最近、戦前(アジア太平洋戦争時)と戦後(1950年代)に行われた戦没者遺児の靖国神社強制参拝に関する本が続けて刊行された。安保法制の成立した2015年9月から4年、日増しに戦争への危険性が増大している。戦没者遺児の靖国神社強制参拝に目を向けることは時宜にかなっている。
・出典 「わだつみのこえ」(151号、2019年11月)
斉藤利彦著『「誉れの子」と戦争 愛国プロパガンダと子どもたち』では、戦前の戦没者遺児靖国神社集団参拝が恩賜財団軍人援護会によって行われたことを徹底的な調査と体験者からの聞き取りによって明らかにしている。
戦前の靖国神社遺児集団参拝は1939年に始まり1943年まで毎年一回行われた。北海道から沖縄までの全国、台湾、朝鮮、満州、関東州、樺太等の植民地からの戦没者遺児参加者、総計1.8万人が集められた。戦没者遺児は戦時体制のなかで戦争遂行のために徹底して利用され、父や兄の後に続き、自らも銃を取るこを求められたのだ。
恩師財団軍人援護会は1938年10月に皇室の下賜金によって作られた軍人援護の組織だ。戦没者の遺族,傷痍軍人ならびに動員軍人の家族等に対する援護を行い、戦前の海外侵略と戦争遂行に加担し、国家と天皇制に強く結びついていた。各回の遺児参加人数は本書によると次の通りである。
第1回(1939年)1324人、第2回(1940年)3191人、第3回(1941年)3821人、第4回(1942年)5000人超、第5回(1943年)4859人
1944年からは戦局の悪化と米軍の空襲の激化で靖国神社参拝事業は中止され、各都道府県の護国神社参拝に変更された。旅費・宿泊費等は軍人援護会がすべて負担し、各都道府県の軍人援護会は児童の参拝の感想文集『社頭の感激』(全県同名のタイトル)を発行し、現在も国立国会図書館等に文集が多く残っている。
本書は、「社頭の対面と誉れの子」、「軍人援護政策の展開と誉れの子」、「誉れの子と国家」、「誉れの子たちが受けとめたもの」、「誉れの子への国家の冷徹なシナリオ」、「誉れの子たちの愛国」、「誉れの子たちの記憶と現代」という構成内容だ。
本書を読むと、戦没者遺児は国家の戦争遂行に徹底して利用され、靖国集団参拝はその遂行のためのプロパガンダだったことがよく分かる。たとえば当時の集団参拝参加者、八巻少年の頬に伝う「涙」は情報局の担当者が指示し、目薬によって演出されていたことが本人から明かされる。戦前の靖国集団参拝について、斉藤さんの綿密な調査に強い刺激を受けた。
戦没者遺児の靖国集団参拝が戦後もあったことはほとんどの人に知られていない。私が戦後の靖国神社遺児参拝にこだわってきたのは、戦後の靖国遺児参拝に参加した当事者であるからだ。
私の父は1945年1月に中国湖北省鄂城県梁湖島で戦死した。35歳だった。父が戦死した時、母は28歳。母は父の死後、再婚をせず、大変な苦労して一人っ子の私を育ててくれた。私は1944年生まれなので、私の生育史は戦後史とほぼ重なる。
いろいろな曲折を経て、私は靖国神社合祀取消訴訟の原告となった。その高裁結審の直前の2010年6月に、本棚の底に埋もれていた中学3年時(1958年)の靖国神社遺児参拝文集「靖国の父を訪ねて(第一二集)」(1959年3月、大阪府遺族会発行)を再発見した。そこには私の文章があり、「もう一度行こう靖国へ」となっていた。私は靖国神社本殿で宮司が話した言葉を記録していた。「この靖国神社は、お国のためになくなられたあなた方のお父さんや、お兄さんの英霊がお祀りしてあります。此国がある限り、あなた方のお父さんの名は後々まで残るでありましょう。今日も大きくなられた人々が“お父さん、こんなに大きくなりました。”と報告に来られています。皆さんも、もう一度やって来て下さい。」と。それを受けて、「私はなんとなく父は立派な死に方をしたんだなあ,と思った。」と書いている。「そうではないか、現在色々な人が馬鹿な死に方をしている。それと違って父の名は後の世まで、この本殿とともに残るではないか。」と。「これが当時の私の認識だったのか?」と私は愕然とした。
戦死した父の「死の意味づけ」を求める子どもを、このように戦後も国や行政、靖国神社は利用し続けた。戦死した父や兄が「英霊」として祀られ、その死の意味づけを遺児たちは教えられる。もし戦争となれば、遺児たちもまた次の戦争に動員される。そういった靖国の役割を靖国神社遺児参拝と靖国文集に見た。その後、私は遺児集団参拝についての調査を始めた。
大阪府では、1952年の第1回から1959年の第14回まで遺児集団参拝が続き、父親が靖国神社に合祀された中学3年生を毎年1000名規模で靖国神社に集団参拝させていた。遺児集団参拝は、サンフランシスコ講和条約発効を期に行政主導で行われたもので、1952年から1960年頃まで全国の都道府県、市町村で行われた。旅費・宿泊費等の予算は都道府県が負担し、参拝事業を遺族会に委託した。遺児集団参拝文集も『靖国の父を訪ねて』という同じタイトルで各都道府県で作られ、分かっているだけでも、北海道から、岩手、福島、茨城、富山、大阪、広島、鳥取、島根、長崎の各県で行われていたことが分かる。また京都市・舞鶴市等、市町村レベルでも行われていた。戦前と戦後の靖国遺児参拝は連続し、同質と考えられる。
