今年の8・15は「教育労働者交流会in韓国~韓国全教組との交流の旅~」でソウルにいた。出かけると決めるまでは、とりたてて韓日連帯の運動をしてきたわけでないので、少し迷ったけど。
訪韓受け入れのAWC(アジア連帯運動)のイ・スカップさんの案内で、8月15日午後はソウル市内鐘路(チョンノ)交差点での「反戦平和8・15統一大行進」集会に参加した。会場の四差路の角ではぼちぼち人が集まってきていた。黒い大きなスピーカーがすえつけられている。「こんな角っこで集会をやるのかな?」と最初思ったが、しばらくして、前方の反対側の角にパイプを組んで大きな舞台が組まれていく。音響テストがされて、どでかいスピーカーから大音響のロック調の音楽がかかり、バックにはデジタルのテレビ画面まである。「まさかあれが集会の演壇ではないだろう。集会後にロック・コンサートでもやるんかな?」と思った。私たちのいる場所の反対車線の角にもスピーカーがセットされている。そちら側にも人が集まりだした。
ぼくらのいるコーナーに座り込んでいた祖国統一汎民族青年学生連合(汎青学連)の統一先鋒隊の青年たちが突然たくさんの車が行き交う100mほどもある道路に突進して座り込む。続けて両方の交差点にいた部隊が道路に座り込み、さらに続々とデモ隊が到着し、あっというまに道路を封鎖した。集会に参加したぼくらのグループは「道路封鎖だ!」と唖然。日本では見たことのない風景だった。
前段集会は大きな舞台の前に止めたトラックの荷台ではじまった。「やっぱり、あの舞台は使わないんだ。」と思ったけれど、本集会がはじまると後ろの舞台に切りかわった。韓国語はアジテーションに向いているとはこのときはじめて知った。青年も壮年も老年の人も実に演説がうまい。そして、歌が歌われ、韓国歌謡やホップやロック調の音楽が入り、また、みんなよく踊る。このとき、韓国で人気のある(日本では昔の岡林信康のような)アンチファンの歌を聴いた。若手のウリ・ナラというグループの歌も聴くことができた。あとで、CDを買いました。
日が暮れてくると、バックのテレビ画面には中継画像やドキュメンタリー画像が入る。集会の最後に、太極旗をもった女性の群舞があり、その終わりにバックの画面が統一旗に切りかわり、大変印象的だった。そして、ろうそくを灯してデモ行進が出発した。米軍の犠牲になった人々への鎮魂のデモだ。次の交差点(左に行くとソウル市庁で右翼の集会が開かれている。右に行くと日本大使館。)は機動隊のあの金網の入った車が何台も横づけにされていて、たくさんの機動隊で道路が封鎖されていた。そこで、機動隊と睨みあった形でさらに集会が続いた。受け入れ団体がトラブルに巻き込まれないように配慮してくれて、私たちはそこまでの参加であった。この日の集会参加者は3万人とのことだった。
この集会では、朝鮮半島がブッシュ米大統領の戦争政策の焦点となり(北朝鮮は「悪の枢軸」として、イラク戦争の次は朝鮮がねらわれている。)、戦争の危機感にあふれていた。集会で訴えられたのは「反戦・平和」と「自主統一」だった。日本では拉致問題の報道一色で、韓国での危機感とは大変ちがっていると思った。さらに「南北自主統一」への韓国民衆の思いともかけ離れているとも感じた。イ・スカップさんは「光復節を韓国が解放された日という人がいるけど、朝鮮は1日として解放されたことはない。日本軍が撤退した後、アメリカ軍が進駐してきただけだ。そして、現在までアメリカ軍に韓国は支配されている。」とおっしゃっていたが、8・15にソウルにいて、その言葉を実感できた。また、集会での人々のパワフルさとどこの集会でも実に若い労働者、学生が多いことに日本の運動とのちがいを感じた。しかし、帰国後、日本の新聞には韓国の8・15の運動については一切報道されていなかった。この日の報道を知ることができたのは、韓国の新聞のインターネット・ホームページ(日本語版)でだった。
翌日の16日は龍山(ヨンサン)米軍基地での基地反対集会に参加した。南営(ナムヨン)駅を降り、米軍基地の方に歩くと、日本風の塀が続く。塀のなかは米軍基地だ。ソウル市内にこんなに広大な米軍基地があると知り、驚いた。イ・スカップさんによるとこの基地は戦前は日本軍基地で、戦後、そのまま米軍基地として接収され、現在も米軍基地として睨みをきかしているとのことだ。それで思い出したが、前日の午前中に西大門(ソデムン)刑務所を見学したが、この刑務所は3・1独立運動以来、日本による独立運動弾圧のために作られた刑務所で、政治犯への拷問の生々しい事実が再現されていた。刑務所は戦後独裁体制下の政治犯の弾圧の場として継続し、日本式拷問がそのまま朴チョンヒ政権の最後まで使われ続けたとのことだった。韓国政治史の戦前、戦後の連続性をあらためて認識した。駅からの車道には機動隊の車がびっしりと止まり、物々しい警戒だった。
集会は米軍基地近くの戦争記念館横の路上で開かれた。最初、道路の片側車線にトラック1台が横づけになり、道路半分を封鎖した形で前段集会が開かれた。ここでも歌あり、踊りあり、演説ありで、路上では若者で溢れていた。本集会になるともう1台のトラックが反対側車線に入り、道路は完全に封鎖された。実に踊るべき早技!
