1950年代に全国の都道府県、地方自治体のおいて行われた戦没者遺児の靖国神社参拝の歴史事実とその背景について報告しました。またこの靖国遺児参拝は戦前の1939年~1943年まで5回にわたって恩賜財団軍人援護会によって行われた遺児参拝を踏襲したものであったことにも触れました。私が15年戦争研究会を知り、この報告を依頼されたのは、戦前の朝鮮における遺児参拝関係の資料情報を会員の塚﨑昌之さんにお尋ねしたことからでした。研究会の当日、塚﨑さんに戦前朝鮮の靖国遺児参拝関係のサブ報告をしていただき、大変参考になり、感謝致します。
報告後の質問のなかで私が充分答えきれなかった点がふたつありました。ひとつは、敗戦直後には、もう戦争は嫌だとの反戦、平和意識が存在したはずで、靖国遺児参拝について批判的論調が当時なかったのかどうかという質問でした。もうひとつは、戦後の遺児参拝の起こった原因を1950年代の政治状況(朝鮮戦争と自衛隊の創設、日本の再軍備の進行)から「戦争が起こったなら、戦没者遺児に銃を取らせよう」としたと直結させるのは違うのではないかとの意見でした。どちらも、戦後には反戦・平和意識が強く存在したとする考えからくる意見と思いました。ひとつは当時の遺児参拝に関する新聞記事には遺児参拝に対しての批判的意見は出てこないことです。勿論、憲法の政教分離原則違反との批判も見当たりませんでした。戦後の政治・社会状況のなかでなぜ遺児参拝がこのように行うことができたのかをさらに深めたいと思います。それは1950年代の戦争と平和に関する日本遺族会内部及び靖国神社内部の意識と思想、その後の変化を明らかにすることが私の課題と考えました。さらに課題としたいことは、戦前の遺児参拝と戦後の遺児参拝との連続性、なぜ戦後も戦前の同じ形の遺児参拝が続いたのかを究明することです。また戦前の植民地(朝鮮、台湾等)で靖国遺児参拝があったのかどうかを日本の植民地支配の関連から調べてみたいと思います。