靖国神社遺児参拝が行われた1950年代とはどんな時代だったのだろうか。1951年9月にサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約が調印され、1952年4月に発効、日本がアメリカの占領から独立する。1950年6月に朝鮮戦争が始まり、1953年7月まで続いた。日本は朝鮮特需で経済復興を遂げた。独立後、米ソの対立・冷戦が激化し、アメリカの対日政策が変化する。そのためそれまでの民主化政策が変更され、国内的には逆コースと言われた反動化が進み、ソ連・中国等の社会主義圏との冷戦が激化する。そのような国際状況の変化のなかで、アメリカは日本に反共軍事同盟化、再軍備化を求めた。日本の再軍備化は、1950年8月に警察予備隊、1952年10に警察予備隊を保安隊に改組、さらに1954年7月に陸海空軍の自衛隊が発足した。1950年代は日本の再軍備が進められ、ひとつ間違えば日本が他国との戦争へと向かうかもしれない戦争の危機の時代だった。そうなっていれば、戦争遺児たちは再び銃を持たされ、戦争へ動員されていただろう。靖国神社遺児参拝は遺児たちに父・兄たちを英霊として称え、その戦死の意味を教え、遺児たちの心にそれを刷り込むための全国動員だったといえる。幸いにも戦争の危機は避けられ、その危惧は回避された。しかし、現在の戦争をめぐる安倍政権の政策(集団的自衛権の容認、安保法制の成立)は、1950年代同様、いやそれ以上に戦争の危機を予感させる。
本書の構成は2部に分かれる。第1部は、1950年代の遺児集団参拝の全国的な状況から始まり、大阪府、京都市・京都府の集団参拝について、また大阪府、広島県、長崎県の靖国文集から、遺児たちの戦死した父や兄への思いと戦後の苦しい生活、広島・長崎の被爆地の遺児の思い等を読み取った。特に大阪府の靖国文集で遺児参拝を鋭く告発する少女の文章と出会ったことは鮮烈な印象だった。そして最後に遺児集団参拝と記憶の再生・継承について考察した。
第2部は靖国強制合祀と戦争体験の継承である。まず靖国合祀取消訴訟と安倍首相の靖国参拝違憲訴訟の陳述書から父の戦死に関わる私の戦後体験を掘り下げた。さらに私の父親の戦死と私の友人の父親の戦死の状況を調べ、兵籍簿に見る父親たちの戦争を追跡した。最後に私の大学時代の先輩も靖国遺児参拝に参加していたこと、先輩の父親がフィリピン(ホロ島)で戦死された具体的事実を調べた。また関連してホロ島戦の生存者の子どもたちを訪ねて取材し、戦争体験の継承を考えた。
私が本書を書き上げるなかでいつも考えていたのは、記憶の再生と継承だった。記憶は曖昧であり、忘却しがちだ。当時の記録文書は容易に見つからなかった。意識的に自らの記憶を甦らせなければならないし、何度も試行錯誤を繰り返し、当時の歴史事実を掘り起こしていく以外に方法はない。また遺児参拝を調べるなかでいつも葛藤を感じてきたことがある。私は父親を戦争で亡くした世代である。父親の戦死と、再婚をせずに私を育ててくれた母親の苦労とを身にしみて感じて育った。母を通じて伝えられた戦争の記憶は私の人生と切り離せないものだった。ただそこからくる発想には「被害者」としての意識が強くあり、長じて日本のアジア侵略、戦争責任等「加害者」認識を持つようになったが、果たしてどこまで被害者としての意識を抜け出ていたか。私にとって「靖国を問う」とは、被害と加害の関係の意識化、対象化であった。
合祀取消訴訟敗訴後、靖国合祀取消訴訟の元原告(「靖国合祀イヤです・アジアネットワーク」)は毎年秋に合祀取消を求めて、靖国神社当局と交渉を持ってきた。今年で8回目になる。そのやり取りで気になったことがある。それは安保法制成立後に靖国当局の態度が変わってきたことだ。毎回、自衛隊の海外派兵で死者が出た場合、「合祀があり得るのか」との質問をしてきた。安保法制成立前は「憲法があるので、合祀はない。」との回答であったが、安保法制成立後は「政府の判断を待つ。」に変わり、「時代の要請を踏まえ、当神社の崇敬者総代会が最終的に判断する。」と答えた。この回答に自衛隊の海外派兵によって戦死者がでた時、靖国合祀があり得るのではないか、靖国神社は戦死者が出るのを待っているのではないか、という危機感を強く感じた。戦死者が出て、靖国合祀が行われ、今後私の体験したと同様の3度目の遺児靖国参拝がないように戦争に反対する戦いを組んでいかねばならないと思う。
なお靖国遺児参拝には次の先行研究がある。戦前については山中恒著『靖国の子 教科書・子どもの本に見る靖国神社』(大月書店)、一ノ瀬俊也著『銃後の社会史 戦死者と遺族』(吉川弘文館)。戦後については一ノ瀬俊也著『故郷はなぜ兵士を殺したか』(角川選書)。
・出典 「わだつみのこえ」(151号、2019年11月)