1999/09/20


 学童保育メーリングリストのメンバーで、埼玉・富士見市の仁井谷さんが私の日本の学童ほいく誌へ投稿をしたものを見つけて戴きました。こんな、時代もあったのです。

 「指導員の仕事・役割」という資料集で、全国連協から昨年(1998.10)出されたものです。全国大会で売られていたのではないかと思います。
 資料自体は1982.10発行の「学童保育年報 No.5 指導員の仕事・役割」から取られています。
山田さんの文章は1979年か80年ということになりますか?わたしが学童にかかわったのは80年代前半からなので、さすがに二桁のナンバーの「ほいく誌」はありませんでした(根気よく探せばあるかも知れませんが)。「指導員の仕事・役割」という資料集も悪くない資料集ですが、山田さんの文章を発見してうれしくなったので、紹介しておきます。

とても嬉しくなりまして、誌を探しだしました。
1980年1月号で、この号の特集は、80年代の学童保育の課題をさぐる。
79年の全国研は第14回で、京都で行われていたようです。
私は、参加しておりませんが。当時全国研自体、知らなかった。情報が入って来なかった時代です。
この京都大会の参加者は、2800人で前年度の埼玉大会で作った記録を大きく更新した。とありました。 仁井谷さん、ありがとうございました。

テーマ   どこにいても将来性がないならば・・・ 山田栄一
(『日本の学童ほいく』No.53、P七四〜七五)1980年1月号
 
 私の現在いる学童保育は、一九七七年四月に、五名で共同保育としてスタートしました。私は、その六月から指導員を始めて今年で三年目に入っています。現在は市から委託され、指導員二名と子どもたちも二十名に増えています。
 学童保育の施設も、きっと全国でも珍らしいであろう『わらぶき屋根』の家で、毎日子どもたちと生活しています。けれども、委託されるまでの二年間は、利用者父母の家を、毎日、転々としたジブシー保育でした。ジブシー保育というよりも、『やどかり(宿借り)保育』の表現の方がピッタリしていると思ったほどです。日によって家がかわるので、毎日、さようならの前に、「明日は、まさよし君ちだよ」というように確認をとらなければなりません。また、当日の朝、急に保育場所の変更の連絡がある時もあります。「体の具合が悪く休むので家を変えて欲しい」といってきたりします。他の家が借りられたら良いのですが、駄目な時は、「きょう。お父さん病気で二階で寝ているので静かにね。みんな帰ってきたら公園にいこうね」とお互いに気を使いながらの保育です。本当に父母の理解・協力があったから続けてこれたと思います。
 ある日の夕方、「片付けの時間だよう。遊び道具は押し入れにね」と押し入れを開けました。すると子どもが大声で、「パパだ!!」「パパがいる!」と叫びました。
私も「え!!」と一瞬驚き、声も出ない状態でした。午後の保育の約五時間あまりの間、お父さんが押し入れに居てくれたのです。こんな思いをしながらも、父母が一生懸命になって続けてきた『やどかり保育』です。
 こんな経験をしながら、私もどうにかして続けたいと思い始めましたのが一年目の終る頃でした。しかし子どもが好きだから、という気持ちだけでは続けていきにくかったのは自分自身の生活を考える時です。私の場合は自宅から通っていましたので、衣食住のうち食住はどうにかなりましたが、家族からは「お前は何をしているのだ」「やめろ」などという精神的負担が重くのしかかってきました。これは今も続き、親を説得している状態です。
 一番困ったのが、金の問題です。最初は、月三万円でした。家には全然入れられず、ひどい時はポケットに百円玉しかなく、学童保育まで歩いた(二時間位)こともあります。
 なぜこれまでして将来性もない職業を続けてきたのかということですが、私は指導員の前に、二年間幼児教育の仕事をしていました。間接的に子どもと接してましたが、直按的に接したくなり、指導員を始めました。いまの社会では、会社でもいつ倒産するかもしれないという意味で、将来性がないことでは同じだと思い、やりたいことをやろうと思っているのです。将来性などは、みんなの力で明るくも暗くもなることです。
 そしていま、共同保育から委託へと少しづつ明るくなっています。

今では、考えられない事でしたが、20年前に委託される前の共同保育時代のことです。

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