本多勝一"噂の真相"同時進行版

1999年4月分(14-18号)合併号

(その14)「言論人」としての本多勝一の評価:2 例

 前回までに何度も、本多勝一を「言論人」などと表現する事例を紹介したが、彼が果たして「言論人」と言えるものかどうか、ここらで、本多勝一らの朝日新聞ゴロツキ記者たちから激しいバッシングを受けた先輩の意見をも紹介して置きたい。この2 例を掲載した『人民新聞』は、私が、1992年に、湾岸戦争への90億ドル支出を違憲とする市民平和訴訟の全国集会で大阪に行った際、その頃には「カンプチアPKO 反対」の立場で特集していた個人新聞『フリージャーナル』との交換を申し込まれ、以後、無料で郵送されてくる。だが、この種の運動の系図に興味のない私は、どういう運動の機関紙なのか、詮索したことがない。ともかく、時折、面白い記事が載るのである。

 興味のある方は、下記にメ-ルで申し込まれたい。

人民新聞社:E-mail: people@x.age.ne.jp

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1例:『人民新聞』(1998.4.15)

[数字は漢字をアラビア数字とし「今年」を1998年などにした]

「私の発言」欄

再び「カンボジア革命とは何だったのか」を問うべき

本多勝一『噂の真相』(1998年4月号)コラムへの回答

鵜戸口哲尚

ポレミック・ダンディー気取りの本多勝一

 本多勝一が、『噂の真相』1998年4月号の連載コラムで、私の小文も収載した本多勝一編『虐殺と報道』(すずさわ書店)の総括めいたことを、事情もしらない読者向けに相変わらずポレミック(論争好き)ダンディー気取りで書いているのが目に入つたので、論争(?)の経緯を報告すると同時に、本多の言論スタイルの内実を明らかにしておく。

 もう、17,8年も前のことである。私が畏敬する東南アジア研究者、M・コールドウェルが、ポル・ポト政権下のカンボジアに現地入りし、折りしもベトナムの介入・侵攻が重なり、何者かの手によって暗殺された。

 私は、カンボジアの事情の調査と究明に全力を賭していた彼の遺志を少しでも継ぐべく、やはり英人東南アジア研究者、Dボゲットと『カンボジアの悲劇』(成甲書房)を編集した。幸い、その本は好評裡に迎えられ、大阪朝日で何度か学者・研究者らによって取りあげられた他、『経済評論』では、加藤晴康に依る長文のコメントが出された。

虐殺キャンペーンによる問題のすり替え

 加藤晴康が、そのコメントで「本書は……カンボジア革命とは何であったのかという問いに正面から取り組む意図をもって編集されている」と述べているように、私たちが目指したのは、センセーショナルな議論に隠されて見えにくいカンボジア革命を知るための基本研究文献を提示することであった。

 そして、その主旨は、第一に、最も非難されるべきは、ベトナム戦争・パリ和平協定が隠れ蓑の役割を果たすことになった、アメリカがインドシナとりわけカンボジアで採った苛烈な政策であり、第二に、米中ソの谷間で中立外交を展開するシハヌーク政権下で弾圧され、しかも、フランスのインドシナ植民地政策の遺制としての、カンボジア共席党のベトナム労働党への従属という過酷な国際環境の下での、カンボジア民族主義・共産主義の固有の発展を跡づける必要がある。第三に、ポル・ポト政権の虐殺に関する報道では、数の誇張があり、米軍撤退に伴う食料問題などが全く無視されており、虐殺キヤンペーンに依ってベトナムの介人・侵攻を正当化するのは問題のすり替えであり、当面議論の前提として守られるべき原別は、民族白決であるということであった。

レッテル張りが大好きな人々

 ところが、本多勝一とその同僚井川一久は、私たちに「虐殺の擁護者」「連合赤軍張り」というレッテルを貼り、当時の大阪朝日担当記者や私たちに陰湿・姑息・執拗な激しい恫喝を加えてきた。

 当時の私の立場は『日本読書新聞』『現代の眼』などに発表してきたし、カンボジア研究会で『カシボジアはどうなる?』(三一書房)という本も出したので繰り返さないが、とりわけ、先に述べた第二点に関しては、『読書新聞』に半年ほど連載した「東南アジアにおける共産主義の生成と展開」の問題意識の継続であった。

 私たちは、虐殺がなかったなどと一度も言っていないし、1981年に主催した、研究者・学者が一同に会して、まる一日かけて行った報告と会場参加者全員のパネル・ディスカッションで構成されたシンポジウムは、問題点と焦点を洗いざらい議論することを目指したものだが、それはその参加者の一人加藤晴康が、「シンポジウムは、この種の会としては多種多様な議論が飛び交い、ある意味では混乱に終始した、おそらく近来まれといっていい会議だった・…もしベトナム憎しの合唱のためのものであったのならば、それは今日の状況にいささかもこたえるものとはなり得ないだろう、というのが偽らぬ気持ちだったのである……しかし、右の懸念は杞憂にすぎなかった」と参加の印象を述べていることからも明らかである(シンポジウムの抄録と加藤の感想は『流動』1981年6月号掲載)。

「見てきた」「どっちに味方する」という子供じみた論拠

 私は、本紙 412号に『虐殺と報道』に関し、「一読してみれば、井川一久は主役ではなく美人局であり、とぼけた顔で楚々と傍役に回っている本多勝一が本命であることは一目瞭然なのである」と書いた。

『マルコ』廃刊をめぐる袿秀実との論争を見ていても、袿にはっきり問題点を指摘された途端に、白ら論争をしかけながら相手の反論の掲載を意図的に遅らせ、挙げ句の果ては「この回答では、とても『論議の進展・深化』はできません」という捨て台詞を残して幕を引くという回じ手練手管が透けて見える。これを見ても同じだが、本多には昔から論議・争点を明確にするだけの「頭脳的資質」が欠けている。思考力に欠けているのである。従って、常に詰まるところ「見てきた」「行ってきた」「どっちに味方する」という子供じみた論拠しか出せないのである。

『噂の真相』の本多の言葉から拾おう。「カンボジア大虐殺めぐる賛杏の大論争」という言葉自体の中に三重の欺瞞がある。大虐殺の「大」をめぐって経緯と構造と実態の議論をしたのである。「賛否」というが、誰も賛成などという非常識な馬鹿はいない。大「論争」というが、「論争」が成立するほどには、本多たちに明晰で冷静な思考力も学問的蓄積も備わっていない。

 二点の我々に「同情すべき背景」のうちの一点である、当時クメール・ルージユと北ベトナムが同一とみなされていたという点だが、先に述べたように早くから優れた研究があり、私たちはその種の研究を紹介してきたし、知らなかったのは逆に本多たちであり、従ってクメール・ルージュがベトナムに逆らい過激路線を採ったという発想が生まれるのである。

 第二に、ポル・ポトを「中国が支援していた」という点である。私たちは中ソの覇権争いという要素はあるにしても、それがカンボジア問題の本質とは全く見ずに、カンボジアを第三世界固有の視点から捉えようとしたのである。

「中国派の日本知識人や政治家などが、虐殺を否定するという図式」と本多は言つているが、私が中国派を排除せずに一線を画すという立場を取ったことは、加藤の証言からも明らかである。私ははっきり1980年代における冷戦体制の崩壊を断言していたのである。私は、逆に本多にソ連邦の崩壊に関する御高説と、ベトナム労働党の変容、南ベトナム解放民族戦線の行方について訊きたいものである。

『朝日』の体質にこそメスを入れよ

 本多は常にセンセーショナルな問題に飛びつき、常に最初から「正義」の御旗を手に、いや独古し、告発対象を探していくというスタンスを取り、それに『大朝日』という金看板に頼る「見てきた」「行ってきた」というルポルタージユを接ぎ木し、ジヤーナリスト英雄史観に基づき、他者に耳を貸さず、ポレミークを装って一方的に「本多フアン」に御高説を流すのである。これは、(反体制)気取りのアナクロニズムの事大主義である。問題はルポの方法なのだ。

 本多さん、私は井川一久が『虐殺と報道』で攻撃した柴由哲也の『日本型メデイアシステムの崩壊』の書評を『図書新聞』(昨年、1997年12月20号)に書きましたが、貴方たちはなぜ柴山のように、新聞社の体質、『朝日』の体質には公然とメスを入れるこができないのですか?

 それこそ、あなたの得意とするルポルタ-ジュの本領の発揮所ではありませんか。

【付記】1998年4月17日付朝刊のポルポト死去報道に関する『朝日』『毎日』の記事を是非とも比較して頂きたい。

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2例:『人民新聞』(1998.11.15)

「水に落ちた犬」になった二人の「朝日」重鎮

本多勝一の「労害」

 言うまでもなく、一つは『噂の真相』の「本多勝一『老害』への最終決別状」である。「ウンザリを通り越して、ほとほと愛想が尽きた」という文面で始まり、「本多は宿泊費やリフト代を支払っていなかったら(リクルートの接待を受けたことに関して…評者註)、筆を折るとはっきり約束した。本多勝一よ、これ以上の『老害』を晒さないためにも、潔くこの約束を実行してみせたらどうか」という厳しい口調で結ばれている。

 それに対し、本多は同誌の連載コラム最終回で「いったい岡留氏(『噂の真相』の編集長…評者註)は、なぜこれほどまでにして、……私への根拠なき人格攻撃にばかり終始したのだろう」「それにしても、ジヤーナリストの名誉と全著作破棄を賭した私の真摯な問いかけに対し、一切答えないばかりか『老害』の何のと、岡留さん、ひどいものでしたね。それでは、『天才的編集者』岡留安則さん、お元気で。どこかでまたお会いしましよう」と答えている。

『噂の真相』が、本多に「老害」という罵倒を浴びせているのには全く同調できない。というのは、「老害」という言葉の裏には、「老いて変わった」という含意があるからであなる。それは同誌の「本多勝一のこれまでの業績に敬意を表して」という言葉からもうかがえるが、本多のマスコミでの権力的な手口と、マスコミへの恋々たる姿勢と、『朝日』という企業内での処世術は一貫したものである。容易にキヤンペーン報道を張れぬ大新聞社が、地域の運動やスターを渇仰(かつごう)する読者を購読者に結びつけるべく「作り上げた」反権力ジヤーナリストだったのである。

 本多が『朝日』の中で社内体制に対して(愚痴を言うことはあっても)反権力であったためしはなく、それどころか一貫して便乗型の提灯持ちであったことを見ればそれは明らかだし、共産党関係の出版物では匿名を使い、昔の新左翼系の雑誌では別名を使うといつた小器用なマスコミの泳ぎ方を見れば一目瞭然である。

 読者に媚びるためと衆愚観から生まれる新聞社が押しつける文体と、大衆の生きざまと現実のはざまでの相克から本来生まれるべきジヤーナリストの文体を、まるで新聞社0B代表よろしく文章読本にしてしまう無神経さも、やはり本多の企業内での姿勢に由来するものである。もうそろそろ読者も目を覚まさねばならない。

井川一久の「政治工作」的反論

『朝日』内の旧ソ連派の尻馬に乗つたもう一人の『朝日』の「重鎮」は、井川一久である。昨年一度本欄でも扱ったが、井川がベトナムの小説の翻訳の改ざんで告発されてから約10ヵ月ほど経てから、告発記事の載った『正論』誌に反論を掲載したが、その間余りに時間がかかっていたので、ウの音も出なくなり沈黙を決め込んだかと思っていると、その間必死の「政冶工作」に腐心し、駆けずり回つていたことがうかがえる反論であった。つまり、またもや「恫喝」である。

 本多にしても井川にしても、タッチのソフトとハードの見かけの違いはあれ、どうしてこれほどマスコミ工作が好きなのだろうか。必ず会社の上に電話し、脅してかかるのだ。なぜ正面切った言論で勝負できないのか?

