旅の記憶

はじめてのメキシコ旅行

2017.8.13



 

<メキシコ近代絵画への憧憬>

 2017年7月29日~8月4日までメキシコを旅しました。メキシコははじめてでした。私は若い頃からインカ帝国やアステカ帝国についての本が好きで、増田義郎(ラテンアメリカ史)さんの本をよく読みました。またメキシコでの近代絵画(フリーダ・カーロの絵、ディエゴ・リベラ、シケイロス、オロスコなどが主導した壁画運動)についても関心がありました。メキシコ近代絵画にはじめて出会ったのは、名古屋市美術館の「メキシコ・ルネッサンス展」(1989・7)です。名古屋市美術館はメキシコ近代絵画の収蔵をすすめていて、ここでフリーダ、リベラ、シケイロス、オロスコの絵と出会いました。フリーダ・カーロの「死の仮面を被った少女」には不思議な印象を与えられました。その後、フリーダ・カーロの美術展は、「フリーダ・カーロ展」(1989・10、大津西武ホール)、「フリーダ・カーロとその時代展」(2003・9、サントリー・ミュージアム)と追いかけました。映画も公開され、劇映画「フリーダ」(ジュリー・テイモア、2003・8)、写真家・石内郁がフリーダの遺品を撮った「フリーダ・カーロの遺品/石内郁、織るように」(小谷忠典、2015・9)を見ました。後者の「フリーダ・カーロの遺品」は、交通事故で身体に障害を負ったフリーダの「痛み」を感じさせるものでした。またディエゴやフリーダと交流のあった革命家レオン・トロツキーがメキシコで暗殺されたことも気になっていました。
 ずっと以前からこれらのことに興味を持ちながら、メキシコに行くことはできないままでした。昨年にシチリア(イタリア)の旅を経験して自信をつけ、年齢のこともあり、行くなら今しかないかなとメキシコ旅行を決めました。メキシコ旅行経験が豊富な友人の紹介でメキシコ人で日本語教師のナディア・ラモスさんの協力を得て、メキシコ旅行が実現しました。またナディア・ラモスさんのお友達であるNadja ANさん、ダニエル・ガルシアさんにもお目にかかれました。ほんとうにお世話になり、ありがとうございました。

<フリーダ・カーロ>

 メキシコ・シティは4泊しました。ディエゴ・リベラとフリーダ・カーロの家にはフェンテ・デ・シベレスから南回りの循環バスの乗って、ムセオ・フリーダ・カーロで下車し、目の前でした。しかし長蛇の列で2時間待ちでやっと入れました。

 ふたりが絵画を制作し、暮らした住居がそのまま美術館となっていて、静かな落ち着いた環境でした。フリーダの寝室やアトリエ、コルセットに覆われた自分の姿を描いたフリーダの絵などを見て、交通事故で傷ついた身体を何度も大手術をし、その苦痛に耐えながら絵を描き続けたことがひしひしと感じられました。フリーダの家に来てよかったと思いました。

 フリーダ・カーロの絵は近代美術館にもありました。日本にも来た「二人のフリーダ」があり、再会しました。「二人のフリーダ」はディエゴとの離婚手続き中に書かれたもので、それは二重画像(ビトリア調の白いドレスを着たフリーダと民族衣装に身を包むフリーダ)になっていて、ふたりの心臓は血管によって繫がっているように表現されています。民族衣装の女性はディエゴの愛したフリーダ、白いドレスを着た女性はもはや愛されていないフリーダを表しており、当時のフリーダの内面の分裂、苦悩を表していて、とても痛々しい絵です。他にオロスコ、リベラ、シケイロスの絵もありました。

<ディエゴ・リベラ、シケイロス>

 ディエゴ・リベラの壁画は国立宮殿の「メキシコの歴史」を見ました。アステカ時代の民衆の群像から始まり、スペインの侵略、メキシコ革命の歴史を描き、労働者・農民の力を信頼し、未来への展望を指し示す壮大なパノラマが描かれていました。この壁画にメキシコの歴史と現在をとらえた透徹したディエゴの視線を感じました。アラメダ公園の西の外れにあるディエゴ・リベラ壁画館の「アラメダ公園の日曜の午後の夢」も見ることがができました。ある日の午後、アラメダ公園に集まった上層階級から中産階級、下層階級、インディヘナまでの群像が迫力満点でした。特に絵の中心部にある上層階級の紳士と骸骨姿の婦人、そして彼らをきっと見据えたインディヘナ女性の視線は印象的でした。この絵にメキシコ社会を見つめるディエゴの社会認識と絵画を組み立てる「構想力」を感じ、とてもすごいと思いました。

