禁断の極秘文書・日本放送労働組合 放送系列
『原点からの告発 ~番組制作白書'66~』14

メルマガ Vol.14 (2008.03.07)

第2章 制作条件をめぐって

3 合理化要請と管理体制

B ともかく形だけは……

 ところで予算管理についてはこんな報告もある。

―― あるいは自動車代を節減(名目上)するために、深夜帰宅をさせず局舎に泊まらせている事実、こうした本質を見誤った管理の問題。(報10)――

「責任回避」の裏返しは「形だけ整えれば……」という考え方である。前者を管理責任の不在とすれば、これは管理の形骸化、歪小化であろう。制作条件の管理を、豊かで自由な創造性の発揮を可能とする抜本的な条件整備と考えずに、単なる管理技術上の数字合わせと考える。このような低次元化された管理の現れにパターン制度がある。

―― 「きょうの料理」は教養部唯一の定時カラー番組であるが、スタジオ使用時間が4時間しかないため、カラーカメラのトーン合わせの時間が不十分なまま本番に入らざるを得ない。これについては、編成の側でもミスであると認めはしたが、しかし未だにパターンはそのままである。

 番組のよしあしよりもパターンが優先するという全くの倒錯した態度である。(教5)――

―― 「生活の知恵」では、VTRの部分撮りをすることがしばしばある。これはパターン変更であるため必要な演出者がどうしても本番時間に来られないとか、どうしても必要なシークエンスが本番時間以外でないと収録できない、などの「どうしても必要な」理由を執拗に説明し無理押しをしなければ部分撮りは不可能となるのである。本来、企画構成そのものに注がるべき情熱を、こうしたムダな部分折衝に費やされてしまう。(教5)――

―― 制限されすぎた時間と経費の枠の中では、芸術的良心を満足させるよりはむしろ最小の時間内で最大の効果を求めようとする経営的能力を発揮する方が重要視される。質のすぐれたドラマを作り出すことと、制作パターンとは永遠に反比例するものであり、芸術的良心の立場に立てば、制作パターンはより融通性のある自由な形のものでなければならないと考える。固定した制作パターンが、NHKドラマの質的低下を来たしたことは疑いのない事実である。

 企画者の立場から言えば、企画があってのパターンであり、パターンに合わせる企画では新鮮な企画は生れない。(芸3)――

 この種のレポートをいちいち引用していたら際限がない。

 この際、特に問題にせねばならぬのは制作の良心や職場のモラルに関わる部分である。

―― ある日の教養特集。日比谷スタジオで照明氏から、照明のあたっているところへセットを組んで欲しいという要求があった。本末転倒の見本ともいえる例であるが、しかし日比谷スタジオではスタジオの大きさで照明の定数も決まっている上、講座ものが多いので意欲を失っているのであろう。このような人員配置は不思議というほかない。(教3)――

―― (a) スタジオの使用時間が少ない。VTRの使用時間が極端に少ない。(20分の番組では25分間)これは結局生放送と同じことになる。撮り直しがきかない。制作者としてはもう一度撮り直したいと思っても、それができない。不満足なままに収録を終る。時間が短いことはリハーサルも不十分なままで本番になる。またLS(照明仕込み)も十分でない。さらに、技術要員に至っては食事時間が30分間という制作パターンで働かされている。これでは十分な条件で番組収録に従事できるとはいえない。なお、制作パターンによっては、前夜深夜まで業務に従事し、翌日早朝から次の業務を割り当てられている技術要員もいる。

 (b) 技術要員が少ない。パターンを変更するためには非常な抵抗がある。

 英語番組でいえば、一般的に「講座もの」ということになり、セットを組んで寸劇を演ずる場合、照明要員や音声要員が十分でないことが多い。音楽番組でいえばバレエの収録で、クレーンを使用することがあるが、制作パターンにクレーンが含まれていないので、そのためにパターン変更を依頼する。これらの場合1~2名の増員要求でも、非常な困難がある。制作パターンはフレキシブルに運営されるといいながらも、現実には固定的なものとして運営されている。

 技術要員が不足したままで強行すれば技術要員の番組に対する意欲も減退し、手を入れるべき照明も、フラットのまま行って質的にも低下を来たすこととなる。制作パターンについては演出側からも技術側からも不満は多い。(教1)――

 技術スタッフの意欲が足りないことを、我々は責めるわけにはいかない。「この番組は打合わせはPDだけでいい。アシスタントのカメラマンは、その間他のスタジオについてくれ」というような現状でどうしてその番組への参加感が湧こうか。打合わせの段階から積極的に参画し、一人前に扱われることを望まないスタッフがあろうか。それができないのが現在の機構なり制度なりなのである。制作パターンという考え方、またその運用に番組制作における自由な創造性の発揮という側面が配慮がされないことであり、本来使われるためにのみある機械や制度が全てに先行するという逆立ち現象となっていることである。

―― とにかく評価というものが欲しい。どの程度、音というものを大事に考えているのか。みんなが器用だからこれだけの時間でやってくれるだろうということになってしまったのか。

 理想を100とすれば80までにするのに5時間あればできる。(それは簡単だと思う)。またそれを90にするときは10時間必要とする。しかし95にするためには20時間必要だということと思う。だから80まででいいんだということならばパターン内でできてしまう。しかし後の10~20の上積みが本当は必要であり勝負だと思う。だが今の協会ではその10~20はいいんだという考えが強いと思う。