 二人とも言論人でありながら、このような倒錯した言論感覚を持っているということは、二人の本質が日本の企業社会の中の典型的な俗物であることを表徴している以外の何物てもないだろう。

 その井川も本多と同じく、批判を浴びるとすぐに「根拠なき人格攻撃」とやり返すのが口癖だ。両人とも被害妄想が甚だしく、常に「人格攻撃」という言葉を口に出すのは、プライドは高いものの、潜在意識の中で人格によほど自分でも不安を感じているのだろうと思わずにはいられない。

 それはともあれ、『正論』1998年10月号で、井川は大川均に公開討論を要求されている。今後を注視しなければならない。

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 以上で(その14.1999.4.2)終り。次回に続く。

(その15)『週刊金曜日』読者が「本多勝一デッチ上げ」告発?!

 以下の冒頭部分は、本多勝一研究会(hondaken)へのmailの「です」調を「である」調に直し、若干、手を加えたものである。

Sent: 99.3.21 10:22 AM

 本多勝一がヴェトナム戦争の記事でデッチ上げをしたとの疑惑に関して、『噂の真相』に、『週刊金曜日』読者会で「本多勝一による記事デッチ上げ」についての発言があったとの記事が載ったとの情報が流れたが、それは未確認である。印刷もしくはインターネット情報として確実に存在するのは、以下の私の裁判の書面、「本人陳述書」と、それ以前に提出していた書証、『歴史見直しジャーナル』20号(1998.9.25)である。

 同主旨の文章は、Web週刊誌『憎まれ愚痴』の連載にも入れてある。

『噂の真相』の記事掲載が事実だとすると、その発言者は、おそらく、私が、昨年の1998年12月9日に新宿のディベイト酒場、「ロフトプラス1」で、当日の一日店長、『噂の真相』岡留編集長からの質問に答えて、同主旨の発言をした際にいた客の1人であろう。その時にいた顔見知りの『週刊金曜日』読者が、すでに、その後、私も活動発表者として参加した1998年12月18日の民衆のメディア連絡会年末交流会の席上、朝日新聞の現役記者、伊藤千尋に対する質問の中で、同主旨の発言をしている。

 本多勝一研究会(hondaken)へのmailでは、その「本多勝一による記事デッチ上げ」が、「一次資料」なのかどうかという質問も出ているが、「一次資料」とは、いわゆる同時代の「古文書」とかの文書記録だけではない。近現代史の場合には、生身の人間の証言もある。この場合には、私自身が、現場にいた証言者から直接聞いた話を、文字にしているのである。私は、以下の裁判の書面のように、電話取材の状況を明記している。

 これは、相手の人物をも別途の取材で確かめた上での「聞き取り取材」による最高の一次資料である。それぞれの先輩には、「ぜひとも活字化を」と、お願いをしてはあるが、こういう場合には、周囲のしがらみで無理のできない場合もある。だが、前後の事情からも、十分に確信することができる内容である。しかも、すでに、かなりの友人知人に口頭で伝わっている情報だということも、確かめめることもできたので、むしろ、あえて本人の了解を求めずに、私個人の責任で発表に踏み切り、それによって、先輩たちにも、活字化の決意をうながしたものである。

 私が提訴した裁判の書面に関して言うと、本多勝一自身は、裁判の被告会社の代表なのだから、私の書面を見なかったと強弁できる立場ではない。私は、反論を期待し、抗議の「反訴」すら受けて立つ気構えで書面を提出したのだが、本多勝一側は、ウンともスンとも答えなかった。むしろ、この本人陳述書の提出以後、「被告会社」側の代理人は、何らの反論も用意しないどころか、前後の事情から間違いなしに、裁判官との直接面談による取引を行い、いったん予定されていた原告本人の私の口頭での証言を阻止し、急いで結審を求めたのである。裁判長は、私の口頭での証言を求めないで結審する理由として、「陳述書も出ているから」と述べている。つまり、陳述書という書面の提出で口頭弁論が行われたことにするという日本独特の処理方法を取ったのである。判決分には、この部分への言及はないが、裁判のルールで言うと、何らの反論もないのだから、私の主張を裁判所が、そのまま認めても良いケースなのである。

 以下、私の本人陳述書の方から、一部引用する。URLは下記の通りである。

http://www.jca.ax.apc.org/~altmedka-honnin-8.

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五、被告・本多勝一の準備書面(二)への新旧の証拠に基づく具体的な反論

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[中略]

 私はすでに『歴史見直しジャーナル』3号(甲第7号証の4)『週刊金曜日』誹謗中傷記事問題特集で、「試金石」による「本多の条痕色」は「黒」、つまり、本多勝一は「偽者」(同4頁の最後)と喝破しました。

 それまでの自称「省力取材」の結果に基づくだけでも、この判断には十分な確信がありました。ところが、その後、出るわ、出るわ。呆れを通り越して寒気がするほど、お粗末至極な記事デッチ上げの前歴が各地の各氏から寄せられました。

 ベストセラーで冒険記者の名を上げた「極地3部作」でも、同行の先輩写真記者、藤木高嶺氏(現大阪女子国際大学教授)が記事デッチ上げに呆れ果てて「決裂」宣言しています。

 ヴェトナム戦争当時の「戦場の村」連載では、現地の各社の先輩記者が、「来たばかりでヴェトナム語も知らずに、あんな取材ができるわけがない。昼は政府軍、夜は解放軍の乱戦状態で、政府軍に疑われれば爪を剥がれる拷問。半端じゃない。しかし、『嘘を書いた』という立証も難しいから、そこが彼の付け目だ」などと告発しています。(以上、ともに「通報」を得て本人から直接電話取材)

 初期の作品「極地三部作」では、朝日新聞社が1963年(昭38)に発行した『カナダ・エスキモー』初刷(甲第56号証)の場合、「京都大学農林生物科を経て[中略]朝日新聞社入社」と記しており、それらの作品の講談社文庫社版では明確に「京大農林生物科卒」(甲第76号証)となっています。

 ところが、『現代』「新聞記者・本多勝一の崩壊」(73.8.甲第58号証)によると、京大は「中退」とあるので、朝日新聞社の人事部に問い合わせると、入社の経歴書には「千葉大薬学部卒業となっているから朝日新聞に学歴を偽って入社したのではない」とのことでした。

 被告・本多勝一自身は『貧困なる精神』第4集に収録した一文、「これも異色か」(初出1960年・千葉薬雑誌)の中で京大への学士入学の経過を記していますが、そこには「中退」の「チュ」の字も見えません。

 このような「記事デッチ上げ」「経歴詐称」の常習犯が、朝日新聞の看板記者だったことには、やはり、驚く他ありません。

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 なお、冒頭再録のmailでは、「本多勝一は、デッチ上げ記事による思わぬ名声によって、もともと狂っていた回路がさらに狂ってしまった見本なのです」と付け加えている。

 さて、以上の経過の後、『歴史見直しジャーナル』の読者から、下記の本の奥付と本文の一部のコピーが送られてきた。以下、まずは、そのコピ-の主要部分を紹介する。

[ ]内は私の注記である。

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[奥付の主要部分]

五十嵐智友(いがらし・ちゆう):1960年、朝日新聞社入社。ドイツ・ボン支局長を経て東京・大阪・名古屋各本社文芸部長、論説委員、北海道支社編集総務、名古屋本社編集局長。現在、朝日新聞社史総監修兼社史編修顧問、愛知学院大学教授(国際関系論・ドイツ現代史)

『歴史の瞬間とジャーナリストたち/朝日新聞にみる20世紀』

(五十嵐智友、朝日新聞社、1999.2.25.)

[本文の関連部分]

[頁に上に「393ベトナム戦争解決を訴えて」などとあるから、これが章の題名か?]

[ゴシック小見出しが「『戦場の村』の衝撃」]

[写真が2箇所。1箇所には2人の顔写真。写真説明:]「本多勝一、藤木高嶺」

[もう1箇所には煙の上がる藁葺きの民家、ヘルメット、通信機、銃を持つ米兵たち。写真説明:「解放戦線がひそんでいそうな民家に発煙弾を投げ込む米第25歩兵師団の兵士たち。クアンガイ省バンハ村で、特派員・藤木高嶺撮影。1967年(昭和42年)9月30日夕刊、本多勝一執筆の「戦争と民衆・第5部 戦場の村」第2回に掲載」

[以下、この小見出しの本文]

 1967年(昭和42年)5月29日から東京本社社会部・本多勝一と大阪本社写真部・藤木高嶺のコンビによるベトナム・ルポ「戦争と民衆」が始まった。第1部は「首都のベトナム人」(夕刊、18回)で、8月1目から第2部「山地の人々」(朝刊、14回)・8月16日から第3部「デルタの農民」(同、15回)、9月3日から第4部「中部の漁民」(同、6回)、9月29日から第5部「戦場の村」(夕刊、20回)、11月6日から第6部「解放戦線」(同、23回)と、連載は半年間にわたり計96回を数えた。

 ルポは、北ベトナム、解放戦線側からと、南ベトナム側からの双方を取材し、戦争に痛めつけられ、傷付く民衆の生の姿を伝えた。特に第5部の「戦場の村」は、読者に強い衝撃を与えた。その一部を再緑する。

 ……ミゾのようなクボ地で、うつぶせになって死んでいる若い女ゲリラの遺体に、一人のアメリカ兵が近づいた。……3メートルほど離れて見ている私の目の前で、その米兵は彼女の片耳からイヤリングをもぎ取った。頭を足でひっくりかえすと、もう一方の耳からも奪って、自分のポケットに入れた。死体からものを盗むことなどは、しかし次に目撃した光景に比べたらもののかずではなかった。

 女ゲリラから、7,8メートル離れた芝生の上の遺体にも、上半身ハダカになった別の米兵が近付いた。ナイフを片手に、他方の手で解放戦線兵士の耳をつかんだ。エスキモーたちがトナカイの角先を切落としたときのように、彼はさっさとナイフを使って耳を切落とした。

