大岡昇平著『レイテ戦記1』(中央公論社、1972年版)を読んだ。今月末に岐阜におられるレイテ戦生き残りの方とお会いするので、この機会に是非読んでおこうと思って読んでいる。個人の戦争体験記、「戦記」を越えたところの、非常に客観性の高い作品であることが魅力だ。作者のすごいエネルギーがこめられている作品なので、読み切るのにエネルギーがいる。大岡はオーウェルの詩「悲運に倒れた青年たちへの賛歌」を引きながら、「私はこれからレイテ戦の戦闘について、私が事実と判断したものを出来るだけ詳しく書くつもりである。七五ミリ野砲の砲声と三八銃の響きを再現したいと思っている。それが戦って死んだ者の霊を慰める唯一のものだと思っている。それが私の出来る唯一のことだからである。」とその意図を述べる。
1巻目は、レイテ戦の中核だった第16師団の出発から、米軍の上陸、日本軍の抵抗、レイテ沖海戦、初期特攻(海軍特別攻撃隊)、リモン峠の戦いまでだ。レイテ沖海戦の箇所では、「空から降ってくる人間の四肢、壁に張りついた肉片、階段から滝のように流れ落ちる血、艦底における出口のない死などなど、地上戦闘では見られない悲惨な情景が生まれる。海戦は提督や士官の回想録とは違った次元の、残酷な事実に充ちていることを忘れてはならない。」と述べ、そのあとに戦艦「武蔵」の沈没時の証言(渡辺清等)を引く。あらためて渡辺清の著作『戦艦武蔵の最後』『砕かれた神/ある復員兵の手記』を読まなければならないと思った。最後は、第1師団の幸運な輸送の成功も束の間、米軍の制空権の制覇により次第に補給は困難となり、リモン峠の悲惨な戦闘へと進んでいく。
この巻で気になったことは、特攻が自己目的化した後期のそれは否定しながらも、初期特攻については一定の評価をするところだった。大岡もやはり時代の人であったのかと思った。その箇所は次の通りである。
「しかしこれらの障害にも拘わらず、(中略、特攻の「戦果」を記述)、われわれの誇りでなければならない。
想像を絶する精神的苦痛と動揺を乗り越えて目標に達した人間が、われわれの中にいたのである。これは当時の指導者の愚劣と腐敗とはなんの関係もないことである。今日では全く消滅してしまった強い意志が、あの荒廃の中から生まれる余地があったことが、われわれの希望でなければならない。」
大岡昇平著『レイテ戦記2』を読んだ。読み終わるのに1週間かかった。なかなか読み進まないのは、レイテ島の地名・地勢がいまひとつ飲みこめないのと、私の世代にとっては米日の戦争の結果は日本の敗北と自明のことであり、戦闘に肩入れする訳ではないからだと思う。本の中の「地図」にあたりながら読む訳だから、時間がかかる。2巻目は、レイテ島への輸送作戦(多号作戦)から始まり、脊梁山脈・リモン峠・ダムラン・ブラウエンの戦い(文字通り悲惨な「死の谷」の現出)、そして、米軍の上陸とオルモック湾の戦いと続き、壊滅に到る。大岡昇平は死者(戦友)への鎮魂の気持ちをこめて、それも感情を抑制しながら、書く。その執念はすごいと思う。次の叙述にそれが感じられる。「大きな戦争の歯車の動きから見れば、リモン峠のような局地の作戦計画など、いずれ五十歩百歩だったといえる。しかしそれは現にその場にあって戦っている将兵にとっては、生きるか死ぬかの問題であった。(中略)私がリモン峠の諸隊の行動を逐一報告しなければならないのは、それが壕の中にうずくまった兵士の生死に関係しているからである。」
読んでいて、大岡の鎮魂の気持ちともうひとつ微妙に拮抗している感情があると感じた。それは死者の奮闘を「称える」気持ちであり、本のそこかしこに散見する。その気持ちは戦場で生き残った大岡の負い目から来ているのかも知れない。それを引く。「とにかく、6日朝、ブリ飛行場を攻撃した150名の兵士がいたのは、師団の名誉でなければならない。」「切込隊は主として20連隊と9連隊の残部から編成されたらしい。(中略)これはレイテ島の戦闘の経過に現れた最も勇敢な行動の一つである。」
この巻で興味を引かれたことが2つある。ひとつは、ブラウエン飛行場への胴体着陸による斬込隊の派遣、それは台湾の「高砂族」からなる遊撃隊であったことである。最近、霧社事件を描いた映画「セデック・バレ」を見たこと(実際に私は以前「霧社」に行った)があり、興味を持った。もうひとつは、特攻に関して、「(搭乗員佐々木友治伍長は)特攻隊中の変り者で、自分の爆撃技術に自信があり、体当たりと同じ効果を生めばよいのだという独自の信念の下に、爆弾を切り離して生還したのであった。」「伍長は再び生還した。その後何度出撃しても必ず生還し、二ヵ月後エチヤゲ飛行場で、台湾送還の順番を待つ列の中に、その姿が見られたという。」こんな人がいたのだ。その人のその後を知りたいと思った。さて、これで最後の巻に入る。
