ユニークで独自だった江菅洋一さん
江菅洋一さんとのつきあいは、安威川ダム反対市民の会発足(1982年3月)からだからもう40年になる。はじめて江菅さんと会って、「お米」の専門家だと聞いて、驚いた。当時、安威川ダム反対市民の会は、ダムの危険性を訴え、さまざまな角度から下流住民による反対運動を繰り広げていた。安威川の河川敷でダム反対のアドバルーンを上げ、バーベキューをしながらの市民集会を何度もした。また江菅さんの専門である自然観察会を呼びかけ、親子連れで楽しく活動した。私は、自転車で安威川流域の水利史を調べるエクスカーションに熱中した。それらの活動をなつかしく思い出す。
大阪府で情報公開条例が実施された時(1984年10月1日)、「安威川ダム地質調査資料」の情報公開請求を行った。(江菅洋一名で)大阪府情報公開条例請求の第1号だった。結果は大部分が非公開決定だったので、84年12月異議申し立て、85年3月に府が異議申し立てを棄却したため、85年6月大阪地裁に提訴。92年6月地裁で大阪府勝訴判決、控訴。94年6月高裁判決、住民側勝訴判決。府が最高裁に上告したが、95年4月上告棄却の判決があり、勝訴が確定した。行政情報の意思形成過程情報について、住民勝訴の画期的判決だった。
その後、江菅さんを中心に2014年2月大阪地裁にダム建設への公金差し止めを求める住民訴訟を提訴した。この裁判は争点が事業目的の適否や脆弱地質・地盤及び治水効果性、課題克服技術などの専門的内容になり、権威依存バイアスの強い裁判所の体質もあり、地裁敗訴、控訴後も21年10月高裁敗訴となった。上告せず。
この裁判の前段に大阪府に対するに監査請求を行ったのだが、監査請求に入る前に江菅さんから、「会って話したいことがある。」と私に電話があり、茨木市役所のロビーで話をした。彼からこの問題について、監査請求→提訴を考えているのだが「松岡さんに原告に入ってほしい。」とのことだった。ダム反対運動を一緒にやってきた仲であるのは勿論そのひとつであるが、「実は」と打ち明けられたことがあった。「右舌下腺癌から胃に転移(これはすでに手術した。)、肺にも転移している。」との打ち明け話だった。それで裁判になったら、万が一原告死亡の場合、「行政訴訟では原告の子どもは裁判を継承できない法理になっている。」そのため「原告に親族以外に入ってほしいので、ぜひ松岡さんに加わってほしい。」という依頼だった。江菅さんの話に心を打たれて、私はすぐに原告になったのだった。
江菅さんは今年の9月21日に亡くなるまで自身を燃焼し尽くしたと思う。彼は会った当初から「発想」が独自で、常識的には「A」と「B」とは別ものと思っていることを、「いやそんなことはない!」と両項をつなげ、いつのまにか運動化するといったユニークな側面があった。亡くなるまで関わった住民運動、市民運動はダム反対運動、情報公開運動だけでなく、障害者運動、教科書採択運動、教職員組合運動、その他、私も知らないさまざまなものがあった。実にエネルギッシュで粘り強い人だった。
この頃、私より若い人が先に亡くなることが増えた。とてもさびしいものだ。江菅さんの死に心よりお悼みする。