読む・視る

「追悼文(増田賢治・山田肇・江菅洋一さんへ)」

 松岡 勲


 

 

最後まで相談にのってくださった増田さん

 増田さんは当時大阪大学付属病院の入退院を繰り返しておられ、緩和ケアーの病院へ入院される前に自宅で療養されていた。その頃、私の家の近くの店の昔からの味付けのたこ焼きと回転焼きを持参してお見舞いをかねて何度か相談にうかがった。その相談は再任用組合員の転勤問題だった。もうその頃は声が出にくくなっておられ、午後には熱が出る状態だったが、それにも関わらず私の相談に的確に応じてくださった。

 思い返せば、増田さんには組合結成以来大変お世話になってきた。学校労働者ネットワーク・高槻の組合結成は1999年5月で、直ちに高槻市教育委員会と交渉を開始し、2002年8月には全国学校労働者交流集会を高槻の地で持った。その時交流集会とセットで全学労組による市教委交渉が実現した。その交渉の中心におられたのが増田さんで、この交渉を契機にして、結成以来の懸案だった休憩時間および勤務時間の文書による明示を実現した。引き続き2003年5月から3ヶ月にわたる校長交渉(職場交渉)要求闘争を行った。それは、校長交渉申し入れとそれへの高槻市教委および当該校長の拒否、さらに訴訟を構えての校長交渉実現にいたるまでの闘争だった。その闘争の勝利は全学労組代表としての増田さんの強力な指導があってこそ実現した。闘争の終盤、私の勤務校であった柳川中学校長は交渉の事前折衝で「交渉人数の制限」を交渉条件に出してきたが、その時増田さんが「私が退きましょう」と発言され、校長交渉終了まで職員室に待機されたことを強く覚えている。増田さんの機を見ての柔軟さと潔さに感服した。校長交渉は学労ネット・高槻の作風として現在まで続けている。

 その後の市教委交渉への特別執行委員としての毎回の参加(とういよりは指導)、山田組合員への君が代処分反対闘争、人事委員会・裁判闘争への積極的関与など私たち学労ネット・高槻の闘いに増田さんにいつも深くかかわっていただいた。なによりも人に対する優しく、あつい友愛にあふれた増田さん人柄に私たちはいつもつつまれ、励まされてきた。組合交渉後の増田さんとの楽しい飲み会の語らいは、増田さんの積み重ねられてきた闘いの経験をお聞きし、私たちの栄養分として吸収する時間でもあった。あの時間の記憶はこれからも私たちの身体のなかに生き続けていくだろう。増田さんありがとうございました。ゆっくりお休みください。

山田さんの生き様の一端に触れた記憶

 2012年3月30日に山田肇さんの大阪府人事委員会への処分不服申立請求に同行した。私が山田さんに同行したのは彼と同じ組合員であったこと、処分不服申立の経験はないが、人事委員会への勤務条件に関する措置要求の経験があり、何か役に立てばと考えたからだった。山田さんは人事委員会事務局の説明を聞きながら、その場で手書きで処分不服申立書を書き上げた。私は「なんと力のある人か!」と感嘆したことを覚えている。
 1時間ほどで事務手続きを終え、近くの喫茶店で山田さんとお茶を飲んだ。その時、次のようなことを語りあった。私からは、私の父は中国で戦死したこと、私が生まれた時に父は戦地におり、生まれて半年後に送った私と母の写った写真は戦地に届き、検閲済の印を押した父からの喜びの軍事葉書が今は残っているだけだと話した。父も私も写真でしか顔を知らない。山田さんからは、生まれた頃、父と母は離婚し、祖母に育てられたこと、母に抱かれた記憶はなく、両親の愛情を感じたことはないと聞いた。処分で関係を切られた施設「希望の杜」の子どもたちの教育にかけたい気持ちはそこからきていると山田さんは語ってくれた。私は胸が熱くなった。
 私は靖国問題を取り組んできたが、2020年1月頃にその同人誌「反天皇制市民1700」で、私の友人がシベリア抑留体験のある父親について書いた『父の足跡を辿る』という冊子を紹介した。その紹介文を読んだ山田さんから電話があった。彼は「私の父もシベリア抑留体験があり、生前にその体験を聞けていない。冊子を手に入れたいので、連絡先を教えてほしい。」と言った。長い彼とのつきあいで、はじめて聞く話だった。その後、彼には『父の足跡を辿る』が届いたと聞いている。この年の3月頃から山田さんの闘病生活が始まっているので、お父さんのシベリア抑留体験を調べる時間があったのかどうか分からない。
 山田さんについてのこの2つの記憶から彼の人生の深いところに触れた感じがする。

