木村愛二の生活と意見 2000年7月 から分離

『噂の真相』投稿「田原総一朗の本質」を見て遂に匙を投げた私の実体験公表

2000.7.5(水)(2019.6.7分離)

 昨日、2000.7.4.奇しくもアメリカ独立宣言記念日、それとは何の関係もないが、『噂の真相』(2000.7)の最後の頁を開いた。その目的は、郵便の宛名を間違えないために、その頁に書いてある住所と氏名を確認するためだった。郵便の中身は、わがiMac内臓iMovieで編集してからVHSコピーを作った約16分のヴィデオである。その直前に起きていた『噂の真相』襲撃事件に関する主要な発言のみを、さる6.15.ロフトプラスワン、1960年安保40周年記念の激論「『右』も『左』もかかって来い」の内から拾い集めたのである。

 同主旨の記事が、今月10日発売の『創』(2000.8)にも載るはずである。同日の出演者でもあった篠田博之編集長から、翌日の16日、企画主宰者の地位にある私に電話が掛かり、ロフトプラスワンによる記録用の同時録画の使用許可を求められたからである。同店では、自由な激論を保障するために、そういう内規を定めており、再録の発言者の方にも『創』が許可を求めているはずである。

 ではなぜ、『噂の真相』襲撃事件に関する主要な発言を拾い集めて、『噂の真相』に送るのかと言うと、これにも当面、差し迫った理由がある。同誌の創刊以来から旧知の仲の岡留安則編集長が、きたる7.12.同じロフトプラスワンで「『噂の真相』プレゼンツ(内容未定)」に「出演」予定であり、当然、上記の襲撃事件が話題になるに違いないからである。その際、6.15.の発言を正確に知っておいて欲しいからである。6.15.では、事件を警察に届けた処置について、突破者こと宮崎学が、「腐敗警察」依存の批判を投げ掛けていた。私は、簡略に言うと、「普通の警察官や自衛官とも仲良くできない者が、世の中を変えられるか。『粉砕!』などと敵視すれば、お互いの憎しみが増すだけ。腐敗の基本はキャリアの中央集権体制だ」との疑問を呈していた。

 この部分の議論も、実は、1960年安保とは直接の関係がない。他の部分とも合わせて、大変な話の散らかり様だった。疲れた。それはともかく、私は、やはり、7.12.にも、ロフトプラスワンに行って、生ビールを何杯か飲むことになるであろう。

 さて、前置きが長くなったが、上記の理由で、『噂の真相』(2000.7)の最後の頁を開いたついでに、隣接の「読者の場」をめくったら、「田原総一朗の本質」「田原総一朗の太鼓持ち」と並んでいた。あああ、と思って、少し読むと、「1977年『月刊プレイボ-イ』7月号における田原の大規模な盗作事件「……田原も盗作を認め陳謝した」などとある。出典は『各界人物論1985』(自由国民社)と明記されている。その他のスキャンダルについても、その一部は読んだことがある。相当に酷い状況らしい。

 しかし、この「1977年」の事件については初耳だったので、これまた、やんぬるかなの想いである。というのは、私が争議中の事情もあって征矢野仁の筆名で出した『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』(汐文社)の発行は、この2年後の1979年なのである。田原は、その直後、『週刊文春』で、その名前も思い出せない俗説的なメディア史の連載を始めた。かなり拙著を利用されたなと思ったし、特に、引用された英文の訳が絶対に私の訳以外のものではあり得なかった。内容は、読売グループの独裁者だった正力松太郎が「CIAの恩恵を受けた」か否かに関する『ニューヨーク・タイムズ』の自社報道の「訂正」と一応は題するが、実は、ノラリクラリの逃げ口上の記事である。主要部分のみを示すと、つぎのようである。

「……その後の調査の結果……先の記事がつくり出した印象を正当化するような、充分で精密な細部までを示すことができない、と結論するにいたった」

 この堅苦しい拙訳は、ことの性質上、逐語訳でありながらも正確に訳すべきと心得えて、かなり苦労したものであるが、田原記事、または『週刊文春』記事は、これを丸々写していた。私は、当時、環境問題を扱った『複合汚染』とか題する著名な女流作家の新聞小説が、盗作で訴えられ、作家の方が「単行本にする際に文献を明示する」と応じていたこともあり、いずれ単行本になればと期待したのだが、そこでも何の挨拶もなかった。

 実は、上記の拙著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』については、すでにゲラの段階で、その後、文藝春秋の常務になった学生演劇の仲間、当時は『週刊文春』編集長の堤堯に売り込み、ライターの取材まで受けながらも、記事にはなり損ねていたのである。なぜ売り込んだかと言うと、もともと、この本は、当時の争議の武器として執筆したものだったからである。その時のライター、元東京新聞記者の上之郷利昭は、その後、一連の読売関連の記事や単行本で拙著を巧みに利用しながら、文献に明示しなかったが、やはり、堕落の馬脚を露わしている。田原も、このルートで、私の文章を入手したのであろう。

 私は、争議の終盤で、メディア関係者の支持署名を集めたが、その際、田原には、上記の「利用」のお礼を述べた。しかし、署名は返ってこなかった。ところが、争議解決後にある友人が田原と会い、「木村愛二さんはお元気ですか」と聞かれたというのである。やはり、気には懸かっていたようだ。とういうのは、私は、田原とは、直接口をきいたことはないものの、旧知の関係だったからだ。田原は私よりも年上だが、東京新聞から現在の東京テレビ、当時の非営利教育テレビの12チャンネルに移り、その胴元の科学技術振興財団が経営不振でリストラを強行した際に、フリーに転向した。そのリストラ計画反対の大騒ぎの最中に、田原は、12チャンネル労組の執行委員だった。私は、日本テレビに入社早々、若輩ながら民放労連の関東甲信越地方連合会の共闘担当執行委員として、「12チャンネル」の担当をし、12チャンネル労組の執行委員会にも常時出席していたのだった。

 簡単に言えば、田原は、12チャンネル労組の執行委員を経験しながら、争議からは逃げたのである。私は、その後、日本テレビで争議の解雇当事者となった。逃げ切れずに16年半も闘い、和解に漕ぎ着けた。その当時の私の必死の「闘争の武器」から田原は盗作した。私は、それをあえて咎めず、改悛を待ったのだが、上記の投稿を読み、さらにその元になった「田原総一朗に『そこが聞きたい!!』編集長直撃インタビュー」(『噂の真相』2000.5)までパラパラ読み、これは最早、率直な事実公表に踏み切る以外にないと結論するに至った。

 あああ、メディアは、いや、人類社会は、いや、生きとし生けるものは、常に、他をダシ抜く勝負の法則に貫かれているのである。気の毒なことだ。馬鹿正直と言えば少しズルイが、物好きの愚直に徹した私の方が、結局は一番の幸せ者、堂々と胸を張って長生きできるのである。