科学技術と文化
最近大騒ぎになっている「あおり運転」にしたところが、“とんでもない乱暴者がとんでもない運転を”と言うけれども、ドライブレコーダーで被害を訴えている人、車を運転する多くの人に、もう少し冷静になってほしいと言いたくなるような事例がある。「あおられた、怖かった」と大騒ぎする前に、「ああ、道を急いでいる人がいるな」と考えて自分はゆっくり走っていれば、それでいいではないか。そもそもこの狭い国土の狭い道路を無視して、こんなにも自動車ばかり販売した側にも何らかの反省はしてもらいたい。高齢者がアクセルとブレーキを踏み間違えたと言うが、だったらそのような間違えの起こらない自動車を製造するという発想をもっと早くから持つべきではないのか。高速道路の設計・運営・案内にも問題山積だ。
科学技術の歪み
冤罪「湖東記念病院事件」において警察は、看護助手が人工呼吸器のパイプを外して患者を殺したとし、その場合自動的に鳴るはずの警告音は器械の設計上、止めることができ、1分後に再び鳴り出すようになっているので、60秒を数えて警告音を再び止めるというややこしいやり方を「自白」させた。
しかし、警告音というものが鳴らないように止めることもできるという器械装置とは一体何だと考えるのが常識というものではあるまいか。火事が起きると火災報知器のスイッチは切られていた、電車事故が起きればブザー音は切られていた‥‥それでは警告の意味をなさないではないか。ヒューマンエラーを防ぐためには警告音を切ることができないようにしておくというのが本当の防止策ではないのか。少なくとも二重の安全装置を考えておくべきではないのか。
科学技術というものは、もっと文理的な人間学を、つまりは常識と文化を尊重しなければならないというのが筋ではないのか。こういうことを言うと、そんな手間のかかる技術にはコストがかかり過ぎて普及しないと、訳け知りの反論をする人がいる。つまりその議論は絶対多数の利益のためには少数は犠牲になっても仕方がないという統計論なのだ。
私は、政治家にしろ企業家にしろ官僚にしろ、コスト論を言うのであれば、“安心・安全”という呪文のようなスローガンを口にすることをやめろ!と言いたい。“安心・安全”も信用できないし、東北大震災・原発事故直後から盛んに言われている“絆”も信用できない。そもそも、2011年のあの混乱の中で、いち早く“絆”というスローガンを考え出したのは誰か?