を公表する記者会見なのだが(詳細は次号で)、なぜか一度も調査に参加していない人物の名前が「報告者」として載っている。同キャンペーンの運営委員会は、日時を決めるとき、すべての調査に参加した僕のスケジュールを聞かなかったにもかかわらず、なぜかこの人物の顔を立てる必要はあったらしく、配慮したようだ。やはり日本は徹底した肩書き社会、権威主義社会である。NGOも例外ではない。

●9月9日(土)
 ひたすらテープ起こし。
 そのあいまに書店で、『噂の真相』と『創』の最新号を買う。

●9月10日(日)
 朝っぱらから暑い。終日、原稿。夜中に終了。あと2本、仕上げなければならない。(つづく)

『週刊鉄亀』2000年9月18日、25日合併号

●9月11日(月)
 原稿。写真や図版を揃えて、某科学技術情報誌編集部に送付。

●9月12日(火)
 午前10時過ぎ、原稿を同誌編集部にメールで送信。そのまま2本目に突入。
 途中、電話で、D社と印税支払いの遅延をめぐり攻防。ファクスで念を取る。

●9月13日(水)
 午前10時、青山にある食品衛生協会というところに行く。遺伝子組み換え食品を商品化するにあたっては、企業は安全性試験の結果を書類にまとめて、厚生省の食品衛生調査会に提出し、安全性指針に適合しているかどうかを確認してもらわなければならないことになっている。企業から提出されたその膨大な申請資料は、この食品衛生協会で公開されているのだが、ふざけたことにコピーが禁止されている。実は、ここしばらくのあいだ何回かに渡って、名古屋大学理学部の河田昌東助手、元遺伝子組み換え植物研究者の杉田史朗博士、それに市民団体有志など数人とともに食品衛生協会に出向き、申請資料を閲覧して、要所要所を手書きでひたすら書き写すという調査を行なっていたのだ。今回はその5回目で、細部の確認。そして……。
 午後、飯田橋にて、NGOの連合体「遺伝子組み換え食品いらない!キャンペーン」の記者会見。
 上記のように書き写したデータを河田さんと杉田さんがまとめてみると、やはりいくつかの問題点が浮かび上がったのだ。たとえば、除草剤耐性の遺伝子組み換えダイズを食べさせられたネズミには、成長阻害や腎臓の萎縮が見られた。しかもその動物実験で使われた組み換えダイズには、除草剤が散布されていないものが使われているなど、実験の条件、統計の手法などにも数多くの問題があった。
 そこで今回、その内容を記者発表したのだ。集まってくれた記者の人数はまあまあ。苦労したのだから、ぜひ記事になればいいが。
 
●9月14日(木)
 キオスクで主要全紙を買って記事を探したが、どこにも出ていない。さてはあまりに過激な内容に、ビビったか。
 午後、飯田橋で所用。帰宅して原稿。

●9月15日(金)
 祝日だがもちろん関係なし。ひたすらテープ起こし。原稿。
 某書評新聞から電話で書評原稿の依頼。よく読む媒体なので、二つ返事で快諾。この書評紙に書くのは2度目だ。数カ月前に、初めて依頼があったときはうれしかった。しかも、誰かの紹介ではなく、僕が畏友・山口剛と共訳した『逆襲するテクノロジー』(エドワード・テナー著、早川書房)を同紙で紹介したさい、僕の名前を覚えてくれたうえでの依頼だというのがまたうれしかった。このように紹介ではなく、僕が書いた本や記事を読んでくれた面識のない編集者からの原稿依頼が増えてくれば、僕も一人前だと思う。もちろん人の紹介の場合でも、「このテーマなら、カユカワさんに頼むのがベスト」というかたちでの紹介なら大歓迎。「若いから」「やる気があるから」というあいまいな理由だけで仕事を紹介される時期はもう終わったはずだし、終わりにしたい。
 某出版社から電話。うおおおおおおおおおっ! 長年の懸案事項に光が! いずれ詳述。

