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上原善広著『路地の子』等「路地」三部作を読む



 

 

『路地の子』

 上原善広著『路地の子』(新潮社)読んだ。著者は被差別出身のルポライターで、この本は彼の父・上原龍造氏(彼は解放同盟とは別の同和会系の組織に属し、食肉業を生業として生きた。)の生涯を辿り、その帰結を著者の自分史と重ねて叙述した、自伝的ノンフィクションノンである。「路地」とは被差別部落を指している。私は現職の時、被差別部落を校区に持つ学校に長らく勤めた。またこの本の更池地区には先輩教師が住んでいたことがもあり、若い頃によく泊めてもらったなつかしい場所である。「私たちは、どこに住もうが更池の子であるということだ。(略)かって路地がなくなれば、人に蔑まれることもなくなると考えらた時代もあった。(略)しかし逆説的なようだが、更池の子らが故郷を誇りに思えば思うほど、路地は路地でなくなっていくのではないだろうか。」(「おわりに」)非常に読み応えのある本だった。著者の本は他に『日本の路地を旅する』(文藝春秋)、『差別と教育と私』(文藝春秋)がある。

『日本の路地を旅する』

 引き続き上原善広著『日本の路地を旅する』(文藝春秋、2009年12月刊)読んだ。実は丁度『路地の子』を読んでいたとき、本の山が崩れ、この本が出て来たのだ。なんとグッドタイミング。この本は日本の「路地」(被差別部落)を訪ねて歩いた本でる。私は昔、被差別部落史に興味があり、熱心にその本を読んだことがあった。著者が訪ねた「路地」は新宮(プロローグ)、大阪(ルーツ)、青森・秋田(最北の路地)、東京・滋賀(地霊)、山口、岐阜(時代)、大分・長野(温泉巡り)、佐渡・対馬(島々の忘れられた路地)鳥取・群馬(孤独)、長崎・熊本(若者たち)、沖縄(血縁)と広範囲、多岐に亘る。実に興味深い本だった。圧巻は終章の沖縄(私の京太郎)だった。沖縄には部落はないのだが、沖縄芸能「京太郎」は日本からもたらされたもので、その淵源と現在を探り、あわせて訳けあって沖縄に逃げた「兄」を訪ねる旅である。「各地の路地を訪ね歩くことで、少しずつ自分の心の中で傷つき途切れた糸をつむいでいたのだろう。路地の歴史は私の歴史であり、路地の悲しみは、私の悲しみである。私にとって路地とは、故郷というにはあまりに複雑で切ない、悲しみの象徴であった。」(「終章」)

『差別と教育と私』

 以前に買い置いていた上原善広著『差別と教育と私』(文藝春秋、2014年3月刊)読んだ。この本を買ったのは、以前橋本徹大阪知事(当時)の出自をめぐっての「週刊朝日」の佐野眞一の連載(第1回で中止された)に関する雑誌等での様々な論評のうち著者の論評がひと味違っていて興味を持ったことによる。この本は、松原市更池地区に生まれ、小学校で「部落解放教育」を受けた体験から始まり、中学校で「部落民宣言」をした体験を対象化しつつ、90年代以降なぜその教育が崩壊したのか問いかける。私は現職教員だった時、14年間「同和教育推進校」(小学校10年、中学校4年)に勤めた。現在の地点から顧みると、功罪のうち罪の方が多いのではないかと思うので、著者の現時点から捉え返した本書の内容は納得のいく所が多かった。この本で特に関心を持ったのは、「兵庫・八鹿高校事件顛末」「広島・世羅高校事件の転機」だった。当時認識できなかった様々な問題が著者の執拗なルポルタージュにより浮き彫りにされる。実に真摯な本だった。

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