動物もの番組
そのほか、NHKにいくつかある動物もの番組のほとんどは、原始以来の動物進化の過程で子孫を残すためにはメスを巡ってオス同士は争い、強いオスが勝利を掴んでいく法則に運命づけられているということを、あたかも人間も同様であると匂わせながら、それが動物にも人間にも当てはまる社会の法則、弱肉強食・競争に勝ったものが強い子孫を残すという厳しい現実であるかのように描きだし、ナレーションで語るのである。テレビを見る人は動物と人間とは異なるということは十分に知って見ているのだから、そんなことに目くじらを立てるなという人もいるであろう。しかし、毎日のように動物ものが放送され、つい見てしまう多くの人にとって、動物社会の法則が、人間社会の法則でもあるように錯覚するであろうことは間違いない。ジェンダーの問題として男女平等社会を目指す人ならば、政治家や芸能人の世襲が多いことを憤慨している人ならば、テレビの動物ものの構成の仕方、演出過剰を問題にすべきである。
NHKの娯楽番組の一つ一つについて、正当な批評、メディアリテラシーの徹底が望まれる。大河ドラマの政治性、朝ドラの価値観について、もっと鋭い、まともな疑問が対置されない限り、NHKはぶっつぶれないであろう。
テレビの堕落
テレビ各局がぞくぞくとBS放送電波を出すようになったころから、地上波テレビの堕落は目立つようになった。1970年代には、番組ごとのCMの秒数規制があったが、今日ではCMがやたらに長く、CMの中に番組の断片が挟まっているかのようである。しかもCMの音量や周波数に関する規制もあるはずだが、ほとんど無視されているかのようだ。
CMも含めてグルメ関係が多く、日本人は、こんなにも美味しいものを食べ、快適な生活用品を使い、家族は美しい愛情に囲まれて生きていると錯覚させられる。そうしたCMの直後に児童虐待や心中事件の報道があっても、それはドラマの一コマ、あるいは負け犬側の出来事でしかなく、自分の中でどちらの心情に荷担すべきか迷ってしまうのが人間の感性ではあるまいか。テレビの罪は重い。
2020(にいまるにいまる)を前にしてテレビが日本を元気にするのだといわんばかりに、怒鳴る、絶叫する調子の演出がドラマにもスタジオものにも蔓延している。ナレーターやアナウンサーはかん高い声の人が多用され、2人でも3人でも同時に大声で喋ることも大いに推奨されているかのようである。
ニュースショー番組の多くは平気で“嫌韓一色”に染まり(週刊ポストだけがやり過ぎなのではない)、他国の政治問題を日本経済への影響という視点でしか見ないような傾向が続いている。ほとんど唯一テレビ朝日のモーニングショーがそうした傾向を押さえて常識の大切さを提起しているのが、珍しく感じられるくらいだ。
上記したテレビの変化と現状につき、電通・博報堂などによる牽引力の責任は大きい。だが、それを忖度するテレビ局幹部の責任が、より大きいことは言うまでもない。テレビは、“国民の財産”であるはずの電波を、生産することなく割り当てられて使っているだけなのだ。