第3章 人と機構
2 専門職群の位置づけ
B 創造性と人間性の回復
専門技能集団が企画の段階から番組制作に参加したいという強い欲求を持っていることは前節で述べたが、今度は、そのための環境の在り方について、各集団からのレポートを見てみよう。
(1)まず、専門職群としての地位の確立を要望するものがいくつかあ
げられる。
―― 効果がドラマの三大要素の一つとして存在していることを考慮に入れるならば、番組の音響構成、音の選択、作成、収録、編集、送出等の業務は深い経験と知識と理論を必要とする。(教1)――
―― 少しでも現場を知っているものなら、効果業務が専門的な技能を要することは誰でも認めることなのである。経営意図としてのPD化がはっきり挫折してしまった以上は、協会の責任において効果マンを専門職として認めるべきである。(芸1)――
―― デザイナーの業務は番組制作の純粋な創造活動の一翼を担っているのだから、現在のように、全く便宜的に総務部に属しているのはおかしい。デザイン室というような独立したセクションが与えられるべきだ。(教7)――
―― デザイナーには、アートディレクターとしての仕事と権限を認めるべきであろう。(芸1)――
ちなみに現在、デザイナーがどのように各職場に配置されているかを示
すと次のようになっている。
芸能局第一制作部デザイン版……23名
教育局総務部……14名
報道局 〃 …… 2名
総局編成、番組広報…… 1名
そして放送業務局総務部が金目のデザイナーの管理業務を管理していることとなっていて、まさにデザイナーは四分五裂の体制である。
このような専門職としての地位確立といった意見が出てくるのは、本来専門職群として扱われなければならないものが協会の経営意図――合理化の表れ――として一般PDと同列に扱われていながら、実質的な業務内容としては専門職群としてのそれであるという矛盾が大きな原因になっている。それは経営意図がどうあれ、現実の業務はそうはいかないという専門性の強さを物語るものにほかならない。そしてまたこれまでの協会に最も欠けていたものが、こうした専門家に対する認識であった。専門職という言葉が単なる技能者としてのみとらえられ、いつ如何なる条件の下でもその技能を提供しうるものと考えていたことは、番組制作業務における創造性と人間性を無視したものであり、それが専門職の地位を従属的なものに位置づけてきた根本的原因になっているといえるであろう。
(2)番組参加への疎外感からの脱却のために、一方では、自らの職能を更に展開開発させていこうとする考え方もある。アナウンサーの場合は「我々自身が企画、制作の段階から番組制作にタッチし、スタッフの1人として討議に参加し、自らの言葉を生み出せるようなシステムを作り上げなければならない」とし、そのためには個人が「制作スタッフの一員となり、単一機能集団としてのアナウンス室から離れるか、或いはアナウンス室そのものを番組制作群と一体化し、放送機能の中に明確に位置づけるか」、二つに一つだと考えるのである。また、報道第5分会のニュースカメラマンは、「メディアがテレビである以上、どうしても素材を視覚化しなければ」ならず、「そこに単なる撮り屋」ではない「記者的な要素がクローズアップされる。現在は残っているニュースカメラマンと記者という差別もやがて消滅すべき」であり、「カメラをペンと同じように駆使する日がそう遠くはないと思っている」のである。しかし現実の人事管理は、それを行うには程遠い。放送第4分会のカメラマンの職場では、1人のデスクが61名の課員を把握して日々業務を遂行しているが、「そこでは担当部発行の伝票に記載された簡単な事項のみが各人に伝達されるだけで、本来的意味でのデスクワークは存在しない。現行のデスクはまさに線表をうめるパズル解答者なのである。」
「アナウンス室も然り、100人のアナウンサーが6人のデスクによって管理されてはいるが、個人個人はどのデスクに属するわけでもないから、結局1人のデスクが100人を管理するのと同じで」焦点が絞られず、管理したくても管理しにくいことになる。報道第5分会では、報道番組の量の増加が人員増をはるかに上まわり、それまであった番組専門のカメラマンをプールする体制が崩れ、ニュースカメラマンと一体になったローテーションの中で消化されるため、ニュース取材の人員が不足して、休みのカメラマンを呼び出すといった事態をまねいている。こうした人事管理の不在と、人員の不足からは、それぞれの職能の新しい発展は望むべくもない。このことは、協会がこれらの職群に対する確かな認識を欠いていることの現れだといってよいだろう。つまり専門職群の新しい発展をはばむものも、専門職群の地位を従属的なものに位置づけてきたのと同じく、協会がそうした人々の持つ創造性と人間性を無視して単なる技能集団としてしか認識しないところにある。
