最高裁の上告棄却に強い怒りを覚えます。霊爾簿から父の名前を抹消してほしいというごく当たり前の要求がなぜ認められなかったのかと思います。
裁判は敗訴しましたが、靖国神社合祀取消訴訟に参加できたことは、私にとって大変大きかった思います。「陳述書」に書きましたように高校3年生の時に「父の戦死」をめぐって次のような母とのやりとりがありました。
「お母ちゃん!うちのお父ちゃん、戦争に行ってるんやから、向こうで(中国で)人、殺しているはずや」。真っ青な顔になった母は、「うちのお父ちゃんは、虫も殺さんええ人やったから、絶対そんなことあらへん!」と私の言葉を撥ね返しました。この問いが母から拒絶された後、その問いをふたたび母に向けることはできませんでした。一方で、父はアジアの民衆を殺す側にいたという認識は強まっていきました。
2007年3月に母が亡くなり、6月に父の合祀通知を母の遺品の中から発見しました。こんな紙一枚が父を「神」にしたのかと思い、ほんとうに腹立たしく感じました。その後、8月に1年遅れて裁判に合流しました、同時に、中学校3年生時の遺児参拝から50年目に靖国神社を再訪し、合祀の取消を求めましたが、靖国神社側から拒否されました。この時、遊就館を見学し、「御羽車」を見て、「うちの父親(の名前)もこれに乗せられ、こんな形で『神』にさせられたのか」と背筋が寒くなり、合祀取消を実現し、父を取り戻したいと切に思いました。
高裁結審の直前の2010年6月に、私は中学校3年生時(1958年)の靖国神社遺児参拝文集「靖国の父を訪ねて(第12集)」を本棚の底から再発見しました。そこには私の文章「もう一度行こう靖国へ」があり、「私はなんとなく父は立派な死に方をしたのだなあと思った」とありました。「これが当時の私の認識だったのか?」と愕然とし、そして、当時の私は戦後版の「少国民」だったのではないかと思いかえしました。
分厚い遺児参拝文集を読み進めるうちに一人の少女の文章を見つけました。その少女は、「『もう沢山』と叫びたいのを押えながら、すすり泣きの聞える中を、私は終わりまで神主さんの顔を凝視してやめなかった。『寒い凍れるような雪の中、夏は太陽の下で国の為に雄々しく戦い死んでいかれたあなた方のお父さま』。何と白々しい意志を持たぬ言葉だ。この飾りたてられた言葉が、幾千人の遺族に向って語られたことか。(略)私はそんな安っぽい話なぞ聞きたくはない。私にとって父の死は、もっともっと厳粛な、そして寂しさと恐しさを持って存在するのだ。私の体の二分の一は父によって形造られたのだ。(略)本殿を下りながら、初めて私は悲しい気持ちになったのだ。このような反問の連続と、もろもろの感情を私に与えて靖国神社参拝は終わった。」と心の底から湧きでるように鋭い靖国神社批判・遺児参拝批判の文章を書いていました。この文章を書いたのは河上孝子さんでした。私と同世代でこんな人がいたのかと感動しました。それから彼女を探すことを始めましたが、残念なことに彼女は20歳代後半に亡くなっておられました。弟さんがおられるということも分かりましたが、その行方はつかめませんでした。今後も弟さんを探します。そして、弟さんとお会いして、彼女がどういう人で、どんな生き方をして、どのようにして亡くなられたのか知りたいと思っています。
私の生育史と靖国訴訟で考えてきたことを振りかえると、中学校3年生時の靖国神社遺児参拝や合祀通知が届いていた事実についても、母と私との間で会話を交わした記憶がないのです。これは忘却なのか記憶の抑圧が働いたのかと思ったりもしましたが、そうでないのです。やはりお互いに靖国神社について触れることを避けてきたのではないか、父の戦死に関しての母と私の認識の亀裂の間に「靖国神社」がブラックボックスのように介在していたのだと今は認識しています。それが靖国神社の恐ろしさではないでしょうか。夫が靖国神社に祀られていることを母が心のなかでどう考えていたか聞いておかなかったことを残念に思っています。また、高校3年生時に父の戦死に関する問いかけを母が拒絶した時点に戻り、戦争で夫を奪われたことに大きな悲しみの声をあげることができなかった母の心中を想像力で思い描くことだと思っています。そして、遺児参拝文集のなかに河上孝子さんを発見し、その靖国神社への告発の文章に感動したことは、今も河上さんの心情が原告のなかのひとりひとりの気持ちや思想として、あるいは私の心情としても甦っていることであると言えるのかも知れません。そういった意味で、靖国訴訟は私のなかの「靖国の壁」を取り払ってくれました。これは原告のみなさん、弁護士さん、そして支援のみなさんのおかげでできたことだと、深く感謝しています。裁判が終わっても、靖国神社からの「父の奪還」の闘いは終わりません。みなさんとともにその闘いに参加してしていきます。今後ともその闘いの仲間としておつきあいいただけますようによろしくお願いします。
(2010・2・19)