 ことは余りにかんたんに行われたので、私は、最初その意味がわからなかった。なんとなく変な気待で、カメラマンたちのいる土手の方へ歩くうちに、その意味が少しずつわかり始めた。その瞬間、ベトナム人カノラマンP氏が「ミスター・ホンダ、あれを見なさい!」と、低い声で注意した。彼は同じものを見ていったのである。米兵は切落とした耳をビニール袋に入れたところだった。

 P氏の横にいた別のカメラマンも気付いていた。彼はそれまで話していた相手の米兵に「あの兵隊は、耳をどうするんだね」ときいた。相手は苦虫をかみつぶしたような顔をして短く答えた……スーベニア(記念品)さ」。……(昭和42.10夕刊)

 この年の声」欄への投書は4本社合許で7万898通で、テーマ別分類では「ベトナム」がトップの3313通に達した。わけても「戦場の村」に寄せられた反響は大きく、「ひとつの連載記事に対し、これほど多数の投書が集中したのは『声』はじまって以来のこと」(11.4朝刊当初欄「今週の声から」)であった。朝日の海外向け英文季刊誌「ジヤパン・クォータリ」(1968年第2号)は、第5部を独自に英訳して海外に紹介した。

 本多は、南北ベトナム踏査報告シリーズで「ボーン国際記者賞」(43年度)などを受賞した。同賞は、1949年(昭和24年)に東京で船の転覆事故のため水死した米UP通信社副社長マイルス・ボーンの功績を記念して翌50年から、日米または国際理解の増進に寄与した日本人記者に贈られている賞で、のちにボーン副社長と同船してやはり水死した前電通社長・上田顕三の名前もとって、「ボーン上田記念国際記者賞」と改称される」

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 以上の情報から判断すると、まず、この本の著者は、本多勝一より5年ほど後の入社の後輩である。ヴェトナム戦争の取材経験については不明だが、ともかく、ここに引用した部分と「読者に強い衝撃を与えた」と評価している。

 ところが、私に言わせると、こんなに「恐いもの見たさ」の俗耳に入り易くて、しかも実に怪しい記事はないのである。以下に決定的な疑問点を示す。

当該記事の引用部分には、「カメラマンたち」(当然、複数)「ベトナム人カメラマンP氏」「P氏の横にいた別のカメラマン」とある。しかし、なぜか、著者が「コンビ」と記す一番重要な同行者の日本人、「写真部・藤木高嶺」の名前はない。それだけではなくて、この「読者に強い衝撃を与えた」場面の写真は載っていないのである。絶好の被写体であるはずの「アメリカ兵」は、「冒険記者」のベテラン、本多勝一が「命懸けで記録」したはずの記事を見る限りでは、別に周囲の目を警戒していたとは思えない。それなのになぜ、「カメラマンたち」は、それが「命」であるはずの写真に、この絶好の光景を収めなかったのであろうか。また、「冒険記者」本多勝一は、なぜ、それを依頼しなかったのだろうか。

 古今東西、戦争報道には、デッチ上げ付き物である。

 江戸川柳には「講釈師、見てきたような嘘を言い」とある。

 一般人を「危険を覚悟の取材」などと脅かして、素朴な疑問を封じ込めるのも、いわゆる「プロ」の常套手段である。

 本多勝一は、以上の、実に簡単至極な疑問に対して、誠実に答えなければならない。

 ともかく、これ以後に、藤木高嶺は、本多勝一と「決裂」(藤木発言通り)しているのである。

 以上で(その15.1999.4.9)終り。次回に続く。

(その16)本多勝一の同志「朝日『重鎮』」井川一久「改竄疑惑」

 以下は、前回に紹介した「朝日『重鎮』井川一久」「疑惑」の告発記事である。この奇々怪々な経過についての応酬は、『週刊文春』(1997.11.27)「改竄疑惑」、『正論』(1998.7)井川反論、『正論』(1998.10)大川再反論と続く。それ以外にも目下照会中の『週刊金曜日』記事問題とか、「朝日『重鎮』」同士の仲の本多勝一の介在もあるので、引き続き関係資料を紹介する。大川均の人柄については一昨年来、友人から聞き知り、直接の電話でも、いくつかの問題点を質した。その他の取材結果も含めて、逐次、紹介する。

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ベトナム戦争を描いた小説はかく改ざんされた!

製本会社経営・おおかわ・ひとし

大川 均

著者紹介:大川均氏 昭和45年(1940年)和歌山県生まれ。大阪外国語大学中国語学科卒。青山学院大学大学院文学研究科聖書神学専攻修士課程修了。アジア福祉教育財団難民事業本部姫路インドシナ難民定住促進センター日本語講師をつとめる。同財団刊行の「漢字語彙集(べトナム語)編集。昭和60年(1985年)、「べトナム難民漂流記」で朝日ジャーナル・ノンフィクション大賞奨励賞受賞。

写真説明:[戦争の悲しみ」の著者バオ・ニン氏と大川氏(1997年9月1日撮影)

 以下が本文。

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中断された出版作業

 ベトナム戦争を描いた、ハノイの作家バオ・ニン(元北ベトナム軍兵士)の「戦争の悲しみ」は悲しい小説だ。著者の分身ともみえる主人公、北ベトナム陸軍の志願兵キエンは、米軍との南ベトナム中部高原での合戦で全滅した大隊の、わずか数人の生き残りの一人だ。瀕死の重傷の癒えるのをまって戦線に復帰し、米軍、南軍と死闘をつづけ、戦後、遺骨収拾隊員としてジャングルを経巡った後、除隊して作家になるが、戦争の心的外傷(ルビ:トラウマ)から逃れられず、幼馴染みの歌姫フォンとの恋にも破れ、ついには精神の崩壊へと進む。

 この戦争小説は、北ベトナム軍の、どこの国の軍隊とも共通する、善悪とりまぜたありのままの姿を描いている。そのえめに軍当局の不興を買い、また却ってそのために英語、フランス語その他十数か国語に訳されて欧米で高い評価をえた。そして欧米での評価が高まるほど、国内での作者の立場は困難になった。今でもやはり「人民の軍隊は正義の軍隊」どいう看板をはずすことは許されないのだ。1991年に2000冊印刷された初版は出版と同時に絶版とされた。

 1995年春、読売新聞と日本経済新聞が「戦争の悲しみ」と作者バオ・ニンを紹介した。1996年春、私の友人の里帰りしたベトナム難民がホーチミン市中を探しまわり古本屋でやっと1冊見つけて買ってきてくれた。私は元南ベトナム空軍中尉、元北ベトナム陸軍大尉の協力を得て翻訳に取りかかり、途中で著者に手紙を書いた。

「私は学生時代ベトナム反戦運動にかかわり、その後ベトナム難民に日本語を教えるプロジェクトにたずさわってきた。アメリカの映画や小説、ルポや回想録で、アメリカ側の事情はかなり分かる。難民と接することで南の事情もかなり分かるようになった。

 しかし、当時も今も肝心の北ベトナムのことはほとんど分からない。とりわけ、北の人々の心の中はまったく分からない。あなたの作品ではじめて、人々の喜び悲しみを知ることができるように思う。この作品は欧米と同じように日本の読者にも暖かく迎えられるだろう。今、私はべトナム語原文から翻訳を進めている。翻訳の許可をいただきたい。」

 そして著者と電話で話すこどができた。著者は私に原文からの翻訳の労にたいする謝意を述べ、版権のことば分かりかねるのてそちらで研究してほしい、と述べた。そして私が確認のため底本の奥付の記載事項を告げると、彼は「間違いない。それで続けてほしい。」と答えた。こうして私は翻訳を進め、完成した訳稿のコビーを今年[1997年]4月に著者に送ることができた。東京・築地の手堅い出版杜、築地書館社長が作品のよさに魅かれ、私の訳の出版を引き受けてくれた。

 ところが、版を組み終え、印刷製本をまつばかりになった時、英訳本からの井川一久氏による重訳が「めるくまーる」社から出ることが分かった。築地書舘が誠意を尽くして「め」杜に挨拶したところ、「め」社と井川氏は驚き激怒した。「め」杜は「こちらは最初から著者と連絡をとり、英訳本からの翻訳出版の許可も得ている。そちらは嘘を言っている。そちらの訳者はどこの何者か。」と言い、つづいて、井川氏から連絡を受けた原著者バオ・ニン氏から「版権はイギリスの会社がもっている。築地書館の出版は取り上めよ。」とのファックスが届いた。

 そこにはさらに驚くべきことに、「自分はオカワ、イカワを同一人物だと思い込んでいた。朝日の支局長には何度か会ったが、オカワには会ったことがない。今までオカワとくりかえし連絡をとったが、イカワと連絡しているつもりだった」とあった。井川氏は訪問した築地書館会長に「あくまでも出版するならハノイでマスコミを呼んで原著者といっしょに記者会見を開くなどして築地書舘を非難する。」と警告した。井川氏はプノンペン特派員、サイゴン支局長、ハノイ支局長を歴任した顔日新聞の元記者だ。

 おっかけて、イギリスのランダムハウスから築地書館に「版権は当杜にある。日本語版の翻訳出版権は当社から版権を買った『め』社にある。即刻、出版を取り止めよ」とのファックスが来た。築地書館は「ランダムハウスがもつているのは英語版についてだけだ(英語版には『イギリスにおける著作物』として版権が生じる)。当方の出版はベトナム語原版からで、英語版とは無関係だ。取り止め要求の明確な法的根拠を早急に示せ。」と反論した。この反論への返答はついになかった。商標権や著作権にからんで欧米人がよくやるブラフにすぎなかった。

 べトナムは国際著作権条約(「べルヌ条約」「万国著作権条約」)未加盟国である。したがって、外国とベトナムでは、相手国の著作物の翻訳出版はお互い自由にできる。法的に外国人とベトナム人の間で版権は売買の対象にならない。版権の売買はありえない。私がバオ・ニン氏に出版の許可を求めたのは道義上のことだ。しかし、築地書館は井川氏と「め」社の剣幕に恐れをなし、ベトナム入作家の版権への無理解や人物の取り違えなど混乱した状態に嫌気がさし、七月、出版作業を中断した。

 一方、六月中旬、井川一久訳「戦争の悲しみ」が「め」社から出版され、各紙誌に書評が掲載された。私は井川訳を読んで驚いた。これは翻訳ではなく贋作だ。

井川一久氏の改竄

「そのころタンソニュット空港は、にわかに騒々しくなっていた。周辺の貧しい住民があろからあとがち押し寄せ、あらゆる施設からあらゆる資機材ど備品を先を争って運び去ろうとしていたのだ。機械類や食品はもとより、電線、食器、椅子、灰皿、窓ガラスまでが略奪の対象だった。その物音にまじって、入民軍の兵士たちがなかば祝賀気分、なかば破壊衝動で天空へ射ち上げる銃声が響いていた。

 住民の略奪物品は、この日に南北統一を事実上達成したヴェトナム国家の財産となるべきものだったが、略奪者たちはそんなふうには考えず、サイゴン政権がつぶれたからには空港の物件はすべて所有者なしの、誰でも勝手に処分していいものになつたと思っているらしかった。とにかく、ひどい騒ぎだった。眼を血走らせて金目の物品を取り合い、あるいは喜色満面で略奪品を運び出す群衆の叫び。これを制止しようとする兵士たちの銃声。」(井川訳142,143頁)

 これはサイゴン陥落当日の北軍によるクン・ソン・ニュット空港略奪の場面。ここでは、原文のどこにもない「周辺の貧しい住民」を登場させ、略奪の犯人を北軍将兵から彼らに書き変えたうえ、よけいな書き込みをし、説教をひとくさり書き加えている。

 原文は左記のとおり。

「ちょうど、飛行場の至る所で、勝利を祝って乱射する銃声が鳴り響き、兵隊も将校も一緒になって、どたばた走り回り、叩き破り、打ち壊し、市場の中のようにごったがえして、獲物を漁り始めていた。」(ベトナム語原版109頁からの拙訳。印刷の都合で原文は割愛)

 なお英訳は左記のとおり。英訳本は誤訳が多いが、この箇所は比較的原文に忠実である。

 The whole airport was full of officers and soldiers alike running as though they were in a marketplace. They were looting, destroying, and firing rifles into the air at randam.