 またシケイロスについても国立人類学博物館の近くのシケイロス美術館に行き、シケイロスの今で言うアバンギャルド的な絵に驚かされました。シケイロスについてはあまり知らないので、知りたいと思いました。

<トロツキー>

 フリーダ・カーロ博物館からやや離れた所にレオン・トロツキー博物館があり、見学しました。トロツキーはこの家で刺客に襲われ、亡くなりました。メキシコの壁画運動の盛んだった1930年代の国際的共産主義運動は、ソ連で権力を握ったスターリンの独裁(スターリン主義)とそれに反対するトロツキー主義との対立が起こり、さらにドイツのナチズムが台頭するという複雑な政治構図にありました。博物館はトロツキーが暮らした家であり、暗殺者により血にまみれて死んでいった場所でした。トロツキーの死の姿がありありと感じられ、心が痛みました。またトロツキーが世界革命の構想を立て、執筆した書斎が当時のまま残されていて、展示されたトロツキーの写真は知的な風貌を感じさせ、おしい人が抹殺されたと思いました。ディエゴはトロツキーの側に立ち、メキシコへのトロツキーの亡命を助けました。メキシコの壁画運動を担った画家たちとトロツキーとの交流は非常に興味深く、これについては、中原佑介著『一九三〇代のメキシコ』(メタローグ)に詳しい。

<アステカ、マヤ>

 スペインに滅ぼされたアステカ帝国の都(テノチティトラン)中央神殿の遺跡はテンプル・マヨールで見ることができました。発掘された遺品は博物館で丁寧に展示されていて、展示に注ぐ考古学者と学芸員の愛情を感じました。これらはメキシコ・シティ中心部(ソカロ)にあり、見学には非常に便利な場所でした。
 また大規模な国立人類学博物館も見学しました。3時間かけて見学したのですが、アステカ以前の時代、アステカ時代の展示を見るのがやっとで、マヤの所で予定の時間が切れ、残念でした。展示のなかで私の目を引きつけたのはテオティワカンの実物大に復元された神殿でした。月のピラミッドに代表される古代遺跡に行けるものなら一度行ってみたいと思いました。アステカ文明を代表する太陽の石「アステカ・カレンダー」に興味を持ちました。この暦は20日を1ヶ月にとする1年18ヶ月に分けられ、それにプラス「空の5日」が設けられ、ちょうど1年を365日になるよう設計され、正確な暦によって農耕がなされていました。その文化水準の高のさに感動しました。アステカ帝国、スペインによるメキシコ侵略の歴史は、増田義郎著『アステカとインカ 黄金帝国の滅亡』(小学館)に詳しい。

<ケレタロ>

 スペイン植民地時代の植民都市であるケレタロはメキシコ・シティから高速バスで3時間の近郊にあり、2泊しました。ケレタロの中心部は石畳の道が続き、バロック様式の教会が随所に建ち並び、歴史的な建造物が連なるコロニアルな町並みでした。旧市街の東側は細い路地が入り組んでいて、先住民の居住地だった所です。その地域の市場にも行き、生活のにおいと活気を感じました。

 ケレタロに到着した日は日曜日で、翌日の月曜日は美術館・博物館・教会はすべて休館であると気づき、あわててケレタロ地方歴史博物館に飛び込みました。1540年に創建されたサンフランシスコ修道院の広大な施設を利用した博物館で、メキシコ独立までの近現代史を豊富な資料で展示してあり、ケレタロの歴史がよく分かりました。関連して市庁舎では中庭の回廊にメキシコ独立戦争の壁画があり、鮮血が飛び散る独立戦争の様子が描かれていました。また修道院の教会はとても美しく、キリスト教が地域の人々生活のなかで生きていると感じさせられました。翌日は旧市街にある教会を回りました。最後に行ったサンタロサ・デ・ビテルボ教会は見学ができました。内部に入ると教会の歴史がさまざまな遺品と説明を交えて丁寧に展示されていて、感心しました。展示室の入り口にはふたりの女の子のキャラクター人形が出迎えていて、子どもたちは銃を携えていました。日本のゆるキャラとはえらい違いです。メキシコでは独立戦争と革命の伝統が今も生きていると感じました。ケレタロではゆったりと時間を過ごしながら、スペイン植民地時代の歴史について考えをめぐらしました。
 旅行を終わって、もう一度メキシコに行きたいと思いました。見られなかった壁画群が多くありますし、国立人類学博物館も時間切れでマヤ文明の展示が見られなかったのが心残りです。古代遺跡(ピラミッド)には体力的に行けるかどうか自信がないのですが、メキシコ・シティに近いところなら行けるかも知れないなと思ったりもしています。
 (2017・8・13)

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