学校訪問

国際交流の道を求めて 
Eメールによる学校間交流 


 

 

松 岡  勲 「現代と教育」No.52(2001年1月)

インターネット事始め

 私は4年前まで「原稿は手書き主義者」でした。忘れもしません、4年前の96年12月30日に、市民講座(10年間続けてきて一昨年暮れに終了したのですが)を一緒にやってきた友人から「もう、連絡がつかなくって、便利が悪くってしかたがない。パソコンを買って、Eメールをやれ!」と言われ、大阪市の日本橋にあるデンデンタウンに連れていかれました。そしてノートパソコンとプリンターを選んでもらったのです。すぐにインターネットの世界にはまりました。今では自分のホームページ「教育サイバーネット」を持ち、メーリングリストの管理者をしているのですから、我ながら不思議です。

フランス人カップルの来校

 98年の12月、知人の村田栄一氏から世界旅行中のフランス人カップルを学校に招かないかとのお誘いがありました。その時に様子を「教育サイバーネット」から再現してみます。

高いハードル

 いや。まいった、まいった。 11月17日の夜に村田栄一さんから「フランス人で、世界旅行していて、26日に中国から大阪に着く2人がいる。1週間ほど関西にいて、学校を訪問したいとの依頼があったので、なんとか受け入れてほしい」との連絡が入りました。「なぬ、フランス人!」、英語でも自信がないのに、フランス語!

 いままで村田さんには、スペイン、フランス、イタリアの学校訪問のツアーでお世話になっています。突然に電話があったときは、だいぶ高めのハードルを設定されて、うならせられる。この3日間、「どうしよう」と悩んだけど、結局、引き受けることにしました。

 私の担当している中学2年生の子たちも「会いたい」と言います。「おれ、フランス語ができないぞ」というと、「英語、英語」と気楽なもの。「英語の先生に頼んだらいい」と、もうその気。

 学校関係の知人、友人、そして、英語・フランス語のできる友人を巻きこんで、楽しむことにしょう。今日の連絡では夫婦2人のカップルのようだ。フゥフゥ・・・
(98年11月20日)

フランクとデルフィーヌ

 2人の名前はフランクとデルフィーヌ。彼らは世界一周をして、大阪にやって来ます。フランスから中央アジア、モンゴル、中国と移動し、大阪に入ることがわかりました。ホームページは英語、フランス語、スペイン語からできていて、そして、移動しながらホームページに書きこんでいるのです。すごいな!

 「旅?まだ小さい頃、彼は旅を開始。子供の時にヨーロッパを横断し、可能になるやいなや、ほかの地平線、つまり過去に訪れたことがない、あるいは再び訪れてこの目で確かめることを夢見ていたアジア、アフリカ、南米へと向かって出発しました。そして今日、あなたと情熱と分かつためこの世界旅行に出発します。」(フランク)

 この後、フランクらの日本受け入れの連絡をしていただいている黒川素子さんとの頻繁なEメールでの交信が始まりました。
(98年11月2日)

 来日したフランクとデルフィーヌと協力者の友人たちと京都で会い、私の勤務校である高槻市柳川中学校と高槻市内の小学校2校に来ていただきました。そこで世界旅行中の写真をパソコンから投影しながら見せていただき、お話をきくことになりました。私のクラスでの当日の様子をご紹介します。

子どもたちよ、ありがとう!

 12時40分頃、二人が柳川中にタクシーで到着。

1時に通訳をお願いした宗本さんが到着(彼女は私の息子の後輩)。コンピュータに詳しい同僚、英語科のKさんとみんなでコンピュータ室へ。コンピュータへの接続、即座に完了。

 5時間目が始まり、私の担当クラス(2年6組)の生徒たちが来る。参観者は校長、英語科のKさん、相談室のカウンセラーのAさんの3人。授業の最初と最後に、フランス語の「こんにちは」、「はじめまして」、「さようなら」、「よいご旅行を」をみんなで練習しておいたフランス語でやりました。スクリーンに投影された映像とユーラシア大陸の大きな地図をバックに2人の話が始まり、生徒たちは歓声をあげ、大喜びでした。その写真ももうできました。

 生徒たちの質問をいくつか。

 「旅行中にけがをしたか」との質問には、デルフィーヌがモンゴルで乗っていたらくだが調子悪くなり、あばれて落馬、10日ほどベッドに寝たきりだったとのこと。また、「中国ではひどい食あたりにあった」といいます。「お風呂に入れるのですか」の質問には、「中国、そして日本に到着するまで2回入ったきりだったが、日本では毎日入れている。お風呂に入れなくとも平気」だったそうです。「2年も旅行するためのお金はどのように用意したのですか」と質問したところ、「フランクが7年間、必死に働いてため」といいます。

