私の父は2度目の召集で1945年1月に中国湖北省で戦死した。35歳だった。その時、母は28歳だった。父の死後、母は生涯再婚せず、私を育ててくれた。
私は、高校1年の時、「うちのお父ちゃん、戦争に行ってるんやから、向こうで(中国で)人、殺しているはずや」と母に問いかけた。母は私の問いに「うちのお父ちゃんは、虫も殺さんええ人やったから、絶対そんなことあらへん」と撥ね返した。その後、私は二度とこの問いかけを母に向けることができなかった。この時の体験が、戦没者家族は戦争の被害者であるとともに、アジアの諸国の人々に対する加害者であると考え始めた私の原点であった。
私の靖国問題について関わりは靖国合祀取消訴訟からだった。参加したのは母の死後であり、母の遺品のなかから靖国神社合祀通知を見つけ、「こんな紙一枚が父を神にしたのか」とほんとうに腹立たしく思った。そして訴訟参加を決断した。靖国合祀取消訴訟は2006年8月に大阪地方裁判所に提訴され、私は1年遅れで翌年2007年8月に訴訟に合流した。合祀取消訴訟に参加したことで、靖国問題が私の大きなテーマになった。また訴訟の大阪高裁結審の直前に中学3年時の靖国遺児参拝文集『靖国の父を訪ねて(第12集)』(以下、『靖国文集』)を再発見し、さらに認識が深化した。靖国神社合祀取消訴訟、その後に参加した安倍首相靖国参拝違憲訴訟の存在が私の中で大変大きかった。
1950年代には戦没者遺児による靖国神社遺児参拝が全国的に行われた。大阪府の事例を調べると、1952年にサンフランシスコ講和条約発効記念事業の一つとして遺児参拝が始まっていた。この後1959年の第14回まで続いた。1957年までは春秋年2回の参拝が行われ、私の参加した第13回の遺児参拝が1958年夏で、1958年から年1回に変わっている。1957年までの春秋2回の参拝の参加人数の合計は、初年度の約540名から始まり、1957年には1000名強に増大、年1回の参拝になった1958年には1度に1000名近くも参加していた。私の場合、父の靖国神社合祀が1957年で、遺児参拝は1958年だった。
所要経費の負担は、初年度の場合、「一人宛参拝諸経費の補助として二千円(その範囲において実施する)」「全額府において負担」となっている。なお、これと別に1953年7月から戦没者遺族の靖国参拝のために国鉄(現JR)乗車券の5割引の制度が始まっていた。割引分の運賃は国で負担した。
実施要領は「(遺族)連盟の委託事業として運営に関しては連盟に委嘱する」となっている。また、参拝する遺児は「靖国神社合祀済者の遺児に限る」「各支部長の推選するものとする」となっており、期間中は「修学旅行に準じた取扱いをする」(大阪教育長通知)とし、出席扱いであった。また遺児参拝は大阪府遺族連盟(後の大阪府遺族会)への委託事業だったが、大阪府民生部世話課が実務を担当した。
靖国遺児参拝については全国的にも行われていた。当時の遺児参拝の記録はいずれの県も『靖国文集』として残っている。そのうち確認出来たものは、北海道、岩手県、福島県、茨城県、富山県、大阪府、広島県、鳥取県、島根県、長崎県である。どの文集も『靖国の父を訪ねて』という同一のタイトルであり、全国的に同一歩調で遺児参拝が行われたことが分かる。遺児参拝は1952年に始まり、1959年に一巡して終わっている。
1950年代は朝鮮戦争があり、アメリカ軍による日本の再軍備化・自衛隊の創設が進められた時代であり、ひとつ間違えば、日本は他国との戦争へと向かうかもしれない戦争の危機の時代だった。そうなっていれば、戦争遺児たちは再び銃を持たされ、戦争へ動員されていただろう。そのような政治状況で靖国遺児参拝が行われた。
