韓国・朝鮮人被爆者

米国は広島と長崎に原子爆弾を投下し、数十万人の非戦闘員を虐殺した。その中には、強制連行されたり過酷な植民地支配のために生活できなくなって日本へ渡って来たりした朝鮮人たちもいた。広島で7万人、長崎で2万人の朝鮮人が被爆した。

長崎の「三菱造船所」へ連行された朝鮮人たちが収容された「木鉢寮」。原爆による爆風と熱線が山にさえぎられたため、建物は倒壊をまぬがれた。この強制連行の証人は、取り壊されてしまって今はない。(撮影地=日本・長崎市)
鄭大一(チョン・テイル) 1934年生まれ
「広島市にあった自宅近くで被爆しました。一緒にいた従兄弟はその日の夜に亡くなったんです。私はひどい火傷をしましたが、治療といってもジャガイモの汁を塗っただけでした」(撮影地=大韓民国・群山市)
安永千(アン・ヨンチョン) 1927年生まれ
「二人の兄を捜して、広島市内を1週間歩き回ったんです。原爆地獄をいやというほど見ました。広島での被爆者が多い陜川(ハプチョン)で、被爆者たちの世話をしています」(撮影地=大韓民国・慶尚南道)

被爆者たちの写真。戦後、帰国した被爆者は4万3000人で、その多くは朝鮮半島南側にある故郷へ戻った。韓国の被爆者たちは「韓国原爆被害者協会」を結成し、日本人被爆者と同じ援護措置を日本政府に求めてきた。(撮影地=大韓民国・平沢市)

朴文淑(パク・ムンスク) 1943年生まれ
「被爆したのは長崎です。日本が朝鮮を植民地にした上に戦争をおこしたため、多くの朝鮮人が被爆しました。核が世界にある限り人類は不幸なのです」(撮影地=朝鮮民主主義人民共和国・平壌市)
金貞順(キム・ジョンスン) 1920年生まれ
「長崎駅前で被爆した時、私の左目は飛び出してしまったんです。背負っていた娘はそれ以来、光を怖がるようになり、ついに亡くなってしまいました」(撮影地=大韓民国・仁川市)

長崎の平和公園がある場所は、かつては「浦上刑務所」だった。爆心地から300メートルしか離れていないこの刑務所で、朝鮮人13人・中国人33人・日本人33人が爆死した。(撮影地=日本・長崎市)

田順玉(チョン・スンオク) 1935年生まれ
「両親は、朝鮮での生活が苦しいために日本へ来ました。小学校では、日本人の子どもたちから石を投げつけられ、先生からも差別されたんです。半年で学校をやめました。長崎の親戚の家で被爆し、母は半年後に亡くなりました」(撮影地=朝鮮民主主義人民共和国・平壌市)

車貞述(チャ・ジョンスル) 1929年生まれ
「学校から動員されて荷物の運搬をしていた広島駅で被爆しました。朝鮮戦争では3年間、ベトナム戦争では7年間も軍艦に乗りました。戦争を望んでいないのに3回も巻き込まれたんです。地獄を体験した者が、若者にそれを伝えなければならないと思います」(撮影地=大韓民国・釜山市)

李福順(リ・ボクスン) 1933年生まれ
「広島市宇品町に住んでいました。8月6日、外出しようとした私を『今日は暑いから家にいろ』と父が止めたんです。屋外作業に行った学友たちは全員が亡くなりました」(撮影地=朝鮮民主主義人民共和国・平壌市内の李さんの自宅。左から二人目が李さん)