今夏、スペイン南部・モロッコを旅行した。とりわけモロッコでは、強烈で新鮮な印象を受けた。
スペインの町は中世に淵源をもつ城塞都市である。旧市街は城壁にかこまれ、街路はまるで迷路のようだ。まずは、道に迷う話から。
セビリアでは、旧ユダヤ人街である、白壁の美しいサンタ・クルス街を歩いた。道幅2~3メートルの細い道で、両側から家の壁がせまり、くねくねと折れ曲がっていて、見通しがきかない。また、通りには生命や死に関する名前がついており、家の中にはアラブ式の中庭(パティオ)があり、歴史を感じさせる。15世紀のレコンキスタ(キリスト教徒による対アラブ国土回復戦争)終結後、ユダヤ人追放令が出された時、セビリアは多くのユダヤ人が船で避難するための拠点であった。さらに、異端審問の嵐が吹き荒れ、多くの改宗キリスト教徒(ユダヤ人)が火炙りの刑に処せられた町である。その頃の出来事を想像しながら、歩いているうちに道に迷う最初の経験をした。
カディスはコロンブスが新大陸発見の旅に出港した町で、その後のスペイン植民地経営の中心であった。また、追放令によりユダヤ人がモロッコ、アルジェリアなどの北アフリカへ出港していった町である。昼にカディスの町を歩いた。家の壁は橙色か明るい灰色で、まっすぐの見通しの良い道で、町の人々が普段着で行きかい、生活感あふれる町と感じた。「ちょうど等身大の町だな、これは大丈夫」と油断した私は、夜の町に地図を持たずに出かけた。だが、パリの町と同様、交差点が直行していない町で、道を一本入りまちがうと大変。帰路、ついに道に迷ってしまった。夜のため不安が高まった。50歳がらみのスペインのおばさんに道を尋ねた。スペイン人は夜の社交を楽しむと聞くが、彼女は外出の途中のようで、黒の服で正装していた。黒い扇で鷹揚にあおぎながら、言葉が充分に通じない私を途中まで一緒に連れて行ってくれ、別れぎわに壁を大きな手でたたき、「ここをまっすぐ行きなさい」と道を教えてくれた。おかげで、無事ホテルにたどりついたのである。
モロッコのマラケシュでは道に迷いに迷った。町の中心のフナ広場からスーク(同業種の店が集まる商店街)に入り、最初は人通りの多い道を人の流れに沿い歩いていった。ジュータンのスーク、金・銀細工のスーク、皮職人のスーク、木製品のスーク、かじ屋のスーク等々。途中、あの個人主義者のフランス人が20~30人で団体行動をしているのを見て大笑いをした。が、染色職人のスークを見つけようと、人の流れと離れてしまい、複雑な迷路の中に迷いこんだ。マラケシュの街並みは赤い壁の家が塀の様に続き、どこを歩いても皆同じ様に見える。細い細い道が左右に入りこんで、細い道に入りこむと、真暗な袋小路があったりする。一時間ほど、歩きに歩いて、同じ所に何度も出てきたりして、もう真青になった。後で地図を購入して、その複雑な町の構造を知り、「これはまちがって当然」と実感した。
グラナダでは、マラケシュの失敗にこりて、正確な地図を購入し、旧アラブ人街であるアルバイシンを歩いた。アルバイシンは、ユダヤ人追放令の後、アラブ人にも追放令が出て、モリスコ(キリスト教に改宗したアラブ人)が住んだ町である。うす青色の入った白壁に所々に通りの名前がタイルにうめこんであり、斜面を切り開いてできているため、家は片側にのみあり、見通しも良かった。道を地図で確かめながら、迷うことなく、サン・ニコラ教会に着き、アルハンブラ宮殿の眺望を楽しんだ。
スペイン・モロッコの、まさに迷宮都市の中で、キリスト教徒・ユダヤ人・アラブ人が相剋し、複雑に織りなす歴史の厚みを感じた。
モロッコの古都、マラケシュは魅惑的な町で、その活力にひかれた。フナ広場は町の中心となる大きな広場だ。昼は観光客相手の大道芸人たちの舞台となる。夜は広場いっぱいに屋台が並び、アラブの人々の食の広場となる。暗闇の中に煌々と屋台の電灯が輝き、どこから湧き出て来たかと思うほどの人、人、人である。ここで、シシカバブー(羊肉の串焼き)を食べたが、パンがつき、コーラー(酒が売っていない。「おお、アラブ!」)、サラダを注文して、二人分で45ディラハム(10ディラハムが180円)。なんと安い。そして、うまい。この屋台はNo45の店であったが、支払いの後、女主人が(45ディラハムとひっかけて)「No45を覚えておいて。又、来てね。」と愛想良く声をかけた。この屋台は夫婦と息子たちがやっているようで、まさに肝っ玉母さんが店を仕切っている感じだった。
アラブの国では、商品に値段がついていない。モロッコで値段の交渉の初体験をした。言葉はアラビア語とフランス語しか通じないが、商取引は数字の世界だ。言葉は通じなくとも、売買は数字の筆談で成立。いくつか値引きに成功したが、最後にアラブ人の商才に感動した。アラブの民族衣装(ジュラバ)を買おうとして、服屋に入ったのだが、4人もの店員が出て来て、口八丁手八丁。結局、ぼられた訳だが、楽しい経験だった。「高い」「もういらんわ」とつい大阪弁が私の口から飛び出し、もう関西の乗りの世界で、「うん、アラブは水にあうな」と得心した。
帰国後、時差ぼけで頭がもうろうとした状態で、シリル・コラールの「野生の夜に」を見た。彼は35歳でエイズでなくなった監督だ。ファースト・シーンにモロッコが出て来たのは、私にとってタイムリーで驚いた。主人公ジャンはロケに訪れたモロッコをさまよう。そのシーンが印象的だった。帰国後、エイズ発病を知る。ジャンはホモセクシャルであるが、バイセクシャルでもある。そして、17歳の少女、ローラと恋に落ちる。ラスト・シーンは、ヨーロッパの果てポルトガルのサン・ヴィセンテ岬。ローラに電話をするジャン。「僕はヨーロッパの端にいる。愛している。本当に」と。そして、「世界は僕の外に置かれたものじゃない。僕はその中にいる。いずれエイズで死ぬことになろうと、それは僕の人生じゃない。今、僕は生きている」という悟りにたどりつく。岬の崖に立つジャンの叫びを空撮し、FIN.。
モロッコから始まり、そして、ヨーロッパの果てポルトガルの岬で終わるこの映画に「ヨーロッパ近代の終焉」を感じさせられた。だが、映画を見終わって考えた。そのエイズが先進諸国観光客の買春行為によって、アラブ・アジア諸国へ持ちこまれたものだとしたら、どうなる。今、東南アジアでのエイズの流行は日本の問題と重なると考える時、フランスで知的・精神的にも先端を行くこの監督も、「近代の枠組」を越えていないのではないかと思った。