1)『敗残の記/玉砕地ホロ島の記録』(藤岡明義) 2012 12/28
藤岡明義著『敗残の記/玉砕地ホロ島の記録』(創林社、中公文庫)を読んだ。いずれもアマゾンの古書で手に入れた。今、私は先輩のお父さん戦没地を調べている。太平洋戦中の激戦地のフィリピンのホロ島がその地である。著者はホロ島の生還者で、ホロ島では6030人が亡くなり、生還者は80人に過ぎなかった。その敗走戦は、「飢餓と炊飯と雨(雨が降ると火が燃えず炊飯ができない)」に苦しめられた悲惨極まるものであった。それは兵隊を消耗品と見る日本軍の体質が多くの将兵の無残な死をもたらしたことでもあった。さらに驚いたことは、「投降」自体が容易でないことだ。日本軍が投降を禁じていたこととジャングルの中を投降指定地までたどり着くことが非常に困難なことだ。著者の非常に冷静で理知的な態度がこの困難を乗り越えることを可能としたことが読み進めるうちによく分かった。この本に続けて、大岡昇平の『レイテ戦記』(中央公論社)『俘虜記』(新潮文庫)を読み続けてみようと思う。
このなかでイスラーム系のモロ民族の襲撃が頻繁に出てくるが、著者はモロ民族の特徴を「すべて熱心なる回教徒であるが、其の排他、背信、獰猛、精悍、残忍性」とし、随所にモロ民族への嫌悪感、憎悪感、襲撃の恐怖が現れている。しかし、よく考えてみると、日本軍の侵略で土地と食料、そして人命を奪われた彼らの怒りと抵抗は当然のことであろう。私の父は中国河北省で戦死しているが、この著者の現地人への視線は、中国戦線での日本軍の八路軍や国民党軍への視線、もしかして父の視線でもあったのではないかとはたと気がついた。それともう一つ、モロ民族は鶴見良行の『マングローブの沼地で』(朝日新聞社)や『海道の社会史』(朝日選書)では、「海洋系の交易民族」として描かれているが、『敗残記』では「山岳系のゲリラ」とのみ見ている。この点については、鶴見さんの著者を読み直してみようと思う。
2)『金子克巳と昭和の時代』(伊藤美代) 2013 1/9
伊藤美代著『金子克巳と昭和の時代』(私家本)を読んだ。この本は、お兄さんがフィリピンのスールー諸島のホロ島で戦死さた、その妹さんのお兄さんへの回想記である。金子克巳さんは、1945(昭和20)年4月5日にホロ島テンバンガン三叉路付近で米軍の爆撃で亡くなられている。(日本軍がシロマン山へ敗走する前である。)私は今同じくホロ島で亡くなられた先輩のお父さんの戦死の状況を調べていて、ネット上の「日本の古書店」でこの本を見つけて購入し、読んだ。機縁である。この本は、お兄さんの生育史、戦死されるまでをたどる第1章、伊藤さんがなぜ回想記を書こうと思うにいたったか、お兄さんの戦死の状況を調べ歩く過程をまとめた第2章、同窓の方の座談会・回想記の第3章から構成されており、亡くなられたお兄さんへの妹さんの思いと愛情がこもった回想記だった。靖国合祀取消訴訟で原告としてご一緒した古川佳子さん(古川さんは二人のお兄さんを戦争でなくならされている)が語られたことや文章を思い起こしながらこの本を読んだ。本の最後の方で、お兄さんへの思いを短歌にされているが、そのうちいくつかをあげておく。
ホロ島の土となりたる兄連れたしちちはは眠るこのふるさとへ
ただ一枚残りし戦死の兄の写真柩に入れて母旅立ちぬ
フィリピンに戦死したる兄思い戦記むさぼる初老の我は
<目次>
はじめに
第1章 金子克巳の歩んだ道
第2章 昭和63年夏から秋へ
第3章 回想「金子克巳君と私」
おわりに
3)『俘虜記』(大岡昇平) 1/18
