学校訪問

ボリビアからの便り(1)
極私的「総合学習」


 

 

松 岡  勲 (「教職課程」2002年4月)

はじめに

 今年の1月2日から12日まで、ボリビアにあるオキナワ移住地におりました。2年前から私の担任するクラスと移住地のオキナワ日ボ学校との間でEメールによる学校間交流を続けてきました。縁があって、日ボ学校の運営委員長の比嘉裕さんのお世話で、日系移住地2ヶ所をまわることができました。2回に分けて掲載する「ボリビアからの便り」は、比嘉さんのメールアドレスをお借りして、ボリビアから私の主宰するメーリングリスト「教育サイバーネット」(CNE)に現在進行形で送信したものです。
 4月より本格実施となる新指導要領、そのなかでも鳴り物入りで喧伝された「総合的学習」は、すでに移行期の実践の派手な外形にもかかわらず、空洞化と膨大な無駄の堆積物と化しています。その現状を横目で見ながらの「極私的総合学習」ともなる報告です。

ボリビアからの便り1


 松岡@ボリビアです。
 ボリビアからこんばんは。ボリビアの現在時間は3日午後9時50分です。
 (このメールはお世話になっている比嘉裕さんのアドレスから発信しています。)

 はじめてのひとりでの乗り継ぎの旅は成功しました。
 成田からロサンゼルスまで。ロサンゼルスではテロの影響で、入国審査があり、荷物をもう一度ピックアップしなければならなくなり、うろうろしました。
 ロサンゼルスまでは9時間あまり、次のサンパウロまでは11時間半。いいかげん腰がいたくなりました。ロサンゼルスでは2時間ほど飛行機が遅れ、搭乗ゲートが変わり、心配でしたが、偶然、サンタ・クルス出身の名古屋グランパスの石川康氏と知り合いになり、いろいろ教えていただき、助かりました。石川氏はオキナワ移住地出身だとのことでした。

 サンタ・クルスの飛行場には比嘉さんと息子さんの謙吾君が迎えにきていただいており、一路オキナワ移住地に向かいました。
 ボリビアの平原は実に広い!それとあらためて夜は暗いということに感動しました。詳しい報告は別途ということにして、まずは無事到着の報告とします。

ボリビアからの便り2

 松岡@ボリビアです。
 現在、ボリビア時間で4日の午後11時頃。

 昨日、到着し、夕方に日ボ学校の校舎を比嘉さんに案内していただき、夏休み中で、生徒さんには会えませんでしたが、シニア・ボランティア教員の堤千代子さんと会いました。7日にはオキナワ移住地に残っている生徒さんとの昼食会を計画していただいているので、とても楽しみです。それとメールで交流中の津嘉山モニカさんのおうちにもおじゃまし、モニカさんとご家族にお会いできました。

 今日は比嘉さんの車で移住地を回った。なにせ、広い、広い、広大!
 日ボ協会会館、診療所、農牧業協同組合を回り、移住地の農業の実態を知る。
 今は雨期なのだが、雨量が今年は少なく、リオ・グランデ川の水量が少なかった。これは農業に微妙な影響を与えるそうです。

 午後からは、移住地の農業の歴史を聞き取りに出発。
 まずは比嘉裕さんの牧場に案内してもらったが、まず牧場までは20キロメートルもあり、車がなければどうにもなりません。牧場の面積は350ヘクタール!ほんとう、すべての規模がちがう。大きい、広い!

 友利金三郎さん(83歳)移住初期のリーダー。3度にわたる移住地変遷の苦難の歴史をお聞きする。手入れのよく行きとどいた美しい牧場だった。
 幸地広さん(69歳)移住初期世代。沖縄の嘉手納基地建設で土地を米軍に奪われ、ボリビア移住を決心。最初のうるま移住地での伝染病の発生。「からすが鳴くと人が死ぬ」との当時のひとびとの言葉。死んだ人の穴を一生懸命掘った。それは、「自分が死んだとき、野ざらしにされたくないからだった。」と。
 比嘉敬光さん(64歳)移住初期世代の若手。865ヘクタールの農地をもつ篤農家。息子さんと農業を営む。

 実に充実した移住地訪問の1日だった。
 比嘉裕さんの話しでは、移住地からの日本への出稼ぎ人数は農家150所帯中(各戸で1、2人として)300人ほどにはなるだろうとのことだった。すごい数だと思った。