(英訳本 103頁。傍線[注]は大川。以下同じ)

*[Web週刊誌『憎まれ愚痴』編集部注:上記傍線(underline)箇所は下記の部分。その後の傍線付きの箇所では、単に「*[傍線1.]などの注記のみとする。]

*[傍線1.「兵隊も将校も一緒になって」(officers and soldiers alike)]*[傍線2.「獲物を漁り始めていた」(They were looting)]

「『ごらんよ、ひどいじやないか』と、キエンは胸を締めつけられる思いでフォンに言った。『学校をめちやめちやにするなんて、もう誰も命ってものを大切にしなくなったのかなあ』

『どこかの男たちのしわざだわ』とフォンは突き放すように答えた。…『人間ってそんなものなの。戦争がそうさせるの。戦争が何もかも壊してしまうの』」(井川訳 320頁)

*[傍線1.「どこかの男たちのしわざだわ」]*[傍線2.「人間って」]

 これは北ベトナム、クイン・ホア市近郊の廃校の場面。自国の学校を荒らす北ベトナム軍の十気の低さを示すこのエピソードを、「どこかの男たち」を登場させて書き変えた。なお、英語のlifeを「命」と誤訳したためにキエンの台詞は意味不明になっている。原文のcuoc song[ヴェトナム文字の鬚は省略] も、英訳のlifeも、「生活」である。原文は、

「『学校をこんなにして!』彼は嘆いた。『よく壊したもんだ。連中は、生活を大切にすることを知らないのか』

『軍隊が立ち寄ったのは確かね。兵隊なんて。戦争なんて! 戦争って何もかも、一つも残さず蹴散らしして、壊して、食べ尽くすのよ!』フォンが、人の世の習いだとでもいうように言った。」(原文260頁からの拙訳。原文は割愛)

 英訳は左記のとおり。

"Look at this," he said to Phuong."How could any one destroy schoo1? Don't they respect life any more"

"May be it was our soldoers," she replied."Soldiers do this sort of thing. War does this. war smashes and destroys."

(英訳本 216頁)

*[傍線1.「生活」]*[傍線2.「軍隊が立ち寄ったのは確かね。兵隊なんて」May be it was our soldoers,""Soldiers do this sort of thing.]

 ここでは紙数の関係でこの2例だけをあげるが、井川訳はこうした改竄で全編が覆われている。読者の要請があれば例はいくらでも提示する。

 井川氏は巻末の「解説」に次のように書いて、翻訳の方針を表明している。

「この小説に登場する兵士たちは、人間的弱点をたっぷり持ち合わぜているが、その弱点は他者を傷つけるようなものではない。米軍やサイゴン軍とは違って、彼らはわが身を犠牲にしても非戦闘員の命を守ろうとし、傷ついた敵兵や投降した敵兵には決して危害を加えない。彼らは戦いの場に投げ込まれた自他の運命に泣きながら戦うのだ。

 この人民軍の兵士像は、ヴェトナムやカンボジアでの私の見聞とも一致する。この軍隊に関する限り、私は女子供や老人の殺傷、レイプ、金品略奪、捕虜虐待などの悪業[ルビ:ママ]を、ただの噂としても一度も耳にしたことがない。」(368頁)

*[傍線1.「米軍やサイゴン軍とは違って」]*[傍線2.「この軍隊に関する限り、私は女子供や老人の殺傷、レイプ、金品略奪、捕虜虐待などの悪業を、ただの噂としても一度も耳にしたことがない」]

 原作はこの線で改竄するぞ、というわけだ。井川氏は英語の能力があやしいだけでなく、翻訳者の禁欲も畏れもなく、原作者と読者を尊重することも知らない。訳者失格である。

井川氏の改竄が意図するところ

 戦争当時、北ベトナムは「南ベトナムに北ベトナム軍は存在しない。」と強弁し、日本のマスコミはおおむねこの強弁に屈していた。

「…いわゆる南に存在する北ベトナム軍なる問題については。

 答え われわれは交渉の中で『北軍の存在』なるものをきっぱり拒否している。政治的、法的にも根拠がない。」(「パリ和平協定」締結時のレ・ドク・ト北代表団特別顧間の発言。「読売新聞」1973年1月25日夕刊)

 バオ・ニンの「戦争の悲しみ」は、北政府が終始一貫否定しつづけた「北軍の南での戦闘」を描いている。そこでは米軍の庄倒的な強さと非常、南軍の勇戦と冷酷、北軍の人情味と残虐、窮乏を描いている。私たちは戦争当時、アメリカ軍の物量と奢りの陰のもろさや南軍の駄目さ加滅については十二分に間かされた。反面、「解放勢力」の果敢、廉潔についてもたっぷりと聞かされた。しかし、この作品は、勇敢であるが卑怯にもなり、女も殺せば、捕虜虐待も略奪もレイプもする、どこにでもある普通の軍隊としての北べトナム軍を描きだしている。これが作品の歴史的意義であり、ベトナム軍当局が激怒した理由でもある。

*[傍線1.「普通の軍隊」]

 しかし、井川氏は原作にも英訳本にも逆らって、北軍の略奪行為は隠蔽し、米軍と南軍にはきたない言葉を投げつける。北軍の不行跡を消去し、美化するための、また米軍、南軍をおとしめるための、長短の語句を至る所に紛れ込ませる。麦めしのコメの間から麦つぶを一つ一つ摘まみ出すのが困難であるように、井川氏の混ぜ込んだ偽りのことばを摘まみ出すのは極めてむずかしい。井川氏はこうした荒っぽい手口で自昼堂々、原作の意図を逆方向にねじまげたのだ。矢作俊彦氏が朝日の読書欄(1997年8月24日)でこの本を評し、「しかし、翻訳がいただけない。この文章から原作に思いをはせるには労力が必要だ。」と書いてあるとおりだ。

*[傍線:「原作の意図を逆方向にねじまげたのだ」]

 井川訳が底本にした英訳本も、南ベトナムのジヤングルにオランウータンを登場させたり、徒歩で接近する南軍降下部隊をパラシュート降下させたり、書き変え、削除、誤訳だらけの困った代物ではあるが、そこにはこの種の原作の精神に逆行する改竄はない。こうした改竄の意図はいったいどこにあるのだろう。自分たちが美化しつづけた解放側のありのままの姿が現れるのがそんなに怖いのだろうか。

*[傍線:「原作の精神に逆行する改竄」]

 我々日本人にとってベトナム戦争はたいへん分かりにくかった。中でも分かりにくかったのは、戦争当事者の片方が何者なのかがはっきりしなかったこどだ。当初、南ベトナム軍の対戦相手は南ベトナム解放民族戦線、いわゆるベトコン・ゲリラだとされた。ベトコンとは、南ベトナム政府の暴政に耐えかねて蜂起した南の民衆の組織で、弓矢や落とし穴、奪った武器で果敢に戦うゲリラだといわれた。北ベトナムはこの組繊を北から支授しているだけで、「南で作戦展開している北ベトナム軍は存在しない。」とされた。

*[傍線:「南の民衆の組織」]

 途中からアメリカ軍が南政府側に付いて参戦し、北からの補給路を断ち、北の戦意を挫くためとして、、北爆(北ベトナム爆撃)を強行し、ラオス、カンボジアにまで戦線を拡大した。が、思うようにゆかず、だんだんと嫌気がさし、ついに、北側と「パリ和平協定」を締結し、「これによって戦争は終桔した。」と宣言して撤退した。「協定」を実現したアメリカ大統領補佐官キッシンジャーはノーベル平和賞を受賞した。

(2人セットで受賞するはずだった北のレ・ドク・トは受賞を拒絶した。)

 しかし、終わったはずの戦争は続き、2年後の1975年5月初めに、我々はサイゴンの南ベトナム大統領官邸に突入する北ベトナム軍とその戦車隊をテレビで見た。4月30日、北ベトナム軍が南ベトナム軍を撃ち被り、南の首都を落としたのだ。しかし、サイゴン入城の北ベトナム軍部隊が掲げていたのは「南ベトナム解放民族戦線」の旗だった。日本の新聞で、「突入したのは北ベトナム軍だ」とずばり報じたものはなかった。北ベトナム自身が頑として認めない以上、どう呼ぶべきか分からなかったのだろうか。解放勢力軍、解放軍(以上、朝日、読売)、括弧つき「解放軍」(毎日)、北・革命軍(サンケイ)、臨時革命政府軍(日経)とまちまちだった。10年以上もつづいた戦争で戦争当事者の名前が特定できなかった例が史上ほかにあるたろうか。ニューョーク・タイムズは「北ベトナムと南臨時革命政府の共産軍(Commmunist troops of North Vietnam and the Provisional Revolutionary Government of South Voetnem)」(5月1日)と報じた。我々は、北ベトナムに騙されたマスコミに騙されていたわけだ。

 しかも、我々がテレビで見たこの勇ましい戦車隊突入の場面は、実況ではなく事後のやらせであったことを現場にいあわせた毎日新聞の記者が後に書き記している。(古森義久著「ベトナム報道1300日/ある社会の終焉」349頁、昭和60年、講談社)

 朝日新聞記者、井川一久氏は当日の状況を次のように伝えている。

「大統領官邸高く、解放戦線の2色金星旗がひるがえった。。」【サイゴン=井川特派員】(朝日新聞1975年5月1日)

 *[傍線:「驚くべきことにこの旗は邸内の一部にひそかに用意されていたのだ」]

 井川特派員はこの旗が「邸内の一部」から取り出される現場を目撃したのだろうか。誰かに聞いたのだろうか。ここには根拠が示されていない。「解放側」の浸透力を強調するために一筆書き加えたのではあるまいか。だとすれば、22年後の今回の改竄の根は極めて深いと言わねばならぬ。正に確信犯だ。

