奪われた記憶を求めて
元日本軍「慰安婦」沈達連さんの強制連行の現場から
「自由主義史観」グループは、軍や官憲による強制連行的な日本軍「慰安婦」の連行はなかったと主張している。だが、中国・フィリピン・インドネシアなどの日本軍による占領地だけでなく、植民地支配していた朝鮮でも、日本軍による奴隷狩りのような連行は行なわれた。姉と一緒に拉致・誘拐された沈達連さん(69歳)と拉致現場を確認し、強制連行の証人たちを見つけ出した。
写真・文伊藤孝司(いとう・たかし)
日本軍に奪われた記憶
1997年4月4日。沈達連(シム・タルリョン)さん(1927年7月5日生まれ)のアパート前から乗ったタクシーは、30分ほどで目的地の慶尚北道(キョンサンブクド)漆谷郡(チルゴクグン)枝川面(チチョンミョン)(注1)に着いた。日本軍によって性奴隷(日本軍「慰安婦」)にされた沈さんとともに、一家が住んでいた家と、近くの拉致現場を探しにきたのだ。
沈達連さんの自宅跡に昔のままの姿で残っていた井戸。
沈さんの住む大邱(テグ)市の中心から北西に直線距離で約15キロメートル。その気になればいつでも来ることのできた距離である。だが、沈さんにとってこの距離ははてしなく遠い。彼女はかつての自宅を一度だけ探しに行ったが、その時は見つけ出せなかった。文字が読めず健康状態がよくないという理由もあるが、何よりも昔の記憶がはっきりしていないからだ。
沈さんは、大邱市が建てた低所得者用のアパートで暮らしている。部屋の中には、新興宗教の大きな仏壇が日立つ。信者になったのはおよそ20年前とのこと。それまでは人が恐くて家から出られないこともあった。しかも、その時から後のことは覚えているが、それ以前の記憶がぼんやりとしている。沈さんは、「慰安所」で受けた過酷な体験によって過去を覚えていない。人問としての尊厳だけでなく、記憶まで日本軍によって奪われたのである。
彼女は、「島に連行されたが、そこがどこだったのかは確信が持てない」という。ただ、一緒に連行された女性が言っていた台湾だろうと思っている。日本の敗戦によって「慰安所」から解放されたが、その時すでに精神状態が悪かった沈さんはその場所で放浪生活を始める。偶然に出会った韓国人に連れられて帰国し、その一家と数年問、一緒に暮らした。だが、精神状態がよくならなかったために、沈さんは仏教寺院に預けられてしまう。
沈達連さん(中央)のアパート前の、同じ大邸市内に住む被害女性たち。この日、別の場所の市営アパートで暮らしている金粉先さん(右)と李容沫さん(左)が訪ねてきた。
今から40年ほど前、たまたまその寺を訪れた沈さんのすぐ下の妹が、彼女を見つけた。妹は三日問続けてさまざまな質問をし、姉に問違いないとの結論を出した。妹はすでに亡くなっているが、再会後、沈さんと20年問一緒に生活をした。最初の10年ほどの沈さんは、不安定な精神状態のために外出できず、日本兵からうつされた梅毒によって子宮からは膿が流れ出し、足からは水が出て便所にも行けないほどだった。
私は彼女の話を開いてやるせない気持ちになった。何とか帰国できても、極度の対人恐怖症になったり、梅毒のひどい後遺症で苦しんできた被害女性があまりにも多いからだ。 現在の沈さんは、ひどい頭痛は少なくなったものの、頭がいつもボーッとしているという。記憶は少しずつ戻っているが、精神状態にムラがあるため、何も思い出せなくなってしまう時があるという。
記憶を呼び戻した自宅跡の井戸
私たちはまず、かつての自宅を捜すことにした。連行された当時の家族は、両親のほかに女5人・男二人の7人兄弟だった。父親の名は沈次道(シム・チャド)、母親は方一粉(パン・イルブン)。私が沈達連さんの拉致現場を確認したいのは、彼女だけでなく姉も一緒に拉致されているからだ。
このあたりではないかという場所で、通りかかった車や民家で尋ねても、誰も「そんな地名は知らない」と言う。枝川面の役場まで行って、その理由がようやくわかった。彼女が覚えていた「イルン」という地名は、解放後には「徳山(トクサン)洞」に変わっていた。そのため、若い人に聞いても知らなかったのだ。
徳山洞に着き、国道4号線に面した古い家で沈さん一家が住んでいた場所を聞いた。その家には朴魯仁(パク・ロイン)さん(1921年生まれ)というお爺さんがいた。窓ごしに話をする。ここで生まれたという彼に沈さんのことを説明すると、「その一家なら知っている」と言う。 朴さんの家から国道に沿って北へ2〜3分歩き、右折して約20メートル入ったところが、沈さん一家が暮らしたはずの場所である。牛の世話をしていたその家のお爺さんに事情を話して庭に入れてもらう。
