「敏ちゃん、早よ、逝きすぎやで!」また会おうと思わせた人だった。
松岡 勲(元高槻市教員)
石原敏さん(このあと、呼び慣れている敏ちゃんとする)からの連絡がこの頃「ないな・・」と思っていたら、敏ちゃんのSMSが来た。それは娘さんの千可さんからで、「去る3月17日に父、石原敏が天に旅立ちました。」とあり、思いもしなかったことに大変驚いた。3月17日は皮肉なことに、私の80歳の誕生日だったので、悲しみが倍になり、胸に迫った。
敏ちゃんとはいつからのつきあいなのか振りかえった。もう50 年以上昔になる。東大阪市の小学校から高槻市の「同和教育」推進校・富田小学校に転勤したのが1972年春だった。その頃、亀井トム原作の映画「フイルムレポート 狭山事件」の上映運動で敏ちゃんと出会った。(「第1集」1976年、「第2集」1977年、監督は瀬戸要)敏ちゃんも私も無類の映画好きで、気があった。同じ時期に上映運動で知り合ったのが、「狭山事件」の上映運動の中心だった松井寛子さん(かんこちゃん:今も映画上映に関わり、十三の居酒屋「風まかせ」の店主)だった。一緒に3人でよく映画の話をしたものだった。
その次は私が敏ちゃんたちの豊中市の集会に通った。それは1990年代のはじめの頃だった。敏ちゃんたちは卒業証書の元号記載に反対し、卒業証書の生年月日を西暦で記載するよう求めた市民運動をやっていた。敏ちゃんの娘さんと、あと二人のあわせて三名の原告が1991年9月に提訴、判決は1994年11月に出た。それは天皇代替わり、改元、日の丸・君が代の学校への導入の最初の時期だった。私はその頃、芝谷中学校に転勤していたので、敏ちゃんたちの運動を参考にして、高槻でも卒業証書問題に取り組んだ。それは豊中の判決の翌年度(1995年度)と翌々年度(1996年度)の3年生担当の時で、卒業証書の誕生日の項について、西暦記載の希望を取り、希望者に生年月日を西暦で記載をした。
また敏ちゃんの印刷屋の腕前には感服し続けた。仕事は巧く、鮮やかだった。1999年5月に私たち7人は日本教職員組合を脱退し、上部団体のない独立系労働組合の学校労働者ネットワーク・高槻を結成した。(2021年8月まで活動)機関紙『学労ネット かわらばん』(2000年4月~ 2016年1月号)までの合本を敏ちゃんが作ってくれた。
このような50年余の敏ちゃんとのつきあいが続いた。その間、敏ちゃんの微笑みがいつもあった。また会おうと思わせた人だった。「敏ちゃん、早よ、逝きすぎやで!」