旅の記憶

台北の日本人学校にて

松岡勲(2000年8月9日~13日)



 

クレオール化進む日本人学校

 8月の9日から13日まで、台湾へ行きました。大阪府在日外国人教育研究協議会の日本の侵略の跡を訪ねるツアーでした。

 そのツアーで、台北と台中の日本人学校を訪問しました。夏休み中で子どもたちとは会えませんでしたが、興味深い事実を知りました。ここでは詳しいデーターをいただいた台北日本人学校の話をします。

 台北日本人学校の生徒数は小学部637名(20クラス)、中学部204名(7クラス)で合計841人、教職員数は61名の大規模な学校です。

 私が興味を持ったのは「国際結婚家庭児童・生徒」(日本人学校での表現)が非常に多いことです。

2000年度の統計(以下、台北日本人学校の統計)では
    小学部  200名(31.3パーセント)
    中学部   79名(39.1パーセント)
    合 計  279名(33.2パーセント)

 日本から台北に駐在した日本人と台湾人との結婚、逆に台湾から日本への駐在での結婚で生まれた台湾人と日本人との間の子どもが多数通学し、父親が日本人・母親が台湾人、逆の父親が台湾人・母親が日本人のケースがあるとのことでした。

1999年度の中学卒業後の進路は
    国立日本      0名
    公立日本     12名
    私立日本     39名
    現地海外      2名
    現地台湾      4名
    インターナショナル 2名
    未決定      14名

との多岐にわたっており、未決定者は日本人学校の卒業が3月で、台湾の新年度が9月であるために入試待機中ということです。

 日本人学校の校長の説明では、2つの言語の世界で育ったために、言語の習得の困難さがあり、学力問題が一番深刻である、各学年で日本語適応指導をしているとのことでした。台湾では帰国子女に対しては高校入学は実質無試験になっているが、入学後の授業についていけず、退学するケースも多い、中国語の習得困難さが大きいとのことでした。

 また、20歳で台湾か日本かの国籍の選択をしなければならないので、生徒のアイデンティティの問題が大きく関係してくるとのことでした。

 私がこれまで持っていた日本人学校のイメージは、海外駐在の日本人の閉鎖社会と関連して日本人の子どもたちだけでの閉じた学校というイメージでした。現実にはここでも国際化、クレオール化が進んでいると知り、大変驚きました。

(追記)

 私の父は第二次世界大戦(太平洋戦争)で戦死をしました。実は、この台湾旅行に出発する前まで、長い間、父の戦死の場所を(子どもの頃から母に父の遺品を何度も見せられていたにも関わらず)台湾の膨湖島とばっかり思いこんでいました。それ以来、台湾は私にとって大変思い入れの深い場所になっていました。台湾の映画監督候孝賢の映画が大好きで、彼の膨湖島を舞台にした作品(「風櫃から来た人」1983年)を見ては、「ここは父の死んだ場所だ・・」と涙していたのでした。出発する前にこれまで見慣れた父の戦死公報や戦地からの軍事はがきを母に久しぶりに出してもらい、あらためて見て愕然としました。「違うではないか!」父の死んだ場所は、現在の中華人民共和国の湖北省梁子島でした。多分、中学生の頃、中国の旧国名「中華民国」を台湾と勘違いし、戦争の危機があった金門・馬祖島や膨湖島を強烈に意識したのが、間違いの原因だったのだろうと思います。そして、まちがいに気がついて台湾旅行に出かけたのですが、当の膨湖島や台湾先住民の蜂起の場所(霧社)等にも行きましたが、不思議な既視感があった旅でした。

 なお、その後、私は靖国神社合祀取消訴訟の原告になるのですが、その原告としての思いは、「心のノート ガラガラポン」の「父を靖国神社から早く取り戻したい/合祀取消訴訟原告のひとりとして」に掲載しています。(2010・4)

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