大岡昇平著『レイテ戦記3』を読んだ。1、2巻とも読み終わるのに1週間程かかったが、著者の叙述の感覚がつかめたのか、3巻目は3日で読み終わった。最終巻は、日本軍の揚陸拠点であったオルモック湾の陥落後の敗走過程で、極めて悲惨な実態が綴られる。内容は、リモン峠の日本軍の「転進」(敗走)、敗軍の実態、日本軍のレイテ決戦放棄、西海岸のカンギポッドに集結した敗軍を小型船艇で撤退させる「地号作戦」(その多くは米軍に沈没させられた。)、取り残された日本軍の無残な「自給自戦永久抗戦」等である。敗残兵の実態は悲惨であった。「食糧は尽きていた。小銃を持っている者もそれを捨て、弾薬盒、帯剣も捨て、ただ野草を煮るための飯盒だけを腰にぶら下げて、三々五々気の合った者が連れ立って歩く、幽鬼ののような姿であった。」その悲惨な記述を読むと、「自給自戦永久抗戦」とは何だ!と怒りがこみ上げる。(「『自戦』とは妙な言葉だが、要するに今後補給してやれないが適当にやれということである。」大岡)レイテ戦に投入された日本軍兵力は約8万4000人、うち生還者は約2500人、戦没者の割合は実に97%であった。(「終戦までレイテに生きていた兵隊は殆どなかった、といことの方が確かな「事実」なのである。」大岡)
最後の「エピローグ」は力が入っている。レイテ戦敗北から日本の敗戦までの日米の政治状況と戦後の政治過程の分析、フィリピンの植民地化過程と日米の資本主義の責任、戦後復興過程でのアメリカ資本によるフィリピン従属過程の分析にまで及んでいる。この版の後に出た文庫本の『レイテ戦記』(中公文庫、1974年版)も目を通したが、著者は「レイテ戦」についてその後判明した事実の補正、フィリピン現代史の部分の補正までされていた。『レイテ戦記』にかける著者の思いが伝わってくる。全巻を読み終わって、充実感が残った。これで、レイテ戦の生き残りの方と今月末にお会い出来る心の準備はできた。
ただ、1巻目でも触れたが、「エピローグ」の次の箇所に「果たしてそのように考えていいのか?」と疑問が残った。
陸軍特攻についての箇所。「この戦術はやがて強制となり、徴募学生を使うことによって一層非人道的になるのであるが、私はそれにも拘わらず、死生の問題を自分の問題として解決して、その瞬間、つまり機と自己を目標に命中させる瞬間まで操縦を誤らなかった特攻士に畏敬の念を禁じ得ない。死を前提とする思想は不健全であり扇動であるが、死刑の宣告を受けながら最後まで目的を見失わない人間はやはり偉いのである。」
太平洋戦争と国民について。「国家と資本家の利益のために、無益な国民の血がそこで流された。日本国民は強いられた戦いにおいて、その民族的な国家観念と、動物的な自衛本能によって、困難に堪え、苛酷な死を選んだ。軍隊が敗北という事態に直面する時、司令官から一兵卒に到るまで、人間を捲き込む悪徳と矛盾に拘わらず、よく戦ったのである。」
4)全巻を読み終わって
『レイテ戦記』にいたるまでの私の思考過程は、靖国神社合祀取消訴訟の原告だったことが元で、1950年代の靖国神社遺児参拝の実像を探るところから、私と(同じく靖国神社遺児参拝に行っていた)私の先輩の父の戦死の事実過程を調べはじめ、そのたどりついた結果は大岡昇平著『レイテ戦記』だった。1950年代の靖国神社遺児参拝の実像を究明することは、55年前の中学生3年生時の私と私の母を取り巻く戦争の記憶を想起し、出来るかぎり事実を調べて、その時代(1950年代)の戦争をめぐる社会と心性を思い描くことであった。そして、私は中学3年生時の担任を探し出し、お会いすることができたし(残念ながら当時靖国神社遺児参拝があったことを先生はご存じなかったが)、来月には50年ぶりに当時のクラスの同窓会を開く予定になっている。そのなかであの時代の「空気」に何ほどか近づけたらなあと思っている。また、中国で戦死した私の父と戦争、ホロ島(フィリピン)で戦死された先輩の父と戦争を思い描き、また『レイテ戦記』に描かれた将兵の死に思いをいたすこと、これは私が生まれた頃の70年も前の時代であり、さらなる「想像力」を必要としてくる。そのような想像力を持つようにしながら、あの「戦争の時代」を考えていきたいと思っている。
『レイテ戦記』を読み終わった直後、内田正敏著『天皇を戴く国家/歴史認識の欠如した改憲はアジアの緊張を高める』(スペース伽耶)を読んだ。次の箇所に注目したので書き記すしておく。「非業の死を強いられた死者たちの無念さに対する鎮魂は、ひたすらその死を悼むことであり、それに尽きる。死者たちを決して称えてはならない。称えた瞬間から死者たちの政治的利用が始まり、『悲惨さ』が薄められ、加害の視点が曇らされることにことになる。」非常に鋭い視点であり、同感である。
(2013・6・18)