五瓶太(ごびんた)の推理講座2004年1月3日
状況証拠を切り捨てることによってゴビンダさん有罪を導いた

五瓶太(ごびんた)

 俺のなまえは五瓶太である。

 昨年2003年は最悪な年であったな。4月、ロザールさんは上告を断念し、ゴビンダさんは上告棄却ですでにおいらは面会に行くこともできなくなってしまった。

 それにしても、ゴビンダさんが有罪とされた本件の殺人事件に関して、多くのマスコミ報道で「状況証拠から有罪を導いた」と解釈されている。本当だろうか。

 俺や俺の周りの友達も、裁判に提出された証拠からゴビンダさんは無実だとの心証を持つに至った。いや、心証なんてもんじゃない、確信に近い。むしろ、裁判所は「状況証拠を切り捨てることによって有罪を導いた」のではないか。

 さてさて、昔ならった推理法について勉強し直してみた。哲学事典をひもといてみる。「観察された個々の証拠を総括し、それらの事例の規定が必然的にそこから導出されうるところの一般的な主張である判断を確立する推理を帰納的推理と呼ぶ。」ふむふむ、なるほど、状況証拠から真実を見極める方法なのだな。判断を誤らないためには、証拠の吟味が重要になる。

 高裁判決に示された「ゴビンダさん有罪説の根拠になった証拠」を一つ一つ吟味していくと、有罪と決めつけるにはきわめて脆弱な証拠を積み重ねているわい。さらに重要な客観証拠のいくつかを採用しなかったり、無視をしているぞ。こんな推理方法で真実はわかるのだろうか。

 真実を見極めるなら、妥当なあらゆる証拠を切り捨てることなく統合させ、“そろいもそろって”一つの結論と符合せねばならない。ふーむ、弁護団や一審判決の証拠の吟味をざっと見ると、採用しなかった証拠は「目撃証言」だけのようだな。証拠内容を見るとこの目撃証言はきわめて曖昧な証言で、証拠として取り上げることを退けるのは妥当といえるだろうな。つまり妥当な証拠はすべて、「ゴビンダ無実説」と符合するのだな。

 つまり「高裁〜最高裁は状況証拠によって有罪を導いたのではなく、あらかじめ組み立てられたストーリーに添って、重要な状況証拠を切り捨てることによってゴビンダさんを有罪に導いた重大な冤罪事件」ということになる。これじゃあ司法の自殺どころではないわい。司法による犯罪といわざるを得ないな。

 

主要な証拠の採用状況メモ

 ゴビンダさん無実説   ゴビンダさん有罪説
現場の精液がゴビンダさんのDNA型と一致 採用
犯行よりも10日まえにゴビンダさんが放置したもの
採用
犯行当日、被害者と関係をもったことの証拠
精液の古さに関する鑑定
押尾鑑定
押田鑑定
採用
コンドームは犯行よりも10日まえにゴビンダさんが放置したもの。
採用せず
「現場の水が不潔だったため尾部の分離が早かった」とする高裁の判断に対する、上告主意書の押田鑑定に対し最高裁は無視をした。
遺留品の評価 採用
コンドームのパッケージは持ち出しながら、一見して最も有力な証拠と考えられる本件コンドームには一切手をつけなかったというのはあまりに不自然
採用せず
不自然、不可解な事態とはいえない
事件当日の目撃証言 採用せず
証言内容が曖昧である
 
採用
被告人であったとしてもおかしくない
当日のアリバイ 採用
現場に到着できるかどうかは微妙で、間に合わなかった可能性が高い
採用
現場に到着できることは「十分あり得ることであったと認められる。」
ゴビンダさんのDNA型と一致した体毛の存在 採用
2月28日に関係を持ったと事と矛盾しない
採用
犯行当日のものとした
 
第三者の体毛の存在 採用
ゴビンダさんのものでも被害者のものでもない残り2種類の陰毛について、真犯人のものである可能性がある。
採用せず
ゴビンダさんのDNA型と一致する体毛は有罪証拠としながら、第三者の体毛については部屋を掃除していなかったためとしている。
巣鴨の民家で発見された定期券 採用
巣鴨、まして駅から遠く離れたこの地域に、ゴビンダさんには土地勘がない。ゴビンダさんが無関係であることを示している。
採用せず
証拠上判然とせず、未解明のままである
被害者の手帳の評価 採用
被害者の手帳が弁護側に証拠開示されるまえの証言でゴビンダさんは、手帳の記載につじつまを合わせて供述したのではなく、自分の記憶に基づいて供述をした。
採用
被告人の証言と、被害者の本件手帳の売春結果欄の克明で確度の高い記載内容とも照応しないから、信用しかねる。
 

 帰納的な推論は、決して難しいものではありません。私たちが使っているごく普通の推理方法です。私たち一般の市民でも、本件証拠をよく読み込み、状況証拠の正しい評価、その全体論的な把握にもとづく帰納的な推理によってゴビンダさんの無実は自ずと明らかなのです。

 この程度の証拠の吟味と、その推論になっていない推論で有罪が確定してしまう今の日本の司法の現実では、この日本に住むだれもが心当たりのない犯罪の犯人とされ、いわれのない囚人として人生を送らねばならないことになるだろう事を憂慮せざるを得ません。