私が参加した1958年の第13回参拝の『靖国文集』によると、行きも帰りも夜行列車による3泊4日の旅だった。靖国神社参拝は2日目の朝に旅館で少し休憩をして、午前8時に靖国神社の境内に入り、遺児たちは靖国神社の深閑とした雰囲気に飲みこまれる。そして、本殿に昇殿して、祝詞の声が響き、玉串を捧げる神事が続く。神官が「さあ、あなた方たちのお父様と無言の対面です。心おきなく存分にお話しください。」と遺児達を促し、柏手が打ち鳴らされる。遺児たちの感想文には、本殿の大鏡を覗くと、「お父様の顔が映っているようで」「知らぬ父の顔が現れて来たような気がした。」等の表現が散見される。さらに「この靖国神社は、お国のためになくなられたあなた方のお父さんや、お兄さんの英霊がお祀りしてあります。此国がある限り、あなた方のお父さんの名は後々まで残るでありましょう。」と宮司の話が続く。父のいない悲しさと寂しさをずっと抱えこんできた子たちは、戦死した父の死の意味づけを、このようにして聞かされた。
大阪府の遺児参拝文集を読み、父や兄たちの広大な戦場、母子たちの戦後の生活、遺児参拝の様子、静かであるが湧き上がる子どもたちの怒り等を読み解き,戦後も「少国民」とされた遺児たちの姿を見つめた。文集には、子どもたちの当時の生活と心情がよく現れている。
<母子たちの戦後>
●「私が誕生した時父はすでに戦場へ行っており、その年に死亡したので、私は父の顔を知らない、もちろん思い出もない。幼い頃の私には、友達が父と歩いている姿を見ていじらしく目につき、うらやましく思った事も幾度かあった。戦争で父を失った私は、戦争の事聞きたくない。母もきっと太平洋戦争の事は云いたくないだろう。なぜならば私がもの心ついてから今日まで、母は私に戦争の事を何も話さない。そして父の事ですら口に出さない。」(『第10集』大阪市西淀川区、女子)
●「ぼくには父、母、おじいちゃんがいない。しかしおばあちゃんがいるからいい。ただ父のある友達がうらやましい。(中略)もし戦争がなければ、無言の父ではないし、母もいるだろう。父、母がほしい。しかし今はおばちゃんに育ててもらっているが、昨年まではおじいちゃんがいたが、きょうしんしょうで亡くなった。ぼくは今におばあちゃんを楽にしてあげ、父より偉い人になるのだと決心した。」(『第12集』大阪市西区、男子)
●「母は昭和二十六年六月二十九日、父の帰りを待ちこがれ、その間の疲労と苦労の為に長い病床につき、この日私達三人を残して病死しました。祖母も我が子の帰りを待ちこがれ、いく日泣いて暮らした事か。我が子の戦死を聞いた時どんなにびっくりした事か。その為に祖母はあまりの驚きに元気な体も一度に弱った事であった。こんな思いをした祖母は老衰の為この年の八月二十四日に死んでしまった。父も母も祖母もない私達兄弟三人が立派に成長する事を父にもう一度誓った。」(『第5集』大阪市阿倍野区、女子)
<遺児集団参拝はこのように行われた>
●「大きな鏡の前に私達一同は座った。此の鏡の中にお父さんが居る。私はじっと鏡をみつめていた。「お父さん」と、小さくよんだ。目頭があつくなってきた。あつい涙がほほをつたった。鏡がくもって見えなくなった。」(『第5集』大阪市東住吉区、女子)
●「私も顔さえしらない父の霊に心の中で「お父さん!」と叫びながら足の痛いのも忘れ一生懸命祈った。ああ父はあのみにくい戦争の犠牲になった。しかし父は国の為に尽くし、国の為に立派に死んでいった。当時はそれは正しい立派なことであった。そして父もそれを正しい立派な事と信じて立派にこの世を去った。私はその立派な父の子である。誰にもひけをとる事はない。いやそれどころではなく国家の為に尽くした立派な父を持つ事を誇りとし、その父の子としてはずかしくない行いをしなければならない。」(『第1集』岸和田市、女子)
●「母の話に依ると僕の五歳の時、父は戦争に行かれたそうだ。その時僕はこんなことを言ったらしい。「お父さん、戦争に行ったら鉄砲の玉があたって、死んでしもてや、死んじゃったかてかめへん、神さんになってやもの」と。」(『第1集』豊能郡、男子)
<静かであるが、湧き上がる子どもたちの怒り>