 今日のところはおおまかな報告とします。

ボリビアからの便り3

 松岡@ボリビアです。
 ボリビア時間は6日午前11時前です。

 昨晩は早く寝ましたので、昨日(5日)の報告です。

 5日は比嘉さんの案内でサンタ・クルスに出かけました。
オキナワから乗合タクシーに乗り、中間地点のモンテーロ(サンタ・クルス、コチャバンバへの物資の集散地)で乗り換えて、サンタ・クルスまで。

 サンタ・クルスには4年前にツアーで来たことがあり、中央公園、カテドラルなどなつかしい風景でした。その当時、サンタクルスは比較的小さい町と勘違いしたことが分かりました。以前に歩いたのは第1環状道路の内側の旧市街で、ほんとうは第2環状道路、さらにその外側と人口は80万に上るとのことでした。

 サンタ・クルスに入る前から雨が降り出しました。
 今年は雨期にもかかわらず、本格的な雨はまだ降っていないとのことです。強い吹き降りの雨でしたが、比嘉さんの話しでは「今日のはスール(南風)で、本格的なノルテ(北風)でない。」とのことで、スールの雨は気温が下がるそうです。確かに今日(6日)は寒いです。それにしても移住地には「恵みの雨」です。

 サンタ・クルスで買い物をした後、オキナワ移住地の日ボ学校と比嘉さんを紹介をしていただいた三浦孝さんとお会いしました。
 三浦さんはボリビア派遣のジャイカ5期生(1990年)、比嘉さんは7期生(1992年)でお友達。それぞれジャイカ派遣終了後にボリビアに定住されました。
おふたりとサンタ・クルスのラテンアメリカ風の焼肉レストランで食事をしました。2年前にCNEの会員であるエルネストさんがやっておられるメーリングリストlatinoで、「交流先として南米の日系移住地の学校を探している。」と投稿したところ、三浦さんからオキナワ移住地の日ボ学校と比嘉さんを紹介いただいたのでした。三浦さんは現在、コンピュータ関係の事業をされており、活躍中でした。

 三浦さんに日ボ学校を紹介いただき、比嘉さんと出会い(里帰り中の比嘉さんとは1昨年11月に沖縄で会いました)、そして、ボリビアで三浦さん、比嘉さんとレストランで食事をすることになりました。インターネットによるつながりで広がる世界。「縁とはすばらしいものだ。」と実感しました。
 ということで、三浦さんとオフ会をした後、サンタ・クルスからオキナワに戻りました。

 以上がボリビアでの3日目の報告でした。

ボリビアからの便り4

 松岡@ボリビアです。
 現在のボリビア時間は6日午後2時30分頃です。

 今日はオキナワ移住地の概況をまとめてみます。

 南米の広大さをあらためて実感させられる数字をあげると、オキナワ移住地のあるサンタ・クルス州の面積は37万平方キロメートルで、実に日本の面積と同じです。平地部はサンタ・クルス州とベニ州でボリビアのそれの3分の2になります。4年前に行ったアンデス高地部はその3分の1にあたりまする。広大な平原部を車で走るとその広さに圧倒されます。

 オキナワ移住地はサンタ・クルスより車で1時間以上かかる。比嘉さんの話しでは、オキナワ移住地の耕地面積は沖縄県のそれよりも大きい。
 いただいた資料によると、耕地面積は第1移住地で21,800ha、第2移住地で16,744ha、第3移住地で8,346ha、移住地外で4,360ha、合計51,250haになる。平均の耕地面積は250haにもなる。(日本で最大の耕地面積をもつ北海道の十勝平野でも平均30haですから、その規模の大きさが分かる。)
 人口は、第1移住地で560人(140戸)、第2移住地で222人(66戸)、第3移住地で142人(30戸)、合計870人(236戸)になる。この人口は日本人のそれで、その他ボリビア人が農業労働者として1万人住み、移住地の合計人口は1万1千人の多きに上る。
想像していたのとは、けた違いの大きさに大変驚きました。実際に来て、この目で見なかったら、このスケールの大きさは分からなかったと思いました。

 移住地には、日ボ協会の文化会館、農牧業共同組合の大豆搾油飼料工場、診療所、学校が2校(第1移住地には私立学校の日ボ学校、第2、3移住地には公立の学校)あり、オキナワ移住地はボリビアの自治体となっている。居住者のほとんどは日本国籍であり、本籍地の自治体に対する各種届出業務も日ボ協会が行なっている。