昔と建物は変わったものの、かつての自宅の面影がいくつも残っていた。それを見つけるたびに涙を流した。
敷地内には2棟の建物がある。1棟は比較的新しい建物だ。古い方の建物も「見覚えがない」と沈さんは言う。沈さんに庭の真ん中へ立ってもらってシャッターを切っていると、何かを思い出したのか、彼女が急に庭の奥へと足早に向かった。庭の隅に置かれている大きな鉄の蓋を持ち上げると井戸があった。彼女は釣瓶を下ろして水を汲み上げた。それほど深くはない。沈さんは「これだけは昔と変わっていない」と言いながら涙ぐんでいる。
強制連行の現場を発見
次に、沈さん姉妹が拉致された場所へ向かう。昼頃から降り続いている小雨はやみそうにもない。国道を渡って少し歩くと、小川にコンクリート製の橋がかかっていた。「昔は小さな橋だった」と言う。自宅の場所がわかったので、彼女は迷うことなく拉致された現場を探し出した。芽吹いたばかりの雑草で緑のじゅうたんを敷いたような田植え前の水田が広がっている。昔と違うのは、ビニールハウスが何棟か建っていることくらいだろう。場所を特定する大きな目標は、当時と同じ位置に敷かれている京釜線(注2)の線路だった。ひっきりなしに列車が行き来する。線路から30メートルほど国道寄りのこの場所で、沈さん姉妹は日本兵に捕まったのだ。
「この場所でヨモギを摘んでいて捕まった」と説明する沈さん。後方の山のふもとに鉄道が通っている。
「一家の生活は貧しくて学校には行けませんでした。食糧の足しにするためにヨモギを姉と二人で摘んでいました。すると、赤い腕章をした兵隊に突然手を捕まれ、広い道の方へ引っ張られていったのです。そこには幌をかぶせた一台のトラックが止まっていて、数人の兵隊がいました。トラックがやってきたのには気がつかなかったのです。乗せられる際に抵抗した私は、靴でひどく蹴られました。荷台にはすでに何人かの女性がいました」
沈さんは、トラックに乗せられてからのことを次のように語った。「私たちを乗せたトラックは、ここから離れた学校の正門に乗りつけました。そして、中から出てきた5〜6人の女の子たちを捕まえて乗せたのです。私よりも少し若い女の子たちでした。連れていかれる途中では、食べ物もほとんど与えられませんでした。
ある日、姉だけが別の場所へ連れていかれ、戻ってくるとすごく泣いていました。私たちは船に乗せられて海を渡りました。そして20人ずつに分けられることになり、姉とは別の集団に入れられたのです。私は必死に抵抗しました。ですが、姉と別のトラックに乗せられてしまいました。それ以来、姉の行方はわからないのです。今でも、この時の様子は忘れられません」
日本兵に姉を奪われたことは、沈さんの心に深い傷として残っているようだ。「日本人を煮て食べたとしても怒りはおさまらない。姉を返してくれれば日本に何も求めない」
と語る。私は思わずたじろいだ。無表情に淡々と話す内容があまりにも激しい日本への怒りだったのである。
「慰安所」での生活については次のようである。
「着いてからは洗濯と炊事をさせられ、数日後に大勢の兵隊に犯されたのです。気がついたら病院でしたがすぐに戻されました。文字を知らない私は、他の女性たちよりも兵隊に殴られたのです。慰安所の周辺には山が多いために寒く、2〜3年すると体がボロボロになりました。食事の量は少なく、私たちを犯す兵隊たちの方もすごくやせていて、骨と皮の状態だったのです。若い兵隊ばかりだったので同情さえしました」
沈さんは、先を急ぐようにして先ほど歩いてきた道を戻り始めた。現場から一番近く、橋を越えてすぐの家に、昔からここに住んでいるお爺さんがいると聞いていたからだ。
現れた二人の証人
朴佑東(パク・ウトン)さん(1913年生まれ)の家までは、拉致現場からおよそ200メートル。庭につながれている犬が私たちに吠え続ける。傘を持ってこなかったので体はすっかり濡れ、寒くなってきた。20キログラム近い撮影機材がさらに重く感じる。いきなり訪ねた私たちに、「家に上がれ」と朴さんは言ってくれた。この家で生まれたという彼は、沈さんの父親を覚えていた。
「沈次道さんはよく知っていますよ。『娘たちが日本兵に連れていかれた』と彼から開きました。悲しそうな表情でその話をして、ため息をついていました。彼の娘たちが連れていかれた後、『連行された娘がいるので気をつけるように』という話が、この枝川面の中を伝わりました」