7日に韓国大学生総連合(韓総連)が米軍基地に入り、米軍装甲車を占拠し、12人の学生が逮捕された直後であり、この日の集会は緊迫感に満ちて盛り上がった。集会後、人間の鎖で米軍基地を包囲するデモ隊が出発したが、参加者は平和を象徴する50cmほどのリボンを手首に巻き行進して目を引いた。進行先にはまたしても機動隊の車が横づけされ、道路封鎖がされていた。
集会が終わり、行進に移ったときに気がついたことがある。演壇になっていたトラックには大きなスピーカーがあり、そこから2本の太いケーブルが出ていた。そのケーブルは集会の中程後方のバッテリーを積んだトラックとつながっていた。バッテリー車からは別の2本のケーブルが出て、さらに後ろのトラックのスピーカーにつながっている。つまり前にスピーカーあり、後方にもスピーカーが設置されているということだ。そして、たくさんの青年がケーブルをもって移動する。このような集会のやり方は日本では見たことがないと運動のダイナミックさに感心した。
私たちはここでも配慮で、そこでデモ隊から離れた。集会から離れるときに、私たちの日本語とハングルのプラカードを見て、たくさんの学生、青年たちがエールを送ってくれて、大変うれしく思った。この日の集会者は3千名余だったとのことだ。この日もわずかに離れた場所で右派系の集会があったと帰国後インターネットで知った。
8月14日にソウルに到着し、永登浦(ヨンドンポ)のAWC(アジア連帯運動)韓国委員会の事務所で、韓国の労働運動、教育労働運動のレクチャーを受けた。
民主労働組合総連合(民主労組)のユ・ドクサン副委員長は、19日に民主労組はゼネストを実施すると話をはじめられた。(帰国後、貨物連帯のゼネストが韓国新聞のインターネット版で報道されていた。)要求内容は勤労基準法改悪反対、新自由主義反対(経済開放反対、これは新自由主義教育反対も含む)とのことであった。昨年から今年の7月まで鉄道労組は鉄道の民営化に反対し、鉄道の公共性を守るストライキ闘争を闘いぬいてきた。また、9月に予定されているWTO(国連貿易機関)のメキシコ(カンクーン)での閣僚会議反対行動には韓国から200名が参加する予定で、民主労組からは40名、そのうち教組は20名の参加予定とのことだ。この運動はシアトルでのWTO閣僚会議反対行動以来の取り組みであるとのこと。すごい!イ・スカップさんは、ノムヒョン大統領の当選後の新自由主義容認政策と苛烈な鉄道労組弾圧で、「労働者を裏切った」とはっきりとおっしゃったが、このような明確な認識は労働運動の闘いからくるのだろう。
15日、16日と反戦・平和の行動に参加し、16日の午後から永登浦の全国教職員労働組合連合(全教組)事務所で組合役員の方との交流会があった。
組合運動の課題は、反戦・平和共同闘争、WTOによる教育開放反対闘争(教育の公共性を守る闘い)、教育行政情報システム(NEIS)反対闘争などであるとのことだった。NEISとは、日本でいえば住民基本台帳ネットの教育版にあたり、あらゆる教育情報をオンラインで結ぼうとするもので、全教組ははげしい反対闘争を組んできた。WTO反対闘争は、軍事的にアメリカがイラク戦争に続いて、朝鮮で戦争を目論んでいることへの反対闘争、経済的にはメキシコ(カンクーン)での閣僚会議反対闘争への参加があるとのことであった。全国組織の代表といってもまだまだ40代の年齢ではないだろうか。みんな若い!
その後、市内のソウル支部の事務所へ移動し、ソウル支部との交流会となった。支部役員はさらに若い教員で、近しく感じた。ここでも新自由主義教育反対がテーマになり、NEIS反対闘争、給食に韓国の食材を使う運動等の話になった。さらに、日本の歴史教科書問題、従軍慰安婦問題の教科書記述、市民運動との連携等が話題になり、続いて、おいしい朝鮮料理とお酒が入った交流会で話がはずんだ。
帰国してから、全教組との交流で、また、民主労組のたたかいのお話をお聞きしたことを思いおこし、韓国の労働運動・教育労働運動が「新自由主義反対」「新自由主義教育反対」と明確に方向を規定している、その運動の蓄積に学ばなければならないと思った。
そのような感想を東京・国立市から連帯行動に参加された遠藤さんにメールで感想を送ったところ、「新自由主義の問題性は、国立でも、教育改革を考えさせられる中でかなり前から言っていたことですが、そのような視点からの全面的な批判がなされることがなく、どうしても、戦前回帰の批判になりがちで、いまひとつしっくりこないなあ、と思っていました。学者などの批判にとどまらず、いまの学校現場を反映したトータルな批判が、ほしいです。また、じっくりと考え、議論できる場がもてたらと思います。」とお返事をいただいた。私も同感であり、今回の訪韓では今後の方向に大きな示唆を得ることができた。