●9月16日(土)
 ひたすらテープ起こし。原稿。

●9月17日(日)
 ひたすらテープ起こし。テープスクライバー(足でコントロールできるテレコ)の必要性を痛切に感じる。夜中の2時半まで原稿。

●9月18日(月)
 早朝に起きて原稿の仕上げ。朝7時半、完成した2本目の原稿をメールで送信。
 午前10時、霞ヶ関の厚生省にて、「第3回ヒトゲノム共通指針(案)検討委員会」を傍聴。この委員会では、ゲノム解析研究を行なうに当たって、全省庁のみならず企業研究者も含めてすべての研究者が守らなければならない規制指針を検討。大枠は、厚生省のミレニアム・ゲノム・プロジェクト用の指針や、科学技術会議生命倫理委員会の「基本原則」と変わらないだろう。また、厚生省の事務局は、全国の研究機関へのアンケートの途中結果を説明した。ヒトの遺伝子解析研究をやっているか否か、倫理委員会があるかないかなどの質問項目が挙げられていたが、まだ確かな傾向が現れるほどの回答数には至っていない。それにしても、サンプルをとられる側(一般市民)のヒアリングもしていないくせに、サンプルを取る側(研究者)のアンケート調査は行なうとは、彼らの耳がどの方向に向いているかがわかって興味深い。委員会ではまた、早くも研究者から現状の維持を望む発言が相次いていた……。
 いっしょに傍聴した『顔面漂流記』著者の石井政之氏と新橋で昼食。情報交換。石井氏は、400字詰め40数枚の原稿をほぼ2日間で書き上げるという(取材にかかる時間は別)。すげえ早い! と思ったが、それぐらいのスピードで書けることはむしろプロとしての条件かもしれない。われわれよりずっと多くの原稿をこなしている、売れっ子フリー・ジャーナリストだっているのだから。
 そのまま某科学技術情報誌編集部へ。担当編集者に2本目の原稿の写真や図版を渡す。最後の原稿は明日ですね、と念を押される。苦笑。
 帰宅して深夜まで原稿。
 夜半、関係者から、13日の記者会見について書かれた『日本農業新聞』9月 14日付「安全性に問題 組み換え大豆で市民グループ」という記事がファクスで届く。一部に間違いがあるが、まあ載っただけいいだろう。他紙でも記事が掲載される予定があるが、オリンピックなどで延期しているという情報も入る。

●9月19日(火)
 午後3時ごろ、最後の原稿をメールで送稿。ふー、脱力感。一冊の雑誌に10ページも書いてしまった。
 しかし休む間もなく次の原稿。

●9月20日(水)
 午前、原稿をメールで送信。
 午後、飯田橋で、「遺伝子組み換えイネ阻止スタート集会」に参加。ジャーナリストの天笠啓祐氏、前述の河田昌東氏の話などを聞く。とくに後者は秀逸。またもや驚愕の新事実を知る。
 しかし演者の一人で、NGO関係の通訳などの仕事をしているらしい人が「遺伝子組み換えイネを栽培する農民をイジメよう!」と言ったのには開いた口がふさがらなかった。どんどんコメの値段が下がり、後継者がいなくなっている状況のなかで、省力化を売り物にした遺伝子組み換え米に手を出してしまう農家を批判する権利など誰にあるだろうか。ましてや都会の人間に……。この人は、英語に堪能らしくNGOの国際間のやりとりなどをしている人だが、こういう人に仕事を依頼したり、パネラーに選ぶNGOのセンスも疑われてしかるべきであろう。
 自分が共感を寄せている運動だけに、こうした発言が出てくるとまったく憂鬱になる。
 飲み屋で関係者と歓談。深夜に帰宅。
          *          *          *
 高沢皓司著『宿命 「よど号」亡命者たちの秘密工作』(新潮文庫)を読み終える。1970年に「よど号」をハイジャックして、北朝鮮に亡命した赤軍派メンバーたちが、やがてチュチェ思想に帰依するようになり、朝鮮労働党の傀儡となって、日本人拉致事件など一連の工作に関与するようになった過程を描くノンフィクション。しかも著者は、かつてはむしろ「よど号」シンパであり、スポークスマン的な役割を担っていたはずの人物。著者は、北朝鮮で田宮高麿らメンバーにインタビューを繰り返しているうちに、彼らの話に数々の矛盾を感じ、疑問を抱くようになった。そして田宮の発言や表情にも、苦悩の色を感じ取る。田宮は1995年に謎の死を遂げるのだが、そのときまでに高沢にかなりのことを話したらしい。高沢は黙ってそのまま「よど号」のスポークスマンを続けることができたはずだが、彼はそれをせず、真実を探り、世間に公表することを選んだ。
 おそらく高沢は相当苦しんだだろう。事実を知ってしまった著者の苦しみ、とでもいうべきものを読後に感じた作品は、松本健一著『真贋 中居屋重兵衛のまぼろし』(幻冬舎アウトロー文庫)以来である。

●9月21日(木)
 午後。某出版社でうち合わせ。
 書店で、『現代思想』9月号を買う。特集は「健康とは何か」。まさに僕の関心。市野川容孝氏と松原洋子氏との対談、金森修氏の論文などを収録。ヒトゲノム解析や遺伝子医療、優生思想との関連で「健康」が論じられており、とても参考になるのだが、環境ホルモンなど環境問題や食品の安全性問題などとからめて「健康」の在り方を問う視点がもう少しほしかった。
 それでも『買ってはいけない』の読者とか、生協の組合員とか、有機食品マニアとか、健康至上主義者たちにはぜひ読んでほしい特集記事である。でもたぶん、こうした問題提起にはまったく興味ないと思うが……。

