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(余録)講師稼業も楽しいネ


 

 

 後期の授業が終わり、成績の処理も終わりましたので、今回はA大学での学生さんたちとのつきあいで感じたことを書いておきます。今年、特に感じたことは学生たちはグローバルな世界で育っている学生たちが増えてきたということでした。

 約150人ほどの後期の授業(教職概論)が始まったときに、毎回一番前の席に陣取る5人ほどのグループがありました。彼らは物理学科の学生で特に仲がよいようでした。この授業は1回生が中心でしたが、そのグループのひとりのN君は年かさでした。(確か25歳と言っていました。)その彼から「国際理解教育」の授業の後で聞いた話では、お父さんの仕事の関係で、彼は小学校低学年時に2年間アメリカに住んでいて、英語が話せないので苦労したとのことでした。小学校2年生になって、転校してきたイスラエル人のO君とふたりとも「英語が話せない」ことで、妙に仲良くなり、遊びに行ったり、来たりするうちに、親同士も親しくなりました。帰国後も間遠にですがつきあいが続いているとのことでした。どちらも片言の英語しか話せない時期に同じような境遇の者として心が通いあったことに私は興味を持ちました。また、以前からユダヤ人問題に関心があった私は、彼に「O君一家はどのような経過でアメリカに移住してきたのか?」をお父さん・お母さんから聞いてきてほしいと頼みましたが、O君のお父さんは物理学者だったということ以外は分からないという返事でした。この時の話で私が感じたことは、彼は子ども時代に海外体験をしていて、「グローバルな時代」に生きているということでした。そのことは毎年の授業で、学生のなかで海外経験(移住・留学・ホームスティ等)が多いことに気づいていました。僕らの育った時代とは大変ちがうと思いました。ところで、彼は長崎大学の医学部で3回生まで学んでいました。それを知ったのは、授業で「放射能汚染の時代を生きる/京大原子炉実験所・“異端”の研究者たち」のDVDを見せた後の感想文によってでした。その中で、彼は「広島・長崎の原爆による被害・影響の医学的知識の伝達(蓄積)」に原子力発電所被害(被曝)の問題は学ぶべきだと書いていました。また、彼がなぜ医師志望から教員希望に変わり、長崎大学医学部からA大学に転籍したのかもその後のレポートの中で教えてくれました。

 さてもう1人、印象深い学生がいました。先のグループとは別の列の数列目にいつもひとり静かに座って聞いているR君でした。彼は20歳代の後半の年齢でした。そして、「国際理解教育」の授業後の感想文で、彼は日本生まれなのですが、「両親が台湾人」で、小学校2年の頃に台湾に住んでいたこと、18歳で日本国籍を取得したことを知りました。その後、彼から聞いた話では、ご両親は台湾の大学で知り合い、ともに日本に留学されて、結婚され、彼は日本で生まれたとのことでした。この冬休みにはお祖父さんが91歳になり、その祝いがあり、台湾に帰ってきたと伝えてくれました。彼が最終日に書いてくれたレポートには、「親が日本語を身につける前に生まれたので、幼稚園に入るまで、私は日本語が話せなかったらしいです。」とありました。彼はその後、台湾、日本と引越し、5年生の終わり頃には「学校嫌いが極限に達し、不登校」になりました。しかし、その後、大学検定試験を受けて資格を取り、A大学に合格・入学し、現在にいたっています。彼は「多数派から外れた事により、常識などいわゆる多数派の意見に対して懐疑的になっている事は間違いないと思います。」と書いています。彼の生育史にも、グローバル時代の状況とその困難さが刻印されていました。

 その彼が、授業で話した(私たちが原告で取り組んだ)「休憩時間裁判」の話に興味を持ってくれて、授業後、「なぜ、最高裁で敗訴したのか?判決にはどう書かれていたのか?」と聞いてくれたので、確定判決となった高裁判決で、原告等が休憩時間に労働した事実は認定したけれども、「休憩時間中に職務に従事したのは申立人らの自主的判断」であったとして、原告の敗訴としたことを話しました。彼はその後に私たちのホームページ(「心のノート ガラガラポン」)にまで判決文を見に行ってくれました。また、彼との台湾の話のなかで(実は以前、台湾を父の戦死の地と勘違いしていたことがあったからです)、私の靖国神社合祀取消訴訟のことも話しましたが、僕の父の戦死と靖国神社合祀についても興味をもってくれ、私のホームページ(「教育サイバーネット」)も見てくれ、地裁での私の「陳述書」も読んでくれました。(残念ながらこの訴訟も昨年の11月30日に最高裁で敗訴しました。)また、S君が休憩時間裁判のことを聞いてくれた時に、別のH君も「休憩裁判敗訴の理由を僕も聞きたかった。」とした上で、「教師には一般公務員より給料が優遇されていると聞いたのですが、それはどの法律で、ですか?」と聞いてきました。それで、私は「人材確保法」(1974年成立)の話をし、後日、関連する資料を渡しました。当初、他の公務員に比して10%の優遇だったのが、その後、徐々にそのパーセンテージは下がり、インターネットで確認出来たのでは最近2.76%になっているということまで分かりました。彼は大学院生で(ということは彼も20歳代後半の年齢です)、将来教員になるつもりであり、大学の先生が作っている教育関係の同好会に参加していると言っていました。

 さて、授業の最終日に一番前の物理学科グループのひとりのT君が、(僕が前に使ったプリントを指して)「このW先生は僕のいた小学校の先生とちがうかな?もうひとりのI先生は算数の複数授業で教えてもらった先生のようですが?」と言ってきました。それで、「君はどこの出身かな?」と聞くと、「愛知県の春日井市です。」と答えました。驚いた僕が、「それは間違いない。この先生方は春日井市の先生で、僕らの独立組合の知り合いだよ。」と伝えると、彼とそのまわりのN君らも「偶然の一致」に驚いていました。それで、僕は「よし、電話しよう!」と言い、Iさんに携帯電話で連絡すると、うまくつながりました。そこで、T君のことをIさんに伝え、電話でふたりが話しました。これで話は終わりますが、4、5年先には彼らのうちの何人かが教師になり、教育現場に入るかも知れないと思うと、この講師稼業も捨てたものではないと思いました。

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