大岡昇平著『俘虜記』(新潮文庫)を読んだ。これから読む予定の大岡昇平の本の1冊目だ。『俘虜記』の最初は「捉まるまで」で、ジャグルで捕虜になるまでの敗走記であり、これは短い(これに関連して、この後の作品『野火』は前に読んでいるが、再読してみようと思った)。このなかで圧巻は「米兵をなぜ射たなかったか」という問いと考察である。続いて、「米軍野戦病院」での病院生活、さらに「俘虜収容所」の集団生活が活写される。収容所での日本人の「社会」「行動」が詳細に記されるが、読んでいて、収容所生活は「日本社会の縮図」と思った。著者は「俘虜収容所の事実を藉りて、占領下の社会を風刺する」(「あとがき」)とその意図を説明するが、なるほどと思った。その後、敗戦によって、俘虜に一種の「堕落」「俘虜の戦後」が始まったことが辛辣な筆致で描かれる(「新しき俘虜と古き俘虜」から「帰還」まで)。この本を読み始めた最初は、描かれている「時代」になかなか入りきれず(僕が生まれて1年後から2年後の時代だ!)、なかなか読み進めなかったが、途中からぐんぐんと引き込まれ、後は一気に読み終わった。最後の「附 西矢隊始末記」は、漢文調(漢字とカタカナで表記)で無駄なものをそぎ落とした、簡潔明瞭な「戦記」で、その文章力に感嘆した。続けて、『野火』を再読するつもりである。
*『俘虜記』のなかで大変驚いた箇所がある。なんということだろう!「彼はセブの山中で初めて女を知っていた。部隊と行動を共にした従軍看護婦が、兵隊を慰安した、一人の将校に独占されていた婦長が、進んでいい出したのだそうである。彼女達は(中略)一日に一人ずつ兵を相手にすることを強制された。山中に士気の維持が口実であった。応じなければ食糧が与えられないのである。」(446ページ)
4)『金子克巳と昭和の時代その後』(伊藤美代) 1/21
伊藤美代著『金子克巳と昭和の時代その後』(私家本)を読んだ。この本は、前著『金子克巳と昭和の時代』の感想を伊藤さんにお送りした所、お手紙と新聞記事を添えてこの本を送っていただいたものだ。前著は25年前の本であり、出版から数えると伊藤さんも80歳を消えておられるだろうから、連絡がつくかどうか心配だった。(ホロ島の生存者で『敗残記』を書かれた藤岡明義さんにもお手紙をお送りしたが、届かず返送されてきた。)伊藤さんへの手紙は届いたということであり、大変うれしいことだった。伊藤さんのお手紙と『金子克巳と昭和の時代その後』によると、前著の出版を機にホロ島からの生還者と巡り会うことができ、1989(平成1)年にホロ島に渡航でき、現地で遺族の方々と慰霊祭を催すことができたとのことだ。『金子克巳と昭和の時代その後』にはその経過が丁寧にまとめられている。私が特に感動したのは、伊藤さんが戦死されたお兄さんに出された(それは建立されたお地蔵さんの台座に納められた)手紙「拝啓、金子克巳様ー返事の来ない手紙ー」だ。1945年4月に生を閉ざされたお兄さんに金子家のご家族の戦後の「生」を報告されているのだが、戦後をお兄さんとともに生きることができなかったご家族の悲しみと無念さが、その背後から聞こえてくるように感じた。私の先輩のお父さんの戦死の状況を調べるなかで、ホロ島関係のいくつかの本と伊藤さんと出会うことができ、ほんとうに機縁というものがあるのだと感じた。ありがたいことだ。
<目次>
序にかえて
回想記の読後感からの抜粋
金子のゆかりの人たちとの邂逅
ホロ島戦没者慰霊行
あとがき
5)『野火』(大岡昇平) 1/23
大岡昇平著『野火』(新潮文庫)を読んだ。この本を以前に読んだつもりだったのだが、読み始めて「読んでいない」ことに気がついた。なぜ読んだと思ったのかというと、昔(1983年秋)、映画館を借り切って友人たちと映画会をやっていたのだが、そのとき「野火」(市川崑)をやったことがあり、その頃に読んだと勘違いをしていたのだ。(当時の手帳で読んでいないことが確認できた。)この本は薄いものだが、中身が濃く、また透明感あふれる文章で、感嘆しながら読んだ。レイテ島で生死の間を彷徨う田村が無人の教会に入ると「デ・プロフンディス」(われ深き淵より汝を呼べり)とい言葉が響き渡る。それはその後フィリピンの女を銃で殺すことや、飢えのなかでの人肉食の禁忌との葛藤の伏線となり、身震いを感じた。出会った将校が死に、その屍体を食べようするとき、剣を持つ右手首を左手が握り、制止する箇所(「左手は私の肉体の中で、私の最も自負している部分である。」)、生還して帰国後、精神病院に入院し、それは拒食症として現れる。失われた記憶を復元するなかで辿り着いた結論が、「思い出した。(中略)殺しはしたけれど、食べなかった。殺したのは、戦争とか神とか偶然とか、私以外の力の結果であるが、たしかに私の意志では食べなかった。」であった。それは一種の「救い」である。作者は、戦場の極限=人肉嗜食に踏み切らなかったのはなぜかと問い、そこに「神」を想定する。それが救いになるかは私には分からないが、戦争の極限状態を突きつめた作者の力業に深い感銘を受けた。今後(2月には余裕ができるので)、同じ作者の『レイテ戦記1~3』(中央公論社)に挑戦しようと思う。また、可能ならば、ずっと昔に買っている同著者の『堺港攘夷始末』(中央公論社)も読んでみたい