 フランクから「みんなは将来にどんな夢があるのか」という質問があり、「できるだけ英語で言ってみてほしい」との注文がつけられました。ちょうど英語の時間に「My Dream」というスピーチをやっているので、生徒2人がそれを英語でしゃべりました。Yさんは「将来、おいしいパンを焼き、パン屋さんになりたい」と、かなり長いスピーチをつっかえながら行いました。その様子をとてもかわいく感じました。なにせ、英語でしゃべることは大変ですし、「てれ」もありまから。

 その場で話せなかった子どもたちから、「私の夢をEメールで送ってほしい」という希望があったので、フランクに後日に送るつもりです。

 最後に、「日本の歌を知っていますか」というNさんの質問に対して、逆にフランクから「日本の歌を歌ってほしい」と希望が出されて、音楽の時間に習っている「歌をありがとう」をみんなで歌いました。会が終わってからは握手をしてもらったり、英語でしゃべろうと2人の周りに集まってくる子たちがいて、最後になって「てれ」がなくなり、みんな大はしゃぎでした。子どもたちよ、ありがとう!

 フランクとデルフィーヌと宗本さんと今後の日程等について打ち合わせをし、大阪に行く2人と分かれましたが、私たちにとって2人は「まれ人」でした。本当にありがとう!

 先ほど宗本さんにお礼の電話をし、宗本さんに子どもの感想のいくつかを英訳してもらうことになりました。これから世界を移動中の2人に交信していくことにします。
(98年12月2日)

 この後、子どもたちの感想文を英訳し、写真を添付し送ったのですが、フランクとデルフィーヌから応答がありませんでした。彼らが日本からカナダに入ったところまでは、ホームページが更新されているのですが、その後更新がありませんでした。なにか事故でもあったのではないかと心配をしたまま2年が経過しています。

はじめてのラテンアメリカ旅行

 98年の8月に初めてのラテンアメリカ、高原の国ボリビアへの旅をしました。ブラジルのサンパウロ経由でボリビアのサンタクルスまで、実にまる1日間が飛行機のなかでした。南米は遙かな国なのだと実感しました。

 ブラジル側と接する熱帯雨林気候のサンタクルスに到着し、これから高度を上げていく旅でした。ここで時差ボケの疲れを癒します。一度に高度3千メートル以上の高原(アルチプラーノ)に登と高山病になるので、順次高度を上げる旅とでした。(この旅の記録は「教育サイバーネット(旅の記憶)」をご覧ください。)

 夜を徹してのバス行で到着したチチカカ湖で、ボリビア旅行の最終地ラパスでガイドでついていただくMさんとは会いました。はじめ、日本語の流暢な彼を日本からの留学生かと思ったのですが、「日系1世」と聞いて、納得しました。レストランで昼食を取りながら、彼から日系ボリビア人社会のさまざまな問題について聞いくことができました。サンタクルスには日系移民の居住地が2ヶ所あります。一つは「コロニア・サンファン」で九州出身者が多く、もう一つは「コロニア・オキナワ」で沖縄から移住してきた人々が居住しています。彼はサンファンの出身で、両親は農場を経営しているとのことでした。  

 2週間のボリビアの旅から帰国して、もう一度ラテンアメリカを訪れる時には、日系社会の人々の生き様と文化を追い求め、サンパウロからサンタクルス、そしてペルーへの道をたどりたいと思いました。

Eメールによる学校間交流

 そういう思いがあったところに、99年の9月からブラジルのサンパウロ州にあるバストス日本語学校とのEメールによる交流が始まりました。同僚の知り合いが、ブラジルのバストスにある日本語学校にJICA(国際交流基金)から派遣されていたことがきっかけでした。

 バストストとの交流では、Eメールを使った瞬時のやりとりのおもしろさに夢中になりました。当時、私は3年生の担任だったのですが、授業に担当していた1年生のクラスの生徒が彼らとの交流を行いました。生徒たちは大変な喜びようでした。双方から質問を出し、「ブラジルのスポーツ」「日本のスポーツ」「ブラジルの食べ物」「日本の食べ物」「ブラジルの遊び」「日本の遊び」など応答しあいました。