●9月22日(金)
 たまりにたまった新聞記事の切り抜き。ため息が出るほどの量。宝島社新書のベストセラー『「捨てる!」技術』を読むが……。
 NGO機関誌用の短い原稿。メールで送信。

●9月23日(土)
 終日、自宅で新聞記事の切り抜きほか雑務。

●9月24日(日)

 午前、友人O氏と日比谷公園で待ち合わせ。近くでブランチ。カメラなどの話題で盛り上がる。
 午後から、日比谷公園の小音楽堂で、アマチュアバンド3組のライヴを鑑賞。最初の2組は見る価値なし。3組目が、われわれの目当てのポップス・バンド「なう・おん・せーる」。最近はアニメの主題歌も歌うなど、なかなか活躍中のバンドである。演奏は良かったが、曲数が少なくてちょっと物足りなかった。
 O氏といっしょに浅草に移動。蔵を改造したギャラリー&カフェ「ギャラリー・エフ」へ。前述の山口剛氏がスタッフとして働いている店である。ここで開催中の写真展「EXPOSURE ヤマワキタカミツ vol.3 はいかい」を鑑賞。商店街のざわめきがBGMとして流れる暗い部屋に一冊のアルバムが置かれていて、鑑賞者はその中にある写真(カラーコピー?)を椅子に座って見るという、ちょっと変わった趣向だったのだが、個人的には悪い後味が残った。普通ではない見せ方で作品を見せたい、という作者の意図は理解できるが、あまりに作為的で、あざとさすら感じた。蔵というせっかくの独特の空間を、あえて使わないという方法で使う、というのは、意表をついたつもりかもしれないが、それで失ったものが大きすぎやしないか? 
 途中、浦安で下車。韓国料理店を見つけて小躍り。味噌チゲ定食。8時頃に帰宅。(つづく)
 
 
 
 

週刊鉄亀の読者の皆様、初めまして。
浅草、ギャラリー・エフの山口と申します。
9月18日、25日合併号にて、私どものギャラリーについて記述がありました。

粥川氏の意見に触発され、日頃から考えていたことをまとめてみました。
氏の意見がこの読者の皆様に届いていることもあり、
登録者全員に返信するというかたちをとりました。

しかしながら私の意見に興味のない方、そしてこのようなメールが
見ず知らずの人間から届くことに不快を覚える方がいましたら、
何とぞ、お許し下さい。

>●9月24日(日)
>
> 午前、友人O氏と日比谷公園で待ち合わせ。近くでブランチ。カメラなどの話題
>で盛り
>上がる。
> 午後から、日比谷公園の小音楽堂で、アマチュアバンド3組のライヴを鑑賞。最
>初の2組は見る価値なし。3組目が、われわれの目当てのポップス・バンド「なう・お

>・せーる」。最近はアニメの主題歌も歌うなど、なかなか活躍中のバンドである。演奏

>良かったが、曲数が少なくてちょっと物足りなかった。
> O氏といっしょに浅草に移動。蔵を改造したギャラリー&カフェ「ギャラリー・
>エフ」へ。前述の山口剛氏がスタッフとして働いている店である。ここで開催中の写真

>「EXPOSURE ヤマワキタカミツ vol.3 はいかい」を鑑賞。商店街のざわめきがBGMとして
流れる
>暗い部屋に一冊のアルバムが置かれていて、鑑賞者はその中にある写真(カラーコピー

>)を椅子に座って見るという、ちょっと変わった趣向だったのだが、個人的には悪い後

>が残った。普通ではない見せ方で作品を見せたい、という作者の意図は理解できるが、

>まりに作為的で、あざとさすら感じた。蔵というせっかくの独特の空間を、あえて使わ

>いという方法で使う、というのは、意表をついたつもりかもしれないが、それで失った

>のが大きすぎやしないか? 
> 途中、浦安で下車。韓国料理店を見つけて小躍り。味噌チゲ定食。8時頃に帰宅
>。(つづく)
 
 