沈さん姉妹が拉致されたことを知っている人がいたのだ。これほど早く見つけ出せるとは思っていなかった。拉致現場の近くには見開きした人が必ずいるはず、という私の予想は正しかったのだ。沈さんは証言してくれた朴佑東さんにお礼の言葉を繰り返し、握った手をいつまでも離そうとしない。
次に、先ほど沈さんの家を教えてくれた朴魯仁さんを再び訪ねることにした。沈さん姉妹について、彼はもっと知っているのではと思ったからだ。庭から声をかけると、彼は待ち構えていたかのように私たちを家の中に招き入れた。私たちが訪ねた先ほどのことを、「面倒なので最初は知らないと言おうと思ったが、話が慰安婦のことだったので応対した」と言う。彼は、軍属として連れていかれた沖縄で朝鮮人「慰安婦」たちを見ており、彼女たちのつらさを知っているからだという。しかも、私たちが沈さんの家に向かった後、自分が知っていることを話したくて、私たちを捜しにいこうとさえしたというのだ。彼は思い出したことを次々と話し出した。
拉致現場の近くに住む朴佑東さん。
かつての沈さん宅の近くに住む朴魯仁さん。
「沈次道さんから、『娘たちが急にいなくなったが、日本へと連れていかれたらしい』と聞きました。私が沖縄に出発したのは1942年ですが、その1年ほど前に聞いた話です。連れていかれたお姉さんとは、彼女の家で一緒に遊んだことがありますよ。蘭玉(ナノク)さんはきれいで歌が上手でした」
沈さんの姉の名前は「蘭玉」だというのだ。沈さんは、いつも姉のことを思いながらも、どうしても名前を思い出せずにいた。それがついにわかったのである。
そして朴魯仁さんは、「連行された娘は、この枝川面では沈さん姉妹しか知らないが、隣の東明(トンミョン)面から連れていかれた人がいると聞いたことがある」と言う。その女性が誰のことなのか、私はすぐにわかった。友だちと遊んでいて4人の日本兵に捕まり、フィリピンに連行された金粉先(キム・ブンスン)さんである。今日も朝から沈さんの家に来ていて、私たちがタクシーで出発するまで一緒にいた。
「強制連行否定の日本人を殺したい」
私たちが大邱市内に戻った時にはすっかり暗くなっていた。雨はまだ降り続いている。食堂に入り、オンドルの少しでも温かそうな場所に座った。
「昔の場所を捜すことができたので、すごくよい気分です。しかも自分のことを知っている人にまで会えてうれしかったです。ありがとうございました」
沈さんは安堵の表情だった。日本軍によって奪われた過去の、重要な部分を取り戻すことができたからだ。今回の取材の結果、私は確信した。他の強制連行された被害女性たちの場合も、その現場をともに訪ねて調査すれば、彼女たちの話を裏づける証人たちが必ず見つかると。
被害女性たちによるソウルの日本大使館前での抗議行動。「アジア女性基金」(女性のためのアジア平和国民基金)による強引な支給は、受け取り拒否をしている女性と、受け取った女性との間に深い溝をつくった。
慶尚北道の義城郡義城邑(イソングンイソンウプ)で徴兵され、広島の「8876部隊」で 被爆した金興銖(キム・フンジュ)さんは、自分の邑から女性が連行されるのを目撃している。「一九四三年の入隊前、邑事務所の書記たちがこの邑に住んでいる女性を連れていくのを見たのです。その後ろを、娘の家族たちが泣きながら歩いていました。解放後、私が故郷に帰るとその女性も戻っており、住民たちは彼女を『パラオ』と呼んでいました。連行先がパラオだったからです」
金さんは、「女性たちへの強制連行を否定している日本人たちを日本まで行って殺したい気持ちだ」と何度も繰り返した。日本によって労働者・兵士・「慰安婦」として強制連行され、そのために帰国後も苦しんできた人たちにとって、歴史的事実を歪曲しようとする「自由主義史観」グループの言動は絶対に許せないのである。
(注1)植民地支配下の朝鮮では「面」は日本の村に、「邑」は町にあたる。
(注2)ソウル(植民地支配下では「京城」)と釜山を結ぶ鉄道。一九〇五年に日本が全線開通させ、日本による朝鮮支配・中国侵略のための大動脈となった。
いとう たかし・1952年生まれ。フォトジャーナリスト。『著書に破られた沈黙』(風媒社)『棄てられた皇軍』(影書房)『アジアの戦争被害者たち−証言・日本の侵略』(草の根出版会)など。
(「週刊金曜日」 1997年5月16日号掲載)
沈達連さんは、2010年12月5日に逝去されました。享年83歳。
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