バオ・ニン氏を訪間

 9月1日、私はハノイのバオ・ニン氏を訪ねてアパートの一室で話し合った。ときおり小雨の降るハノイの街は翌2日の国慶節(独立記念日)を祝う紅の横断幕で飾られていた。1945年9月2日、インドシナの東京[ルビ:トンキン]デルタのこの都市で、ホー・チ・ミンがベトナムの独立を宣言した。同日、日本の東京湾に浮かぶ米戦艦「ミズーリ」上では日本の降伏文書の調印式が行われた。20数年後「ミズーリ」はベトナム戦争に参加してベトナム沿岸に艦砲射撃をあびぜた。私は両国の歴史の深い因縁を想った。

 バオ・ニン氏は版権の国際的な扱いが全く理解できなかった。訪問以前から、電話で話し、手紙を送り、そして今、膝つきあわせてくりかえし説明したにもかかわらず、国際著作権条約の論理がどうしても飲み込めないようだった。理解不能事の理解を強要された形になって当惑しきったようだった。私は事前に、ロシア専門家や国際著作権法の専門家から、かつてのソ連や中国でも国際著作権の概念が理解されなかったことを聞いていた。専門家たちは「べトナム人作家にはとうてい理解できまい。」と予告していた。これは彼個人の柔軟性の欠如というよりも、べトナムのように法治の経験のない社会に住む人々に共通する悲しい限界だ。

「自分はイギリスの会社に版権を売ってしまった。お金をもらった。版権はイギリスの会社にあるのだ。売ってしまった以上、二重売りはできない。」と言うばかり。もらったのは謝礼金にすぎないのだが、それを版権譲渡の代金としか解せないのだ。私はつぎに、井川訳の改竄を例証しようとした。私は井川訳の改竄例を1例、日本語からベトナム語に訳し直して、あらかじめ郵送しておいた。そして今回、他の数例を追加して持参した。彼は「自分はいわば脚本家の立場だ。脚本家がいちいち演出家に口出ししないように、翻訳家に口出ししない。英語も日本語も分からないのだから、翻訳家を信用するしかない。」と言い、「他人様の訳を批判するようなことはすべきでない。」と私をたしなめにかかる始末。しかし私が「その例のようなむちやくちやな訳でも信頼するのか。」と迫るとさすがに困惑し、「もしこれが本当ならば、何とかしなければならない。しかし、あなたのこのべトナム語訳が井川訳の正確な訳かどうか自分には分からない。日越両語の分かる人に比較検討してもらってから判断する。」と言う。

 私は、とりあげた改竄例だけでなく、拙訳、井川訳の全文の早急の比較検討を求め、「井川訳の大幅な改竄が、私の指摘どおりだと納得すれば、原著者として抗議なり、非難なりを公表すべきだ。」と言ったところ、彼は「そうする。」と答えた。

「戦争の悲しみ」は不運な小説だ。軍当局に非難され、出版と同時に絶版とされた。欧米には誤訳だらけの英訳本によって紹介され(仏訳以外は全て英訳からの重訳)、日本では原作の精神に敵意を抱く訳者の手に掛かり無残な姿で紹介された。私は、原作の名誉を守り、原作の本当の姿を日本の読者に伝えるため、この優れた作品を何としても出版したいと思う。

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 以上で(その16.1999.4.16)終り。次回に続く。

(その17)続1:「朝日『重鎮』」井川一久のベトナム小説「改竄疑惑」

 この井川一久のベトナム小説「改竄疑惑」と、同志本多勝一との関係には、もう1つ奇妙に符合する関連情報があった。

 疑惑告発者の大川均に電話で事情を聞いていた時、大川が突然、「井川さんは最初、私を、それ以前に対立関係にあった関西の別人と間違えていたらしいのですが、その名前が思い出せません。珍しい名前なんですが……」と言ったのである。大川も堺市に住む関西人だが、この一言でピンときた私が、「鵜戸口さんではないですか。長良川の鵜飼いの鵜に扉の戸口……」と言うと、「そうでした。そんな名前でした」と答える。しかし、大川は、その鵜戸口が何者かを、全く知らないのである。

 私には、すぐ事情が判った。大川が送ってきた井川一久の公開書簡を読むと、やたらと大川の「組織的背景」を疑い、それを匂わしては「世間」の支持を得ようとする感じがあるのだ。カンボジア研究者の鵜戸口哲尚と、2人の「朝日『重鎮』」との関係については、すでにこの連載の(その14)「『言論人』としての本多勝一の評価」で紹介した。以下、井川と直接関連する部分だけを再録する。

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1例:『人民新聞』(1998.4.15)「私の発言」欄

「再び『カンボジア革命とは何だったのか』を問うべき本多勝一『噂の真相』(1998年4月号)コラムへの回答」

「鵜戸口哲尚」

「ポレミック・ダンディー気取りの本多勝一」……「レッテル張りが大好きな人々」

「本多勝一とその同僚井川一久は、私たちに『虐殺の擁護者』『連合赤軍張り』というレッテルを貼り、当時の大阪朝日担当記者や私たちに陰湿・姑息・執拗な激しい恫喝を加えてきた」

「私は、本紙 412号に『虐殺と報道』に関し、『一読してみれば、井川一久は主役ではなく美人局であり、とぼけた顔で楚々と傍役に回っている本多勝一が本命であることは一目瞭然なのである』と書いた」

「本多さん、私は井川一久が『虐殺と報道』で攻撃した柴由哲也の『日本型メデイアシステムの崩壊』の書評を『図書新聞』(昨年、1997年12月20号)に書きましたが、貴方たちはなぜ柴山のように、新聞社の体質、『朝日』の体質には公然とメスを入れるこができないのですか?

 それこそ、あなたの得意とするルポルタ-ジュの本領の発揮所ではありませんか」

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 さて、内心では、そんな過去の悪事の暴露を恐れ、かつ、幻想の「連合赤軍張り」1派からの「報復」に怯えていたであろう2人の「朝日『重鎮』」の内の1人、井川一久は、いとも不可思議なことに、自分の従来の主張とは真反対のテーマで世界中に知られるようになったベトナム人の小説の日本語訳を企てたのである。井川を突き動かした動機は、いったい何だったのだろうか。

 以下は、前回に紹介した『正論』(1997.12)大川均「『戦争の悲しみ』の不運」に続く「朝日とは天敵の仲」の文芸春秋「野次馬ジャーナリズム」記事である。

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『週刊文春』(1997.11.27)

朝日元記者にベトナム戦争文学『戦争の悲しみ』「改ざん」疑惑

ベトナム戦争を舞台に、極限状況における人間の内面を描いて好評の文学作品の邦訳に改ざんの疑惑が持ち上がっている。訳者はサイゴン陥落にも立ち会った元・朝日新聞記者。政治的な意図はなく、自身の経験を生かして、日本人向けに訳しただけというのだが……。

 ベトナム人作家バオ・ニンの小説『戦争の悲しみ』の邦訳が出版されたのは今年7月(井川一久訳、めるくま-る刊)。「戦争という悲劇の意味を改めて考えさせる鎮魂の書」「これまでにない深みのある戦争小説」と各紙誌で絶賛されてきた。しかし、この邦訳に改ざん疑惑が持ち上がった。「これは翻訳ではなく贋作だ」大阪で製本会社を経営する大川均氏(57)が、『正論』12月号で、厳しく指弾したのである。大川氏自身は昨年春にベトナム語の原書を手に入れ、独自に翻訳を始めた。そして、『めるくま-る』から先に出た井川氏の邦訳を読み、愕然としたという。「井川訳は、全編何ヵ所にもわたって原作を意図的に改ざんしている。特に北ベトナム軍(人民軍)にとって不都合な箇所に、大幅な修正を加えています」

 訳者の井川一久氏(63)は元・朝日新聞記者。サイゴン支局長、ハノイ支局長などを歴任、1975年のサイゴン陥落にも立ち会っている。『戦争の悲しみ』は、もと北ベトナム軍兵士キエンを主人公に、彼が経験する戦地の惨状、幼なじみとの悲恋を回想形式で描いた文学作品だ。著者バオ・ニン自身が北べトナム軍に6年間従軍しており、本書ではその体験を下敷きに、これまで『正義の軍隊』として美化されることの多かった人民軍の実像を描いている。大川氏は『正論』誌上で「改ざん」点を2点、指摘している。しかし、それ以外にも井川氏の邦訳と氏が使用した英訳本の間には、数多くの問題部分が散見された。(1)まず、北ベトナム軍当局が、人民軍による略奪行為がなかったかどうがをチェックする場面。

(井川訳)〔当たり前のことだが、人民軍将兵による南での私的な略奪行為は厳禁されていた。で、軍当局は、しばしば帰郷中の兵士たちの私物を検査した。背嚢のあらゆるポケットを調ベた。それはまったく無用の努力だった。南の親戚からみやげものをもらった兵士はいたが、明らかに略奪品とわかる品物を持っているような兵士は一人もいなかった。

「馬鹿な話だ」と、ある軍曹が苦笑しながらキエンに言った。「俺たち、痩せても枯れても人民軍だ。命がけで祖国のために戦ってきたよなあ。その俺たちが、南の同胞か何か盗むとでも思ってるのかね」〕(106-107ページ)

 同じ部分が、英訳本ではこう記述されている。

(英訳本)〔The authorities checked the soldiers time after time, searching them for loot. Every pocket of their knapsacks had been searched as though the mountain of property that had bee looted and hidden afer the takeover of the South had been taken only by soldiers.〕(80ページ)

(英訳本の和訳=編集部。以下同)

〔軍当局は析りに触れて、略奪したものがないか、人民軍の兵士たちを検査した。背嚢のポケット全てが調べられた。まるで、南の侵略後に略奪され隠された物品の山は、兵士だけが取ったとでもいうように。〕

 つまり………線部は原書にも英訳本にもない。井川氏が加筆したものなのだ。

 井川兵は人民軍の略奪行為がなかったことを、説明として書き加えるだけでなく、原作にはない「ある軍曹」まで登場させ、それを強調する台詞をしゃべらせている。

(2)次に、主人公と恋人が通う北部ベトナムの学校の、1965当時の様子。

(井川訳)〔4月のある晴れた日の午後、校内のグラウンドでは、党と政府の徹底抗戦方針を支持する全校集会が開かれた。米国との正面きった戦争に備えて、すでに校庭の並木は伐り倒され、グラウンドには防空用の塹壕が十字形に深く掘られていた。

 キエンとフォンはこの集会に出なかった。〕(269ページ)

 同じ部分、英訳本ではどうか。以下は和訳のみを記す。

(英訳本和訳)〔晩春の午後だった。その時学校では既に、戦争を前にして葉の生い茂る並木は切り倒され、校庭には十字形に塹壕が深く掘られていた。消防用ヘルメットをかぶった校長は大声て、アメリカ人たちはこの戦争で木っ端みじんになるが、我々はそうならない、と言い放った。「帝国主義者どもは、張り子の虎である」と校長は叫んだ。「君たちは我らの革命の若い守護神となって、人類を救うだろう」

 校長は、木で作ったライフルや槍、鋤、鍬などを手にして幼い虚勢をはっている第10学年の生徒一人を指さした。その少年は、「生きるも、死ぬもここにあり」と言い、他の者がやかましくそれを繰り返した。「侵略者を殺せ!」と誰かが叫び、皆が喝采したりした。

 フオンとキエンは、「3つの備え」を説教するこの集会に出なかった。〕(117-118ページ)

著者の了解で加筆と削除?

