ベンポスタ・子ども共和国には、昨年(88年)8月に村田栄一さん企画のツアーで訪ねました。たった一日しかベンポスタにおりませんでしたので、ほんとうのところはわかっていないと思いますが、とてもベンポスタに心をひかれました。それはなぜなのか?
私は、今、大阪の高槻市で中学校の教員をしておりますが、日頃、中学2年生の少年・少女たちとすごしている中で感じていることと、ベンポスタにひかれることとはつながっているように思います。
3年前、小学校から中学校へ転勤となりましたが、はじめて中学校へ赴任する前に、当時、中学3年生だった息子に「中学校の教師としての心得の条」を聞いてみました。彼は少し考えこんで、3つ言ってくれました。
それは、
(1)説教は短かめがいい
(2)チャイムがなったら、すぐ授業を終ること
(3)お父さんの服装はダサイから、少しはおしゃれに心がけたら
息子の忠告には、なるだけ心がけるようにして、今、少年・少女たちの前に立っています。ただ、“おしゃれ”というのは、私の育ちもあり、忠告どおりにはいっていませんが。抑圧的な学校の空気を考える時、息子の感覚は、今、目の前にしている中学生の感覚でもあるわけですから。
ところで、クラスの少年・少女たちの前に立って発語する瞬間、いつも舌がもつれる感じがします。それは「主語」のことです。「先生は」と主語を選んだ時は、生徒たちに対して押しつけの内容を語っていることが多いことに気づきます。「ぼく」とか「私」とか一人称で語っている時には、そうではありません。そんな時は、その前に少年・少女たちとしゃべりあって出てきた、彼らにとって切実であり、また、自然な内容をしゃべっています。あるいは、ぼくの育ってきた過程で身につけた経験を彼らにしゃべってみたくなった時などです。
私は、「ぼく」でしゃべることを意識することに心がけています。まあ、なかなかむづかしいことですが。なにせ、教師側の都合や体制が先に立って、ものごとが動いているのが学校の現実ですから、ついつい「先生は」と語り出してしまいます。
黒と青の制服、こまごまとした規則、教師の設定したプログラムで生徒を動かすシステム、注入式の授業、とどのつまりは評価権をにぎっていること。これらの学校の構造を少しづつ変えていくことと、「ぽく」で語り出すこととは一つのことだと思います。
少年・少女たちとの自由で対等な関係を、日本の学校でつくり出したいと思う時、ベンポスタの少年・少女たちの姿は、やはり心ひかれるものがありました。
ベンポスタに入って、自然の中のあちこちに平屋の施設が散在するのを見て、「キャンプ場みたいだなあ」と思いました。大人も子供も自分の歩調で、しなやかに、ゆるやかに歩いている。ベンポスタには、犬が多いのですが、どのワン君も人間を警戒しないのです。これは、とても住みやすい所だと感じました。
サーカス学校は、まっ赤なドーム型の大きなテントでした。黒人の少年・少女の姿が目につきました。練習では、調子をつけるかけ声はあっても、よく日本の学校で見かけるような号令や笛の音がありません。そこでの少年・少女たちを見ていると、その技をのばしていく姿をずっと見ていたいと思いました。
練習の後、14歳以上の少年・少女たちは、手芸、セラミック、みやげもの店、日課の仕事などの労働をしていました。まあ、労働というよりも、のんぴりした調子で、ゆるやかな光景が流れていきました。学校は、あいにく夏休み中で、校舎内しか見られませんでしたが。
ベンポスタでは、サーカス学校での練習、学習、労働には、時間制で賃金がはらわれる。この姿は、今の日本の学校との対比で、とてもおもしろいと思いました。そこで、日本の学校の休憩時間を思い出します。職員室に生徒が入ってきます。私たちはコーヒなどを飲んでいますが、生徒たちが「いいなあ、ぽくらもほしいわ」と言いますと、私たちは「働いているから、あたりまえや」と答えます。学習=労働とみられない、私たち日本の教師の限界ですね。ベンポスタは、自活と自治を基本に動いており、大人と少年・少女たちとの対等な人間関係が息づいていると感じました。
ディスクジョッキーの装置が酒だるに組みこんであり、ネオンがギンギラのディスコ風で酒倉のような食堂で、たっぷり昼食のごちそうになりました。地酒(ワイン)と手作りの料理で。少年・少女たちは、ここでも仕事についていました。アルコールもどんどん進み、特製のアルコールまで作ってもらいました。それは、果物をたっぷりほりこんだ中に、ワインをどんどん注ぎ、火でアルコール分を飛ばし(それがアルコールを入れすぎるので、とても濃度が高いのです)、作られるのです。
昼間から、よっぱらっておりました。テーブルの下には、何匹もの犬がおさがりを待っています。その時、イタリアの公立小学校で給食を食堂でいただいた時のことを思い出しました。子供たちと同じ所で、冷えたビールをいただいたことです。それにおとらず、楽しいひと時でした。
見学のあと、リーダーと語りあいました。ベネズエラ出身のカワチが、「ベネズエラに興業のチームが来た時、サーカスがやりたくてここに入った。ここの生活のやり方が気にいったから」と言ったことが印象的でした。ここの生活とは、世界の平和と変革までふくむものでした。その時、ベンポスタは、ラテン・アメリカ、アジア、アフリカなどと地下水脈のごとくつながっていると感じました。「解放の神学」と共通しているなあと。
今春、日本から2人の少女がベンポスタに旅立ったと聞きます。わが教室の少年・少女たちと交流ができればと思いながら、映画の完成を心待ちにしながら、ベンポスタに心をはせています。
(注)その後、青池憲司監督「ベンポスタ・子ども共和国」は完成し、93年には子どもサーカスの日本公演が実現した。