ユニークで独自だった江菅洋一さん

 江菅洋一さんとのつきあいは、安威川ダム反対市民の会発足(1982年3月)からだからもう40年になる。はじめて江菅さんと会って、「お米」の専門家だと聞いて、驚いた。当時、安威川ダム反対市民の会は、ダムの危険性を訴え、さまざまな角度から下流住民による反対運動を繰り広げていた。安威川の河川敷でダム反対のアドバルーンを上げ、バーベキューをしながらの市民集会を何度もした。また江菅さんの専門である自然観察会を呼びかけ、親子連れで楽しく活動した。私は、自転車で安威川流域の水利史を調べるエクスカーションに熱中した。それらの活動をなつかしく思い出す。
 大阪府で情報公開条例が実施された時(1984年10月1日)、「安威川ダム地質調査資料」の情報公開請求を行った。(江菅洋一名で)大阪府情報公開条例請求の第1号だった。結果は大部分が非公開決定だったので、84年12月異議申し立て、85年3月に府が異議申し立てを棄却したため、85年6月大阪地裁に提訴。92年6月地裁で大阪府勝訴判決、控訴。94年6月高裁判決、住民側勝訴判決。府が最高裁に上告したが、95年4月上告棄却の判決があり、勝訴が確定した。行政情報の意思形成過程情報について、住民勝訴の画期的判決だった。
 その後、江菅さんを中心に2014年2月大阪地裁にダム建設への公金差し止めを求める住民訴訟を提訴した。この裁判は争点が事業目的の適否や脆弱地質・地盤及び治水効果性、課題克服技術などの専門的内容になり、権威依存バイアスの強い裁判所の体質もあり、地裁敗訴、控訴後も21年10月高裁敗訴となった。上告せず。
 この裁判の前段に大阪府に対するに監査請求を行ったのだが、監査請求に入る前に江菅さんから、「会って話したいことがある。」と私に電話があり、茨木市役所のロビーで話をした。彼からこの問題について、監査請求→提訴を考えているのだが「松岡さんに原告に入ってほしい。」とのことだった。ダム反対運動を一緒にやってきた仲であるのは勿論そのひとつであるが、「実は」と打ち明けられたことがあった。「右舌下腺癌から胃に転移(これはすでに手術した。)、肺にも転移している。」との打ち明け話だった。それで裁判になったら、万が一原告死亡の場合、「行政訴訟では原告の子どもは裁判を継承できない法理になっている。」そのため「原告に親族以外に入ってほしいので、ぜひ松岡さんに加わってほしい。」という依頼だった。江菅さんの話に心を打たれて、私はすぐに原告になったのだった。
 江菅さんは今年の9月21日に亡くなるまで自身を燃焼し尽くしたと思う。彼は会った当初から「発想」が独自で、常識的には「A」と「B」とは別ものと思っていることを、「いやそんなことはない!」と両項をつなげ、いつのまにか運動化するといったユニークな側面があった。亡くなるまで関わった住民運動、市民運動はダム反対運動、情報公開運動だけでなく、障害者運動、教科書採択運動、教職員組合運動、その他、私も知らないさまざまなものがあった。実にエネルギッシュで粘り強い人だった。
 この頃、私より若い人が先に亡くなることが増えた。とてもさびしいものだ。江菅さんの死に心よりお悼みする。

読む・視る

書評・映画評・教育時評・報告を掲載します。

学校訪問

これまで管理人(松岡)が取り組んだ学校訪問・学校間交流の記録です。

旅の記憶

これまで管理人(松岡)が出かけた旅の記録です。