 原作に描かれた、北ベトナムの生徒たちを相手に校長が政治的な熱弁をふるう……線部の印象的な場面を、井川氏はなぜかそっくり削除している。

(3)ベトナム人女性ガイドが米兵に捕らえられ、主人公の目の前でレイプされる場面。

(井川訳)〔米兵たちは、後方に立っていた数人を除いて、次々にホアを犯したようだった。彼らはこの日のパトロール活動を集団レイプで終えようとしていた。

 薄闇が忍び寄っていた。キエンはひそかにその場を離れ、負傷者搬送斑の隠れ場へ戻った。ホアの運命はほぼ予想できた。人目のないジャングル地帯で米軍のパトロール隊に輪姦された「ヴェトコン」の若い女性はキエンの知るかぎりでは、まず生きては戻ってこなかった。〕(280ページ)

 この井川訳に対し、英訳本の和訳はこうだ。

(英訳本和訳)〔ジャングルの小さな空き地で、ほとんど沈黙のうちに、しかし野蛮に、若いホアの集団レイプは続いた。痛ましい一日の日が暮れようとしていた。キエンは彼らから這って遠ざかり、負傷した仲間たちのもとへ向かった。〕(191-192ページ)

 ここデも井川氏は、原作にない……線部分を書き加え、米軍の野蛮さを強調している。

(4)小説の後半、空襲の最中に主人公の恋人フォンが、数人の男たちにレイプされる場面がある。物語中きわめて重要な役割を果たす場面だ。井川氏は邦訳の「解説」で、英訳本には誤訳が多いとし、特にこの部分を挙げてこう書いている。「フォンを輪姦したのは、原作では明らかに裏世界の民間人、続いてレイプしようとした大男も民間人だが、英訳本では軍人のように描かれている」

 しかし、原作にも英訳本にも、この男たちが軍人か民間人かをはっきりと特定する記述はない。汽車の中でフォンをレイプした男たちの描写は、原作ではこうなっている。

(原作和訳)〔突然、一つの貨車の扉がなかば開いて、数人の男が飛び下りた。だらしない身なりで、軍人か民間人かはっきりせず、頭髪はボサボサに乱れていた。あくびや、ののしる声が間こえた。酒の臭いが鼻をついた。彼らは駅の中に入ってゆき、瓦礫の山の中に姿を消した。〕(初版243ページ)

 これに対し井川訳はこうなっている。

(井用訳)〔被弾を免れた列車後部の貨車の一つから、屈強な男が数人、扉を数十センチだけ開いて、キエンのそばに次々に飛び出してきた。息が酒臭かった。みんな汚れた軍服を着ていたが、この服装だけては職業や身分はわからなかった。対米戦争が始まって以来、民間人も軍服か軍服まがいの服を着るのが普通になっていたからだ。この男たちの軍服のちぐはぐさと着方のだらしなさは、彼らが民間の、それも裏街道の住人であることを物語っていた。本物の軍人なら、そもそも貨物列車に乗るはずがなかった。その男たちは何やら口汚なくののしり会いながら、駅舎の残骸の向こうへ去った。〕(199ページ)

 訳者はサイゴン陥落にも立ち会った元・朝日新間記者。政治的な意図はなく、自身の経験も生かして、日本人向けに駅しただけどいうのだが・…・・

 井川氏は、原作に「軍人か民間人かはっきりせず」と書いてある………線部分を削り、がわりに……線部分を加えて、フォンをレイプしたのは人民軍ではなく、民間人と断定するよう書き換えている。

(5)その後に登場する、フォンを暴行しようとするもう一人の男についても同様だ。

(原作和訳)〔「下りるつもりか?下りてどうするんだ」男がフォンのすぐ前に立ちふさがり、大声で言った。野卑なしわがれ声だった。「汽車はすぐに出るぜ!それに、そんなぼろばろの恰好で駅に下りて恥ずかしくないのか? 馬鹿だなまったく。戻れよ。戻って座れ! ほら、水だ。食い物だ。替わりのズボンもある。あいつらはどこだ? どうなった?」男はひと息に言うと、舐めるようにフォンの身体を見た。〕(初版245ページ)

 これだけでは、男が「明らかに民間人」とはいえない。しかし井川氏は再び、……線部分を書き加えることで、男がベトナム人民軍の軍人である可能性を打ち消そうとする。

(井川訳)〔「おめえ、どこへ行くつもりなんだ?」と、その男はフォンにたずねた。筋骨隆々とした大男だった。彼はキエンには目もくれず、フォンを見つめて「汽車はすぐ出るんだぜ。おめえはもう下りられねえよ」と怒鳴った。命令口調だったが、どう考えても正規の軍人の口にする言葉ではなかった。大男は続けた。「ほら、おめえにズボンを持ってきてやったぜ。水も食い物もな」〕(302ページ)

歴史的事実に基づき「訂正」

 ざっと一読しただけでも、井川訳『戦争の悲しみ』は、原作ともその英訳とも大幅に違っていることがご理解いただけるだろう。しかも、ここまで大幅な加筆や削除がありながら、訳註さえなく、同書の「解説」にもそのことは一言も触れられていないのだ。井川氏に「改ざん疑惑」を質すと、意外にも、「私の訳が原文に最も近い」と胸を張った。

「本書には、ヴェトナム人にとっては常識でも、ヴェトナムの風土と人間を知らない日本の読者にとっては意味が通じない部分が多い。日本人読者の誤解を避けるため、かなり意訳や加筆、修正をする必要があった。(2)のように、文学的香気を損なわない目的で削った例もあります。他にもたとえば、原作ではサイゴン陥落の日、豪雨が降ったと書いてあるが、実際はサイゴンの都心部は晴れていた。そのように、歴史的事実に基づいて原作を直したところもある。こうした説明はいちいち訳註に入れるのは不適切です。意訳については、原著者の丁解を取っています。これは私の見聞だけでなく、誰しも認めざるをえない事実ですが、人民軍は南軍と画然と違っていた。非行程度ならあっても、非戦闘員の虐殺やレイプはなかった。賛美するに足る軍隊です。バオ・ニンも私も、この本が政治と無関係な、「文学」として評価されることを願っています。私の翻訳について政治的な問題にされるのは困る」

 しかし、井川氏は邦訳の「解説」で、北ヴェトナムの人民軍の兵士たちを「史上まれにみる『人間の軍隊』」とした上で、「この小説は一種の人民軍賛歌ですらある」と明言している。こうした視点に立った加筆や削除こそ、人民軍礼賛を強要する「政治的」なものではないだろうか。

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 私は、以上のような「改竄」は、大手メディアの日常業務の反映であると考えている。特に井川一久が飛び抜けて勝手放題をやったのではないと考えれば、これまた重大な問題点の提起になるのではあるが。

 以上で(その17.1999.4.23)終り。次回に続く。

(その18)ヴェトナム小説「改竄」疑惑への井川一久本人の反論

 以下の反論は大川執筆の告発記事から7ヵ月後に同じ雑誌『正論』に掲載されたものである。翻訳の経過をめぐる両者の主張は、真っ向から食い違っている。しかし、意図と経過はどうあれ、「書き直し」「書き加え」の部分があることは、井川自身も認めているのである。それが著者の了解の範囲内なのかどうか、などの事実関係の評価は、双方の主張をすべて再録した後に行うこととしたい。ともかく、事態は奇々怪々なのである。

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『正論』(1998.7)

「戦争の悲しみ」の悲しみ

大川均氏の非難に答える

小説「戦争の悲しみ」訳者●いかわ・かずひさ 井川一久

[ ]内は本 Web週刊誌『憎まれ愚痴』編集部の注。内容は末尾。

 井川一久氏 昭和9年(1934年)愛媛県生れ。早稲田大学政経学部卒。朝日新聞那覇支局長、プノンペン駐在アジア総局長、サイゴン支局長、朝日ジャーナル副編集長、東京本社編集委員、ハノイ初代支局長を経て平成6年退職。現在、大阪経済法科大学客員教授、早大理工学部講師。編著書に『新版カンボジア黙示録』『世紀末症候群』『危機に立つアンコール遺跡』『インドシナの風』など。

「ドイモイ文学」の非政治性

 米国はもとより世界の主要諸国と東南アジア諸国がおおむね直接間接に参加したヴェトナム戦争〈第2次インドシナ戦争)は、冷戦を代償した史上最大の局地国際戦争だった。この戦争に巻き込まれた人々の姿は、すべて深刻な運命劇の色を帯びた。背中合わせの生と死、また出会いと別離。歴史もろとも凝縮された喜怒愛憎[ママ:注1]さまざまの情念。それらは無二の文学材料といってよく、現にこの戦争を背景とする作品は米越両国で数多く出版された。

 だが、1980年代までの作品は、おおむね左右のイデオロギーに色濃く染められていた。この戦争自体が、独立と統一を求めるヴェトナム人のナショナリズムに発しながらも、冷戦に組み込まれたがゆえに激烈なイデオロギー対決の場となり、それが戦後の統一ヴェトナムと諸外国の関係にも持ち越されたからである。

 そのことはヴェトナム人民軍の描き方に端的に示されていた。

 米国のメディアは、人民軍を情感のかけらもない戦闘ロボットのように描き出すのが常だった。一方、戦時に中ソ両国の援助で世界最強の米国と戦い、戦後にソ連圏の援助で国際的孤立下の貧困と第3次インドシナ戦争(ヴェトナム・カンボジア戦争、中越戦争、カンボジア武力紛争)に耐えざるをえなかったヴェトナムでは、社会主義リアリズムを唯一の評価基準とする検閲制度のもとで、人民軍は民族・人民解放の大義に身を挺した「英雄の軍隊」として描かれることになった。

 このタブーが解けたのは、市場経済化と対外開放を2本柱とし、共産党の独裁権を脅かさぬ限り公私のあらゆる活動を自由化しようとするドイモイ(維新)が本格化した1990年からである。その波はただちに文化の領域にも押し寄せた。東南アジア随一とされるこの国の詩文の伝統は一気に蘇った。進歩史観による善悪2元の図式を離れて、人間と社会と歴史をあるがままに、また自由な形式で描こうとする新しい文学作品群、いわゆるドイモイ文学が生まれた。