報道第5分会や業務第3分会からのレポートが述べている現在の職能の発展への指向は、協会が一時期に主張した放送人構想と相似た感じを抱かせる。しかし両者の根本的な違いは、協会が合理化の一環として制作担当者さえも技能集団の一員と見、広く全般にわたる技能を身につけた人間から技能のみを吸い上げようとしているのに対し」、我々の主張は創造性と人間性の回復という立場から行われているものであって、表面的な相似点でだけとらえられてはならないということである。
(3)ここで、協会が言う放送人構想について、国際局の例をひきながら、その矛盾点を明らかにしておこう。
放送労働者として、専門分野でスペシャリストになることが当然要求される一方、前田会長が年来提唱しているオールラウンドな放送人構想からは様々な矛盾が生じ現場の混乱をまねいている。
例えば国際局は日常業務のため言語、地域などの専門家を多数かかえているが、これら大多数の人々が現在のNHKの機構の不備を指摘し、能力に対する評価の低さ、或いは評価の無さに怒りをこめて発言している。そのいくつかをみてみよう。
―― 互換性のある放送人などというのは机上の空論にすぎない。多少とも適応性のある人間に労働強化を強い、順応性のない人間の労働意欲を殺ぐだけのものにすぎない。放送局は商事会社やお役所ではない。一般的な放送人とは一体どんな人ですか? きっと放送なんか何もしない人でしょう。――
―― 語学その他のスペシャリティーについて、国際放送に従事する組合員は、それだけで“並”以上のものと考える。特に、語学の習得には並々ならぬ努力と年月を要するものであり、協会の期待する“互換性”ある放送人をもってしても一朝一夕になし得られるものではない。国際局の組合員は、互換性ある放送人としての能力にプラスして特殊な技術を持っていることは誰の目にも明らかであろう。とすれば、現在の我々に対する協会の態度というのは不当という他ない。――
―― これまでの概念によるスペシャリストの待遇はよくない。これは、職制と月給が結びついている現在の機構に根本的な欠陥がある。部長の3倍の月給をとるスペシャリスト平社員がいてもおかしくはないであろう。――
―― 般的な放送人とは何かさっぱりわからない。自分の仕事にスペシャルになるのは当然のことである。ただその自分の技術の位置を自覚するのが放送人というべきであり、自分の仕事が歴史的にどんな位置と役割を果たしているかを自覚するのが義務だと思う。(以上国際2)――
つまり、他から教えられて放送人になるのではない。「自分で文化創造者としての放送人を自覚する」しかない。ここのところを根本的に見誤って外から単におしつけたり、16㎜カメラをもたせれば放送人が出来上がると考えているのが、現在のNHKの描いている放送人構想であり、「期待される人間像」と方法論的に同じ誤りをおかしている。
このような単なるお題目でないビジョン放送人を育てるよき環境があってこそ、真の放送人が生れるというべきである。
(4)さらにまた、放送人を育てる環境という面での協会の方針に対してその各分会から声が上っている。
例えば、報道第4分会は
―― どの外国語についても、職員の平均年齢が高いが、新人の補給はここ数年まったく停止している。外国放送の受信は、深夜勤なしには考えられず、これが各人の健康に著しい影響を与えている。外国放送受信はますます今後その重要性を増すことはあきらなかのだから、なんとかして、新人養成の道を講じなければならない。――
と述べ、特殊外国語要員についても
―― 現在外放部は英語、ロシア語、中国語、ドイツ語、朝鮮語、アラビア語のスタッフを揃えているが、世界のニュースの焦点であると共に、アジアの平和に大きな影響のある、東南アジア方面の諸国語、ベトナム語、タイ語、インドネシア語、ビルマ語などの要員はおらず、必要に応じて、国際局に依頼して専門家の世話をしてもらっているが、ニュースの常時取材には、これら諸国語の要員を確保しなければならない。(報4)――
国際局も、同様な問題を抱えている。ここでは、ビルマ語、スワヒリ語、スウェーデン語、タイ語など、様々なセクションで、要員の育成に対する協会の理解の欠如、見識のなさについての声があがっている。
―― 1人しかその外国語を理解する職員がいなくて、しかも、放送は毎日行われる。1週間に1日の公休日の放送内容のチェックとは責任はどうするのか。(国2)――
という声や、
―― 誰も休暇をとらず、誰も病欠をしないという条件でぎりぎり一杯に組んである線表勤務。(国3)――
に対する不平不満がたえない。
むろん、特殊語の専門家の職員がいないことや、無理な線表勤務からくる事故などについての責任は全て、協会にあるとはいうものの、こうした、ぎりぎりの限界で働かされては勤労意欲をそがれるばかりで、「国民のための放送」という立場からはほど遠いというほかない。