(信濃毎日新聞2002年9月10日付・夕刊)
山 口 泉
いま、まさに私たちは、人類史上かつてない地球規模の追悼と服喪のキャンペーンに包み込まれつつある。
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昨二〇〇一年九月十一日、世界で最も富を蓄積し、最も強大な軍事力を装備した国の“繁栄”を象徴するとされる建造物に、二機の旅客機が突入した。その一機目の衝突時刻、午前八時四十六分にちなみ、世界各地の合唱団が、おのおの、自国のその時間に合わせてモーツァルトの「レクイエム」を演奏・合唱するという。結果として丸一日を費やし、献奏が地球を一周するイベントは、アメリカはもとより日本を含む世界各国で参加合唱団を得、ほどなく始まろうとしていることだろう。
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かつて同様に日本のテレビが、ベトナム戦争の、湾岸戦争の、そしてアフガニスタン「空爆」の夥しい現地犠牲者の追悼式典の模様を実況中継したことがあったか。
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前記のイベント「ローリング・レクイエム」に関しては、開催直前になっても、まだ五つの時間帯地域からの参加表明がなされていないことに、主催者のホームページは不満の色を露わにしている。参加表明がないと挙げられているのが、太平洋の島島やバングラディシュ、インド、パキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンやキルギスタン等等の国が存在する地域であることを、私は現在の世界の不平等の底で苦しむ人びとの、無言の、最後の不同意のようにも感ずる。
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二〇〇一年九月十一日を境に、世界は変わったという。
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にもかかわらず、アメリカが史上初めて“自国本土に受けた攻撃”と喧伝される「同時多発テロ」は、それまでこの超大国が直接・間接に関与してきた問題のすべてを隠蔽し、逆に全人類が共有すべき唯一最大の悲劇として「9・11」を布告する、という役割を果たした。
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何より危ういのは、「9・11」があたかも「現在」を語る上での最大公約数めいたキーワードででもあるかのような思い込みにほかならない。そこに陥り、すべてをその文脈のなかで【語らされる】(=傍点)ことにほかならない。
そして明日、日本でも、テレビはかの国の追悼式典の模様を全国に生中継すると聞く。
あるはずはない。そもそも彼ら死者のためには、こんな「世界各国」からの花や供物、「鎮魂歌」が寄せられるような追悼式典など催されはしなかったのだから。
そして、同様に参加表明などなされてはいないにもかかわらず、この「欠席」国名リストから、あえてアフガニスタンが外されていることに、私はもう一つの印象を覚える。「テロへの報復」のスローガンのもと、世界で最も富んだ国に蹂躙されつくした、世界で最も貧しいこの国が、さながら地球上に存在してすらいないかのように取り扱われていることに。
なるほど、唯一、ある意味でなら、世界は変わったと言えよう。それは「9・11を境に世界は変わった」という言説が登場し、大手を振って流布しはじめたことだ。私には、それは二十世紀を棒引きにするための強弁とも詐術とも思える。
「9・11」以前も以後も、アフガニスタン民衆は苦しみつづけ、イラクや朝鮮民主主義人民共和国の子どもたちは飢え、病み続けている。二十世紀後半からいよいよ固定化されてきた現在の世界構造における不平等や差別、搾取や抑圧は、世紀の変わり目を閲(けみ)しようと「9・11」を経ようと、強まりこそすれ、いささかの揺らぎもない。
しかもそれは、現在も続いているアフガニスタンへの、核兵器以外のあらゆる兵器を投入しているといわれる「空爆」に、またイラクに対する核攻撃をも含む可能性が深刻に懸念される、目前に迫った「第二次湾岸戦争」に、ありうるはずのない名目を与える道筋をつけている。
結果的にそれらの「言論」は、不断の関連性、加害と被害の構造の上に成り立ってきた歴史を、「9・11」以前と以後とに、いとも無造作に切断してしまう。「9・11以後としての現在」が、あまりにも安易に自明の前提として「共有」され、そして「9・11以前」のいっさいは、そっくり隠蔽され、湮滅(いんめつ)されようとしている。
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