 その最大の果実は、1991年にヴェトナム作家協会貧を得て刊行された元人民軍兵士バオ・ニン氏の小説『戦争の悲しみ』だろう。同書は1993年から約10ヵ国で続々翻訳され、1994年に英インディペンデント紙の海外優秀小説賞を獲得、1996年にはデンマークでも受賞している。

 この小説は、米軍やサイゴン軍と戦って9死に1生を得た作者自身の体験をもとに、戦争で傷つき歪んだ若者たちの内面を1組の男女の愛と別れを縦軸にして赤裸々に描いたもので、そこには転換期の小説にありがちな過去告発の調子は全くない。全文を貫くものは、いかなるイデオロギーや政治的観点とも無関係な人間の根源的な悲しみ、必然と偶然の出会いが垣間見せる歴史と人間存在そのものの悲劇性である。こういう非政治性こそドイモイ文学の特徴なのだ。しかし、この純然たる文学作品は、日本では不運にも政治的に弄ばれることになった。

奇怪な「複数翻訳」の経緯

 私は朝日新聞ハノイ支局長を勤めていた1992年にバオ・ニン氏と親しくなり、『戦争の悲しみ』の概要と執筆の動機を聞いて深い共感を覚えた。私自身が1970年代初頭に戦場記者としてヴェトナムやカンボジアの戦場を駆け回り、数知れぬ「悲しみ」の場面を目にしていたからである。この小説に出てくる主な地名は、おおむね私が銃砲声の中で歩いた土地の名前だった。1995年、私はこの小説の和訳を思い立ち、その意向をバオ・ニン氏に手紙で信えた。彼は「あなたによる翻訳を希望するが、東京のめるくまーる社が日本語版の出版権を持っているので、同社と協議されたい」と答えてきた。

 ヴェトナムは国際著作権条約に加盟していないから、いかなる外国出版社が勝手に訳書を刊行しても法的問題は生じない。しかしバオ・ニン氏は、そういう事態を多少とも防ぐため、英ランダム杜を著作権代理人とし、同社から「私的版権」を取得した人物と出版杜にのみ翻訳出版を許すことにしている。めるくまーる社もそのようにして出版権を得ていた。

 めるくまーる社は1996年、私に翻訳を委嘱した。私は同年夏にバオ・ニン氏と翻訳方法について話し合い、(1)英訳本には重大な誤訳と文意歪曲かあるため、なるべく原著に即して翻訳する、(2)しかし原文のままではヴェトナムに関する知識の乏しい日本の読者に誤解を強いる(事実上の誤訳となる)恐れがあるので、部分的に加筆その他の補正をする必要がある、という2点で合意した。

 私の邦訳は1997年3月に完了、5月末に見本刷りが出た。その直後の6月13日、築地書館が大川均なる人物による同名の訳書をバオ・ニン氏の序文付きで出そうとし、すでに製版を終えていることがわかった。

 私の知るバオ・ニン氏は極めて誠実な人物で、2人の日本人による翻訳を同時に認めるようなことはありえない。これはヴェトナム文壇の伝統的モラルでもあって、そのようなことをすれば作家生命を失う恐れすらある。

 そこで私が直ちにバオ・ニン氏に事情を間い合わせたところ、「大川氏を井川氏とのみ思い込んで序文を書いた」という驚愕に満ちた返事に続いて、大川氏と築地書館社長のそれぞれに宛てた長文の手紙のコピーが届いた。それらは大川氏による翻訳を明確に拒み、大川訳の出版の即時中止を求めるものだった。これらの原作者の書簡や、私の友人たちの寄せた情報から、まもなく次のような奇怪きわまる事実が判明した。

一、大川氏は1996年の5月ごろ岩波書店に訳稿を持ち込み、原作者やヴェトナム国内版権所有者(作家協会出版局)に無断で訳書を出しても違法ではないとの理由で出版を促した。岩波書店は著名なヴェトナム研究者に問い合わせて、私が翻訳していることを知り、この申し入れを拒絶した。その後、大川氏は朝日新聞社など数社に同じ申し入れをして、すべて拒まれている。その間、同氏が原作者と接触し、翻訳について了解を得ようとした形跡は全くない。

二、1996年末から、ゴックと名乗る在日ヴェトナム人が「あなたの作品を翻訳している大川氏の助手」と称して、バオ・ニン氏と電話で連絡をとり始めた。それは大川氏による翻訳の許可を求めるものではなく、原作の用語などに関する質問の電話だった。そのためバオ・ニン氏はゴック氏を私の代理人と思い込んだ。ヴェトナム人には日本の人名は極めて覚えにくい。私のほかに『戦争の悲しみ』の和訳者はいないと信じていたバオ・ニン氏が、語感の酷似した大川氏を私と混同したのは当然といえよう。

三、大川氏は1997年 3月、朝日新聞出版局の元編集委員S氏とともに東京のM杜を訪れ、「井川訳がまもなく出るので、急いで私(大川氏)の訳書を出してほしい」と要請して拒絶された。

 同氏はその前後に、築地書館にも訳書の出版を要請した。同社はバオ・ニン氏から翻訳の許可を得ているとの同氏の言葉に不安を感じたためか、原作者の序文を求めた。そこで大川氏は、同年4月に訳文のコピーをバオ・ニン氏に送り、ゴック氏を通じて序文を要求、さらに「非合法に翻訳している別人がいる」と伝え(「別人」とは私にほかならない)、5月に序文と「あなただけが合法的な翻訳者だ」との書簡を入手(あえていえば詐取)した。

 大川氏は当時、めるくまーる社の委嘱で私が翻訳していることを知りながら、そのことを築地書館に一度も告げなかった。同社がそのことを知ったのは同年6月、めるくまーる社から同名の訳書が出るとの取次店の通報によってである。右の経緯は、大川氏がゴックなる在日ヴェトナム人とともに、バオ・ニン氏と築地書館の双方を欺いていたことを示唆している。その巧妙さは、ブロフェッショナルなものをすら感しさせる。

矛盾と虚偽に満ちた井川非難

 私は1997年6月下旬、築地書館の士井庄一郎会長と初めて会った。この面談は土井氏の求めによるもので、極めて温和な雰囲気のうちに終始した。私は私の知る事実だけを話り、大川訳の出版中止は求めながった。「当社があえて出版したら、あなたはどうしますか」という土井氏の質問にも、「私と原作者の名誉を守るために、2人でハノイの内外記者団と会見する程度のことはします」と答えるにとどめた。7月、同社は「原作者の要求その他の理由」で大川訳の出版を断念した。私は出版倫理に忠実なこの決断に敬意を惜しまない。

 だが大川氏は、まるで違う態度を見せた。私の訳書が6月末に刊行され、少なからぬメディアによって好意的に紹介されたのち、同氏は朝日新聞社など多くの新聞・出版杜と作家、評論家に次の3点を骨子とする文書を送った。

(1)原作の歴史的意義は「正義の軍隊」というヴェトナム人民軍の虚飾を剥いだ点にあるが、井川は人民軍を擁護するために原文を大幅に改竄した。

(2)大川氏は原作者と緊密に連絡をとり、原文に忠実に翻訳した。

(39井川とめるくまーる社は版権などの問題で築地書館に不当な圧力を加え、この訳文の出版を中止させた。

 右3点が事実に反することは、これまでの私の記述で明らかだろう(「原文改竄」についでは後段に詳述)。私は大川氏の非難を無視した。この種の非難に応答することは、私目身の人格を汚すに等しいと思ったからである。しかし同氏の非難活動は執拗を極めた。

 同年9月1日、大川氏は某紙ハノイ支局長C氏とそのヴェトナム人助手に同行を求めてハノイのバオ・ニン氏宅を訪れ、バオ・ニン氏と2時間ほど面談した。大川氏がヴェトナムを訪問したのばこれが初めてであリ、原作者と直接言葉を交わしたのもこれが初めてである。

 バオ・ニン氏とC氏によると、この面談は大川氏の日本語をC氏が英訳し、これをC氏の助手が越訳する形で行われた。大川氏は私の「改竄」を非難し、ランダム杜の版権は法的に無効だと主張、バオ・ニン氏の怒りを買った(別掲「公開書簡」参照)。C氏は大川氏の言動に極めて不自然なものを感じ、バオ・ニン氏の面前で「今後この問題には一切関与しない」と述ベたという。

 私は大川氏がこの面談をバオ・ニン氏の意志に反する形で利用するのではないかと危惧していた。果たして、同年11月発売の『正論』12月号には、「『戦争の悲しみ』の不運」と題して、私を人格的にも非難する同氏の文章が、同氏とバオ・ニン氏の虚構の信頼関係を誇示するかのような写真とともに掲載された。

 この非難文は、大川氏が先に諸方面に送った非難文を大きく引き伸ばしたもので、その内容は(1)事実経過、(2)私の「改竄」の2部分に分けられよう。

(1)は大川氏がバオ・ニン氏の了解を得て翻訳したにもかかわらず、井川とめるくま-る社が出版を妨害したというもので、これが事実に反することは既述の通りである。私は矛盾と虚偽に満ちた大川氏の記述にむしろ驚嘆した。例えば、同氏は1996年春に原著を入手して翻訳に取り掛かったそうだが、これでは同年5月に岩波書店に訳稿を持ち込んだことが説明できない。また同氏は築地書館の製版後に私の「英訳本からの重訳」が出ることを知ったというが、同氏が私の訳書が出ることを前年から知っていたことは明らかだし、拙訳書末尾の「解説」には、私がヴェトナム語の原著に即して翻訳したことが明記してある。

 問題は(2)である。これについては、やや詳しく反論しておきたい。

「改竄」か正当な意訳か

 大川氏は「女も殺せば、捕虜虐待も略奪もレイプもする、どこにでもある普通の軍隊としての北ベトナム軍(人民軍)を描いたことに原作の「歴史的意義」があるとし、私がそういう人民軍の素顔を隠すために原作および英訳本を大幅に歪曲したと主張する。だが原作には、賭博、麻薬吸引、買春、脱走その他、人民軍兵士の人間的弱点こそ露骨に描かれてばいるものの、同氏のいうような戦時国際法違反行為は全く描かれていない。

 同氏は私の「改竄」の証拠として、サイゴン陥落当日のタンソニュット空港の場面を拳げている。原作には「兵隊も将校も一緒になって……獲物を漁り始めていた」とあるにもかかわらず、私がそのように訳さず、「局辺の貧しい住民」による物品略奪の情景を付け加えたというのだ。しかし、この部分の原文は次の通りである。

「人民軍の将兵はあちらこちらへ行き来していた。物品を運ぶ者もいれば備品を打ち壊す者もいた。とにかく朝の市場のような騒々しさだった」

 このように原文には「獲物を漁り始めていた」などという記述はない(英訳本にはある)。だが、この原文のままでは、日本の読者には何のことかわかるまい。だがら私は、原作者の同意を得て、サイゴン陥落当日の私自身の見聞(住民による物品略奪や人民軍による防止策)を付け加えた。人民軍将兵による私的な物品略奪事件が皆無に近かったことは、原作者も別の場面で強調している(拙訳書 106-107頁)。