 農牧業は畑作と牧畜からなっている。畑作は夏期の大豆、とうもろこし、陸稲など、冬期は小麦で、それぞれ天水農業で行なっている。もとジャングルであった土地はよく肥えており、また、肉牛を主体とした広大な牧場が広がっている。

 現在の発展までは、1954年の最初の移住地であるうるま移住地でのジャングルの開墾と疫病の発生、55年のパロメティーリヤの再移住、さらに現在のオキナワ第1移住地への移転と大変な苦労が積み重ねられました。

 以上がオキナワ移住地の概況です。

ボリビアからの便り5

 松岡@ボリビアです。
 こちらボリビアの現地時間は7日午前10時半です。

 昨日(6日)の報告です。
 昨日は午後すぎまでゆっくりし、メールを発信したりして、休憩。

 午後4時頃にモンテーロの高良(たから)良子さん宅を比嘉さんと訪ねました。
 実は大阪の高槻では「高槻外国人市民ネットワーク」という集まりがあり、そこで娘さんの里津子さんと知り合いました。娘さんはボリビアから移住して8年になり、子どもさんも日本で生まれています。

 今回のボリビア行きで、お母さんとお会いできたら、いい土産話になるだろうと思い、比嘉さんにお願いして、案内していただきました。縁があるもので、比嘉さんの奥さんは里津子さんと小学校の同級生でした。

 高良食堂を経営されている高良さんは60代中頃の年齢とおみうけしました。
高良さんは、1958年の第5次移民で沖縄からオキナワ第1移住地に移民。20歳のときだったそうです。そして、現地で同じ移住者のご主人と結婚。ご主人がお亡くなりなって4年になるとのことでした。
 那覇の小緑(ころく)から移住した7所帯中、最後まで残ったのは高良さんご一家のみだったとのことです。しかし、洪水により牧場が浸水し、「3日で牧草がまっしろになり、枯れてしまった。」ため、土地を手放して、モンテーロに移り、食堂を営むようになったそうです。
 お母さんはとてもお元気で、「里津子は食堂で子どもの頃からよく働いてくれてね。」と話されていました。5人のお子さんのうち4人は日本へ出稼ぎに出て、ボリビアに残るのは次男ひとりで、もうひとつのレストランを経営されているとのことでした。
 高良さんはかくしゃくとされており、ボリビアでしたたかに生きてこられた年輪を感じさせられました。

 里津子さんからときどき「帰りたいよ・・今、ビルビル(サンタ・クルス空港)から電話している。」との電話があるとのことで、耳に残りました。「里津子に、元気にしていると伝えてほしい」という伝言を受け、デジカメでお母さんとお孫さんとの写真を撮って、里津子さんへのお土産としました。

 (「琉球政府計画移民」は、1954年の第1次移民から始まり、1979年の第19次移民まで続き、合計3,385人の多きにいたっているが、現在のオキナワ移住地の人口は世生、3世をふくめて870人であるから、多くのディアスポラ(離散)があったといえる。)

 午後8時からラ・グロリア教会に大熊豊子(れいこ)牧師を訪ねる。
大熊さんは1979年にボリビアに移住し、公立校のメトリスタ校に赴任。メトリスタ校で校長、87年にメトリスタ校から分離独立した日ボ学校の校長を勤められた。同時にラ・グロリア教会の牧師、教会付属の幼稚園の教員と3つの仕事をやってこられた。退職後は教会と幼稚園の経営にあったておられる。

 大熊牧師に日ボ学校設立の事情をおうかがいした。
当時、ボリビアは超インフレが進行し、公立校の教員の給料の遅配等が原因でストライキが続き、年間で80日程度しか授業ができなかった。また、ボリビア人子弟と日系人生徒の比率が9対1で、日系人子弟の教育に問題があったのが原因だったとのことです。それで、日ボ学校の創立となったわけです。

 現在の移住地の教育環境は以下の通りです。
<第1移住地>
ボリビアの公立校が2校(サンフランシスコ・カトリコ校、メトリスタ校の2校で、いずれもボリビア人生徒が通う)
日ボ学校(私立校で日系人子弟とボリビア人子弟の比率は9対1)
<第2移住地>
公立のヌエバ・エスペランサ校(第2、第3移住地の日系人子弟とボリビア人子弟が通学。日系人子弟とボリビア人指定の比率は1対2)

 今日は日ボ学校の生徒さんたちとの昼食会で、明日は(オキナワ移住地以外にもうひとつある)サン・ファン移住地に行きます。

 以上で今日の報告を終わります。

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