6)『鬼哭の島』(江成常夫) 1/31
江成常夫の写真集『鬼哭の島』(朝日新聞出版)読んだ。「鬼哭(きこく)」とは、唐の時代に文人・李華が戦場で逝った兵士を弔う文中に「浮かばれない亡魂が恨めしさに泣く」意で記した言葉である。この写真集は、著者が太平洋戦争で戦没した将兵の跡を太平洋の島々に訪ねて撮ったものである。実はこの写真集を一昨年の10月に買っていたのだが、内容が重く、正対して読み切れず、置いたままだった。この間、早死に死した友人のお父さんがニューギニア戦線の生き残りであったこと、先輩のお父さんの戦没地がフィリピンのホロ島であったことに出会い、いろいろと調べたり、考えたなかで、この写真集にやっと向かうことができ、読み切れた。写真集の対象地域は、オアフ島(ハワイ)、コレヒドール島からミッドウェー海戦、ガダルカナル島、ラバウル・マダン(パプアニューギニア)、ビアク島(インドネシア)、トラック諸島(ミクロネシア共和国)、ペリュー島・アンガウル島(パラオ共和国)、レィテ島・ルソン島(フィリピン)、サイパン島、テニアン島、グアム島、硫黄島、沖縄県の多きにわっている。各島の写真群に生き残りの兵士や近親者の聞き取りが配され、涙なしにはページをめくれなかった。江成常夫の写真集には、戦後アメリカに渡った戦争花嫁を撮った『花嫁のアメリカ』、著名人の肖像を撮った『百肖像』、中国残留孤児の今を撮ったの『シャオハイの満州』等があるが、私は彼の写真がとても好きだ。今回も大きな感銘を受けた。大事にしたい写真集だ。
7)『ホロ島戦記/独立混成第五十五旅団砲兵隊第二中隊員の手記』(奥村達造) 2/14
奥村達造著『ホロ島戦記/独立混成第五十五旅団砲兵隊第二中隊員の手記』(1980年、私家本)を読んだ。私の先輩のお父さんの戦没地がフィリピンのホロ島であるので、この本を奈良県立図書情報館で閲覧した。県立図書情報館はなかなかいい図書館で、「戦争体験文庫」という戦争に関わる記録、書籍を集めていて、大変興味深い「図書情報」が入手できる。奥村達造氏は、前に読んだ『敗残記』の著者藤岡明義氏と同様ホロ島の生き残りの方だ。奥村さんは砲兵隊員で、先輩のお父さんは工兵隊隊長であり、戦場での行動は別であり、直接の情報はない。しかし、この本はできる限り文献にあたり、他の部隊の戦場での悲惨な体験も把握しようとしており、先輩のお父さんがどのような状況で亡くなられたかを推測でき、大変ありがたかった。また、この本は亡くなった戦友への思いがこめられていて、多くの戦友の戦死の状況と個別の名前を書き残そうという執念がこもっている。「私はこのとき(ホロ島からミンダナオ島の捕虜収容所に送られるとき)、遠ざかりゆくホロ島の浜辺に、戦友達の姿を見た。痩せさらばえて、ジャングルの中に死んで行った戦友達が、浜辺にひしめきあって声を限りに呼んでいる姿を。『おうい、行ってしまうのかあ、俺達も連れていって呉れえ』」(「まえがき」)さらにこの本は、敵であったモロ族のゲリラに対する恐怖を強く書きこむとともにスペイン・アメリカ・日本の植民地支配とそれに対する民族抵抗の歴史にも目を向けており、公平で客観的な叙述に感心した。また、この本には戦場での『敗残記』の藤岡さんの投降の情報も伝わっていた事実が書かれており、すごいことだと思った。奥村さんは戦争前に「電信局に勤めていた」と書かれているが(戦後も復職されたのだろうか)、このような過酷な体験を経て戦後どのように生きられたであろうかと興味を持った。年齢的のご健在の可能性は少ないが(事実、藤岡さんに出した手紙は宛先不明で帰ってきた)、奥村さんに連絡を取ってみようと思っている。大変得がたい本に出会えて、うれしかった。