 大川氏は、もう一つ、タインホア市郊外の廃校の場面を挙げでいる。主人公キエンと恋人フォンが米軍の爆撃を逃れ、この廃校に辿り着く。校内は荒れ果てている。人民軍がここを臨時駐屯所にしたからだ。これは「北ベトナム軍の士気の低さを示すエピソード」だと大川氏は書き、その将兵を「どこかの男たち」に書き換えた私を改竄者として非難するのだが、これは全く見当違いである。

 理由をいおう。

 第1に、当時の北ヴェトナムは貧しく、しかも米軍の猛爆撃にさらされていた。そこから南の戦場へ赴く人民軍将兵が、廃校の木製備品や藁葺き屋根を暖房・炊事用に燃やしたからといって、なぜ士気が低いことになるのか、ヴェトナム人には絶対に理解できまい。そんなことは当時の南北ヴェトナムではごく当たり前のこととされていて、軍隊の士気とは全く無関係だった。人民軍が大川氏のいうような士気の低い軍隊だったなら、そもそも米軍と対決することができなかったに違いない。

第2に、軍隊が校舎を荒らしたことを暗示するのは、「たぶん軍隊が立ち寄ったんでしょうよ。兵隊だからね、戦争だからね!」というフォンの言葉だが、戦争をほとんど知らぬ日本の読者は、この言葉で校舎の荒廃を何か特別な事態のように誤解する恐れがある。だから私は、ここを「どこがの男たちのしわざだわ」と書き換え、校舎が軍隊の駐屯ゆえに荒れ果てたことが前後の文章で十分わかるようにした。こういう広義の意訳を非難する大川氏の姿勢には、極めて非文学的なものが感じられる。

 ついでにいえば、大川訳はこの部分でも原文とかなり連う。前記のァォンの言葉には、「兵隊なんて、戦争なんて!」という大川訳のような否定的な響きはない。これは戦時だから仕方がないという意味の、むしろ肯定的な言葉である。

 同氏はこの場面のキイワードともいうべきcuoc song[注2]について「cuoc spongも、英訳のlifeも、『生活』である」とし、これを「命」と訳した私を「英語の能力があやしいだけでなく……訳者失格」と罵倒しているが、この非難はそのまま同氏に返上しよう。「生活」はsinh hoatで、cuoc songは生存、存在、実存を意味する。ここは「命」が正しい。

翻訳における「加工」の問題

 さて、誌面は残り少ない。大川氏による事実の歪曲や隠蔽はほかにも数多いが、この辺で結論に移ろう。

一、『戦争の悲しみ』は、冒頭に述べたように、いかなる政治的意図とも無縁の文学作品である。そうでなければ、共産党の指導下にあるヴェトナム作家協会から賞を受けるはずはないし、国際的に高く評価されようはずもない。人民軍の素顔を暴いた点にこの小説の「歴史的意義」、「精神」、「名誉」があるとし、原作者の意志を無視して独自の訳書を出版しようとする大川氏の態度は、文学に関する無知によるものでないとすれば、何らかの政治的・イデオロギー的意図によるものとしか考えられない。

二、人民軍が戦時国際法にほとんど違反しなかったことは、欧米の真摯なヴェトナム研究者も認める客観的事実だ。その背景には、同軍が世界最強の米軍と自国領内で戦わなければならなかったという特殊事情や、個々の将兵の不名誉が同族や同郷者の不名誉に直結するという、過去の日本に似たヴェトナムの風土がある(日露戟争や沖縄戦における旧日本軍を想起してほしい)。これを「普通の軍隊」とみなす大川氏の記述は、「戦争当事者の名前が特定できながった」などという記述同様、ヴェトナム社会とヴェトナム戦争に関する同氏の無知ないし曲解を示すものでしかない。

三、私は1997年11月中旬、『週刊文春』編集部員2人のインタヴューを受けた。彼らは大川氏から預かった「原本」を私に見せたが、その装丁と頁数は本物の原本はもとより米国のヴェトナム系出版社が出した越語版とも全く違っていて、奥付だけが初版本と同じだった。ワープロで印字したもののコピーを綴じ合わせたものであることは一目で見て取れた。2人から預かった14頁分のコピーを初版本と照合してみたところ、文章表現や綴字も随所で初版本と違っていた。

 やがて同誌には私の「原作改竄」を事実上非難する記事が掲載されたが、その内容は大川氏の非難文と同工異曲なので、詳しく反論するには及ぶまい。私は前記コピーをバオ・ニン氏に送った。同氏は直ちに「原本とは違う」と回答してきた。私は大川氏の「原本」が偽造本であることを確信している。

四、外国文学作品の内容、情調、香気、などを、異質な歴史と風土に生きてきた日本の同胞に翻訳を通じて伝えるには、原作国に関する平均的読者の知識不足を補い、原作の持つ論理やムードを日本の既成パターンに嵌入して、いわば消化しやすくするための加工(補筆、省筆、語彙変更、文節置換など)が多少とも必要となる。この加工の良否は、訳文の価値を大きく左右する。

 なじみの深い欧米の文学ならともかく、自然、歴史、文化、社会構造、生活様式、慣習、人情など一切が余り知られていないヴェトナムの文学を翻訳する場合、かなり大幅な加工は不可避の作業である。『戦争の悲しみ』原文には、平均的日本人に意味の通じない部分が極めて多い。だから私は、同書の翻訳に際して、原作の精神と情緒を損わないよう慎重の上にも慎重を期しながらも、バオ・ニン氏の同意を得て、そのような加工をためらわなかった。これは同氏によれば「越魂外文」であって、断じて「改竄」ではない。

 だが、こういう手法がどこまで許されるかは、外国文学翻訳という仕事の本質にかかわる重大問題だろう。私の手法を批判する声は当然ありうる。純粋に非政治的な批判ならば、私はこの道の初心者として謙虚に耳を傾けたい。

 以上が私の反論だ。大川氏への怒りゆえの反論ではない。私は日本でかくも政治的に弄ばれた『戦争の悲しみ』の悲しみを思って、ただ事実だけを綴った。

 なお『正論』今年1月号の投書欄には、私がかつて「ハノイのスピーカー役」を演じたどか、テレヴィで「ボートピープルを追い返せ」と発言したとかいう会社員N氏の1文が掲載されたが、そのような事実は全くない。ヴェトナム難民に関していえば、私はこの問題の政治的利用に反対しながらも、彼らを保護すべきだと一貫して主張してきた。私は難民を助ける会の理事である。

大川均氏への公開書簡

『正論』に掲載された大川氏の文章と写真は私を激怒させた。ヴェトナム人は一般に合意が得られなくても誠実に応対する。しかし大川氏は、拙宅での私との面談と、私と並んで撮った写真を、私自身の知らぬ私の政治的意図の証拠として利用した。これは倫理に反する。この際、事実をまとめて略述しよう。

一、私は井川一久氏と1991-1992年にハノイで会った。その後、彼は『戦争の悲しみ』を和訳したいと申し出た。私は次の理由で了承した。

(1)井川氏は長期のヴェトナム体験を持ち、対米戦争以前から戦後に至る南北の事情を熟知している。また風俗、習慣、地理、宗教、哲学などにも詳しい。

(2)何回かの話し合いで、私は井川氏がヴェトナム文学を深く理解していることを感じ取った。私と彼は、文学について多くの点で感覚を共にしていた。

 だが『戦争の悲しみ』には、原文をそのまま外国語に移し換えると理解しにくくなる部分が多い。で、井川氏は1996年に再会したとき、原作のいくつかの部分について日本語の幅広い使用を認めてほしいと私に要請した。私はこれに全面的に同意した。

二、1996年、日本唯一の版権所有者であるめるくまーる社の代理人がハノイに来て、井川氏による翻訳を確認した。井川氏はこの小説を英語版から翻訳するとのことだった。だが井川氏は、日本語に通じたヴェトナム人の協力で、できるだけ原作に即して訳したいと語っていた。

三、1996年末から1997年春にかけて、日本から何度か電話があった。ゴックと名乗るヴェトナム人が「あなたの小説を訳している大川均氏」の代理人と称して、私の小説に出てくる地名や軍事用語について質問したのだ。私はこの「翻訳者」を元朝日新聞支局長と思い込んだ。その結果、私は大きなミスを犯した。ゴック氏が大川氏はヴェトナム語の原本から翻訳すると語ったとき、事情を確かめないで同意した。その後、私はこの方法に同意するとの手紙まで書いた。

 しかし大川氏とゴック氏の側にも重大な問題があった。彼らは私とゴック氏の電話でのやりとりを通じて、私が井川氏と大川氏を混同していることを十分知ったはずだが、そのことを私に全く告げなかった。私が自分の錯覚に気づいたのば、ある出版社が別人の訳書を出そうとしているとの井川氏の手紙を受け取った1997年6月だ。それまで大川氏が私に翻訳の許可を求めたことは1度もなく、私と直接言葉を交わしたことすらない。

四、大川氏は1997年9月の初めにハノイに来て、私の自宅を訪問したいとの希望を伝えてきた。15分だけでも会って面識を得たい、と。私は承諾した。私と大川氏の対話は概要次の通りである。

(1)大川氏は「井川氏が翻訳していることは知っていたが、私にも翻訳権がある。日本の法律はそれを許している。私は私の訳書を出版してくれる会社を必ずみつける」と語った。

(2)私は「井川訳以外の訳書の出版には同意しない。それは道義的にも法的にも許されぬ常識外の行為だ」と述べた。しかし大川氏は、2種類の訳書の同時出版はごく普通のことだと主張した。

(3)大川氏は井川訳を非難し、2ヵ所について大川訳と比較するよう要求した。私はこれに同意しながらも、「原文の言葉をいちいち外国語に移すのが翻訳だとは思わない。すぐれた翻訳は『越魂外文』だ」と明確に述べた。

 大川氏は辞去に際して、私と一緒に写真を撮ることを要求した。私は拒まなかった。大川氏が私に無断で雑誌に載せるようなことはしないと考えて、彼の意図に少しも気づかなかったのである。

五、その後、私は日本語のできる友人たちに井川氏と大川氏の訳文を比較してもらった。彼らは井川訳の方を高く評価した。私は井川氏に感謝している。

 私は原作者としての自明の権利にもとづいて、大川氏と日本の出版社に、大川訳の『戦争の悲しみ』を出版しないよう再度要求する。私はいかなる外国のいかなる人物やメディアだろうと、この小説を非文学的な目的に利用することを容認したくない。

1998年1月24四日 バオ・ニン

(ヴィエット・ホア訳)

******************************

注1.普通の熟語表現では「喜怒哀楽」。

注2.ヴェトナム文字の髭を無視。以下も同じ。

 以上で(その18.1999.4.30)終り。次号に続く。

以下は合併号なし。

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