 また、柳川中学校の生徒たちは図書館で、「ブラジルの動物」「ブラジルの食べ物」「ブラジルのカーニバル」「ブラジルの教育」「日本からの移民」「ブラジルの生活」を班毎に分担して調べ、授業で発表しました。ブラジルからも生徒の写真を送っていただき、「学校について」の生徒の文章も送っていただきました。

 2000年度にはメーリングリスト「latino」で交流先の紹介をお願いし、ボリビアのサンタクルス州にあるオキナワ移住地のオキナワ第一日ボ学校を紹介していただき、私が担任をしている1年生のクラスとの交流がはじまりました。

 そして、JICAからブラジルに派遣されている方にお願いしてブラジル派遣の方々のメーリングリストに情報を流していただき、あたらしい交流先であるエスピリット・サント州のヴィトリア校が見つかりました。いずれも日系移住地の学校です。

 さて、ここで2000年度のボリビアとの交流の一端を私の発行している「通信」から少し紹介します。

(ボリビアから)

Hola los alumnos de primero intermedio como les van?(スペイン語=やあ 中学一年生のみんな、げんき?)
おっと,その前に自己紹介から、します!
僕は,大城 勇治君(おおしろ ゆうじ)です!
なに!君(くん)は、いれないんだって?
ごめん、ごめん。
では、あらためて、僕は,今、13歳、・・・1987年7月4日生まれです。
それから、血液型はA型です。
趣味は、テレビゲーム、スポーツ、勉強、そして、本を読むことです。
日本の知りたい所は・・・
兵庫県にある,甲子園球場はどれくらい大きいですか?
ディズニーランドは,楽しいですか?
勉強は,むずかしいですか?
大阪弁は、むずかしいですか?
ボリヴィアのすごい所は:
豊かな森が,ひろがっていること,空は,青いです。
さて、問題をだします!
1. ボリヴィアの首都は,どこでしょう?
  1. ラ・パス 2.ワシントン 3.パリ 4.東京
2.僕が、住んでいる,オキナワ移住地は、どこでしょうか?
  1. 広島 2.ブエノス・アイレス 3.サンタ・クルス 
  4.リベリア
3.犬は、スペイン語でなんて呼ぶでしょうか?
  1. ガト(GATO) 2.ぺロ (PERRO)
これだけです。お便りまってます。
(掲載した写真の後列右から2番目が大城君)

(高槻から)

僕は、大阪出身の森井 勇斗(もりい ゆうと)です。
趣味はサッカーで、クラブもサッカーです。
血液型は0型です。
兄弟は、姉と弟がいて、三人兄弟です。
ボリビアから来た質問にお答えしま~す。
まず、甲子園球場の広さは39、600平方メートルあるそうです。
ついでにインターネットで調べてみました。建築日は、大正13年8月1日で、収容人数は、5万5千人であるそうだ。ちなみに甲子園には行きました。芝生がとてつもなくきれいだつた。
大阪弁は、自然に使つているから、別に難しくないです。
ディズニーイランドは、行ったことありません。
ボリビアの人に質問します。
日本料理では、何が食べたいですか?
夜は、何時に寝ますか?
日本に来たら何県に行きたいですか?
これで、質問を終わります。

 こんな感じで、ボリビアとブラジルとの交流が続いています。いまのところ、学校からメールの送信ができないので、代理送信で行っていますが、まもなくそれが可能になります。そうすれば子ども同士の交信ができるようになり、おもしろさが倍増すると思います。(2年間の記録についてはまもなく私のホームページにまとめる予定です。)

 また、しばらく前からメールでやりとりをさせていただいているオキナワ移住地の日ボ学校の理事・比嘉さんが那覇に里帰り中で、「沖縄に来ないか」とのお誘いをいただきました。人の縁とはありがたいものだと感じつつ、昨年の12月24日から27日まで沖縄に行き、比嘉さんのご家族とお会いしました。

 移住して7年のあいだに、3人のお子さんが生まれ、お母さに顔を見せに帰られたとのことでした。ご家族と沖縄を旅行し、沖縄に海の美しさに感動し、旅を満喫しました。比嘉さんは移住地の学校の子どもたちの写真を携えてきておられ、こちらもクラスの子どもの写真もお届けすることができました。

 交流を行っている学年の生徒は、3年になると沖縄に修学旅行に行きますので、これから徐々に沖縄から移住された1世の方々の思いまで届くような交流にしていきたいと思っています。今年の夏はボリビアのオキナワ移住地にぜひお訪ねするつもりです。比嘉さんと語り合った夢に、日本とボリビアの生徒たちの交歓交流がありました。実現すればどんなに楽しいだろうと夢見ています。

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