●「父は私の三才の時に亡くなりました。(中略)私は父とそっくりだそうです。お母さんから、お父さんの顔が見たかったら、自分の顔を鏡に写して見ればよいといわれるくらいです。無口な所、性質等もよく似ているそうです。父が戦場に行く日、私は母にだかれて、どんなに泣いた事でしょう。幼かった私にも父の行き先がわかっていたのではないでしょうか。「お父ちゃん、お父ちゃん、行っちゃいやだあ」。何となだめられても私は泣きつづけていました。けれども父は、汽車の窓から日の丸の旗をふって私から遠ざかって行ってしまいました。戦争はようしゃなく幼い私の手から愛する父をうばい去ってしまいました。私は戦争がにくらしい、戦争がおそろしい。戦死された父や多くの人々は、もう二度と戦争が起こらないよう願っていられるでしょう。私だってこのよう不幸が起こらないように願っています。」(『第5集』大阪市旭区、女子)
●「僕の父が一体どこにいるのだ。健康な姿はどこに行ったのだろう。ただ大きな鳥居。門の様に閉ざれた(*本殿)正面の板戸、とりまくすべてがなつかしい父と僕との間を閉じている様である。僕は誰にともなく無暗に腹が立った。畜生、誰が父を殺したんだ。世界中で唯一人しかない立派な父を誰が海底に沈めたんだ。僕は無我夢中だった。辺りに誰が居ようが居まいが、おかまいなしにくやし涙がとめどもなく頬を伝った。然しこの相手の無い僕の憤りはすぐに云い知れぬさびしさに変わってしまった。広い靖国神社の玉砂利の中に、僕一人ぽつんと取り残されたようなさびしさだった。(中略)鳥居の所まで出た僕は、わすれ物に気が附いて二、三歩引き返し、しゃがんで下の玉砂利を一にぎりポケットに入れた。」(『第5集』南河内郡、男子)
●「『もう沢山』と叫びたいのを押えながら、すすり泣きの聞える中を、私は終わりまで神主さんの顔を凝視してやめなかった。『寒い凍れるような雪の中、夏は太陽の下で国の為に雄々しく戦い死んでいかれたあなた方のお父さま』。何と白々しい意志を持たぬ言葉だ。この飾りたてられた言葉が、幾千人の遺族に向って語られたことか。おそらく神主さんの頭の中にその文章は暗記され、明確に覚えこまれていることと思う。明日も明後日も、遺族に向かって語られるだろう。私はそんな安っぽい話なぞ聞きたくはない。私にとって父の死は、もっともっと厳粛な、そして寂しさと恐しさを持って存在するのだ。私の体の二分の一は父によって形造られたのだ。神主さんの話にすすり上げた人達は、話の何処に心ひかれたのか、私には理解し難い。本殿を下りながら、初めて私は悲しい気持ちになったのだ。このような反問の連続と、もろもろの感情を私に与えて靖国神社参拝は終わった。」
(『第12集』大阪市天王寺区内、女子)
最後に、「靖国神社の歌」を取り上げ、戦後の遺児参拝には戦前の戦争と結びついた靖国神社の記憶と機能が戦後も生き続け、問題が今も続いていることを提示した。
戦後の遺児参拝は第二次世界大戦(太平洋戦争)中の遺児参拝を踏襲していた。それは恩賜財団軍人援護会が1939年から1943年まで毎年1回、全国の都道府県・海外植民地(台湾、朝鮮、満州、関東州、樺太等)の戦没者遺児の靖国神社参拝を実施したもので、総計1.8万人が集められた。軍人援護会は1938年に皇室の下賜金によって作られた軍人援護の組織で、戦没者の遺族,傷痍軍人ならびに出動軍人の家族等に対する物心両面にわたる援護を行った。1943年の第5回参拝には、全国各地から4859名の遺児が参加した。1944年からは戦局の悪化と米軍の空襲の激化で参拝事業は中止され、各都道府県の護国神社参拝に変わった。各都道府県の軍人援護会は児童の参拝の感想文集『社頭の感激』(全県同名のタイトル)を発行し、現在も文集が多く残っている。
私の今後の課題は、戦前と戦後の遺児参拝の「連続性」の究明で、戦前の遺児参拝の事実と狙いを明らかにすることで、戦後の遺児参拝の本質を浮き彫りにしたいと考えている。