「批評という共有」 text by 山口剛

 論理的な思考を習得する手法として「ディベート」というトレーニングがある。
ある事象について賛成と反対に分かれ、論理的な主張と討論を行なう。最終的にど
ちらが論理的であったかを審判が判定し、勝敗を決める。日本ではなじみが薄いが
、アメリカの教育現場ではごく一般的に行われている。あくまでトレーニングなの
で、自分の主義主張とは切り離して、与えられたテーマで、与えられた立場で考え
る。例えば「中絶は正しい」という命題に対して、「賛成」と「反対」に別れる。
1ゲームが終わったあとに、そのまま「賛成」と「反対」を逆にしてゲームを行な
うこともある。ゲームはゲームなので終わった後も、別にしこりは残らない。
 僕も学生時代にアメリカでディベートを体験し、帰国してから参加した学生のサ
ークルでこれを実践してみた。だが、ことごとくうまくいかなかった。やはり、論
理的思考よりも感情のほうが勝ってしまうのだ。自分本来の意見と架空の自分の立
場をうまく分け、論理を展開することができない人が多かった。なかには、「こう
やって勝敗を決することは意味がない」と反論してくる人もいた。企画をして者と
しては、そういう結果に終わり残念に思うとともに、日本人の論理的考え方に対す
る「考え方」を痛感した。
 そういう僕も論理的な思考と感情のバランスをうまくとることが重要だというこ
とに気がついたのはごく最近のことである。2年前から浅草のギャラリーの活動に
参加し、様々なアーティストの個展を制作する仕事を始めた。アーティストと議論
し、展示の方法についてアイデアを出し合い、そして実現に向け材料を揃えていく
。その作業を行なっていくなかで、自分なりの疑問が生じた。それは、「これだけ
エネルギーを注いでいるアーティスト達がいるのに、なぜ日本ではアートが力を持
つことができないのか?」ということだった。 
 複合的な要素がからみ合っているので一概に結論は出せないだろう。芸術教育、
政府の助成制度、歴史的背景による美術の位置、商業第一主義の考え方……。どち
らかというとネガティブな要素を挙げればきりがないのである。ただその中で僕が
痛感したのは、「批評の不在」という点だった。
 アーティストたちは、自らの中にある得体の知れぬものを表現している。そして
、その手段として絵画や彫刻、工芸、インスタレーション、写真などを選ぶ。その
得体の知れぬ実態に向き合い、真剣に考えるほど、既存の表現手段は当てはまらな
くなってくる。そのプロセスを経て誕生したものが作品である。アーティストにと
っては作品が完成した時点であるプロセスが終了する。ただし、その作品が本当の
意味を持つのは社会に発表されてからだと、僕は考える。
 僕は、アートは社会を循環させる装置だと考えている。アーティストたちは自己
のなかにある得体の知れぬ何かと向き合って作品を生み出す。その作品は社会に発
表されたとき、観客という共有者を得る。観客はその作品に出会ったとき、何かの
感情を生じさせる。もちろんすべての芸術作品に対してではない。だが、心の琴線
に触れる作品に出会ったとき、観客の中に新しい何かが生じる。何かを感じた者は
、またその感情を第三者に伝える。そうやって人の感情が伝わっていくことで、ア
ートは滞った社会を循環させていくのだ。
 作品の共有者を得ていくために、批評は大きな力を持つ。作品に対するある観察
者の目を通じて評価が人に伝わっていくことで、それを受けた者は「機会」を得る
のである。その評価に何かを感じた者には自分の目で確かめるという欲求が生じる
。作品はさらなる共有者を得ていくのだ。
 論理的に展開された批評は、アーティスト自身にとっても、自分には持ち得ない
視点を手に入れられる体験でもある。批判されることは当事者にとってはある意味
、重い体験である。ただ、視点を変え、第三者と「知」を共有していると実感でき
るのであれば、これほど有益な体験はない。そして痛烈で、筋の通っている批評で
あれば、あるほど、得ることは大きい。

 僕は、山脇隆光氏の個展について書かれた粥川氏の批評に、なんら反論するつも
りはない。発表行為というのは一発勝負だと思っている。アーティスト本人がどれ
ほど考え、そしてギャラリーとどれだけ議論を尽くそうが、観客が見た瞬間にすべ
ては決まる。そして、どんな種類の場所であれ、作品に力があれば、すべてのマイ
ナス要素は払拭される。それがアートの醍醐味でもある。
 ただ惜しまれるのは、氏の批評が個人的なメーリングリストで配信されたことで
ある。氏のなかで生じた感情、そしてそれを取り上げて文章を書くという行為が、
もし、作家本人に伝わらなければ、これほど残念なことはないと思う。なぜならア
ーティストはその批評を求めるために個展を行っているのだから。
 十年来の友人である、そして翻訳のパートナーでもある粥川氏の批評精神に、僕
はエネルギーを感じてきた。そして今、孤軍奮闘しながらその活動領域を広げてい
るその活動を僕は尊敬している。彼の発言はこれからさらに、あらゆる場面で意味
を持つようになってくるだろう。だからこそ、その批評を当事者たちと共有する行
為の重要性を再認識してもらいたいと思う。
 
 

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