 昔より技術レベルが上ってきた現在、だれでも一定の水準までは達せられる。それ以上に我々の研究なりなんなりだと思う。しかしその時間が与えられていないわけだ。平均までは出せるが、それ以上は時間がきているからやめだ…… これでは向上がなく水平線になってしまう。(芸1)――

―― 文化というものの創造は効率のきわめて悪いものなのである。それゆえ文化は余剰力のある土壌にしか育ち得ない。ここで放送文化のためにといっても投入すべき経費は有限にしかない。

 そこで有効にという考えの中に効率の考えが頭をもたげてくる。ここに70点文化主義の出現する危険性をはらんでいる。これは文化そのものを殺す考え方である。番組技術システム自体はこのような内容的な質の問題には直接関係しないが、その導入の根底にあるcost-effectivenessの思想が脈々と経営方針の中に流れている。Costの方はEDPSによって把握できるがeffectivenessの方は商業放送でないNHKの場合単純にはいかない。この思想がムード的に存在するだけに、目先の経済性にのみ気をうばわれてeffectivenessの考え方が曖昧になされている。ここで実に非能率な文化のためにどれだけエネルギーを投入する気なのかその姿勢を明らかにすべきであろう。(教3)――

 このような経済効率の優先する70点文化主義ともいうべき経営要請の窓口と製作現場へのサービスとの板ばさみ的立場にある編成組合員はこういっている。

 「そもそも技術要員の絶対的不足のうえに打ち立てられたパターンであり、運用の妙ともいうべきものを発揮する余地がなくなり、確かに運用はしにくくなっている。

 それにしても、最近はPDから意欲的な要求がさっぱり来なくなった。その番組にとってそれが必要欠くべからざるものであるはずの最低意志すら言ってこないのはどういうことか。それがなくては我々としても押しようがないではないか。」(総2)

―― 結局、「本当はこうすれば、番組はよくなるんだが」と思いながらも、パターンの壁にはねかえされ、変更なしですます傾向が強くなる。元来、よりよき文化創造の担い手であるべきNHKが、こうして安易な妥協に流れがちとなるのは、日本人全体にとって不幸なことであると同時に、PDにとっても意欲をそがれ、無力感を増大させ、創造への希望の芽を全くむしりとられる結果となり、精神衛生上も甚だよろしくない。

 パターンというのはこれは越えてはいけない限界という意味なのかそれとも一つの基準なのかということなのだが、例えば総局総務なんかは、「いやそれは番組制作基準でありまして」なんて言うんです。「けっして制約でもなんでもありませんなんて……」。しかし現場の方にはすごい制約となってくる。基準だからそれより早かったり遅かったりすることがあるのでそれを平均してパターン内でやるならよいのだが、実際はぎりぎりかオーバーだということは基準が低すぎるということではないか。「言い訳にしても基準だという、そして我々もそれを意識してやっていればよいが、それが我々にとっては制約だということは中間で強化されてくるということなのか、それとも我々がこの意味をとりちがえて解釈しているのか」。(芸1)――

 かりに「一定の限度内で全体をまかなうのだからある種の枠が生ずるのはやむを得ない。」という考えを受け入れるとしよう。しかしその場合でもそれが全体的に制作の内容を高めるためにのみ許されるべきものであり、それが本来それのみが究極の目的であるべき番組制作の生命そのものを歪めることは認め難いのである。

 NHK業務の基幹は放送という文化の創造であり放送を放送として成立たしめる要件は自由で豊かな創造性であることを見失っている経営理念の在り方こそ、このような「制度の物神化」現象の根元である。それを受けとめる責任不在、責任の形式化の体制こそ、その増幅装置であろう。 我々はパターン全てを無検討に悪とし、パターン化施行前を理想郷であったかのごとくする復古的感情にひたってはなるまい。

 しかし、それが要員その他の絶対的不足のうえに打ち立てられたまま、人員なり機材なりの抜本的拡充の努力がなおざりにされつづけていること、そして経済効率のみを目標とする経営理念とそれを受けとめる責任不在、現状肯定の管理条件を媒介に物神化の猛威をふるう現状を肯定することはできない。

 我々はあらゆる機会をとらえて人員の補充を叫びつづけねばならぬ。

 そしてNHKのおかれている内外の情勢から判断して、設備、機材のこれ以上大幅の充実、増大が困難であり、また得策でもないと思われる現在、現場無視の拡大主義と鋭く対決せざるを得ない。十分な見通しと手当を伴わない番組時間増をきびしく監視せねばならぬ。

 さらに今では各職場から「天の声」として上ってきている放送時間短縮への真剣な討論を起こすべき時だと判断する。

―― 「作業量が多くて人が少ないから問題が起きる、いわゆるパターン化というのは大命題が決まっていて決まった人間でやってゆこうではないかと無理を承知でやっているからいくら話し合っても良くならない。もっと根元的なこと、例えば日本の文化のために芸能番組を減らそうではないか、ということならできますよ。(芸1)――

―― 最後に、具体的な業務遂行上に現れる個々の労働条件の根底は今日の業務量と各部課の定員とのバランスにある。我々が人間として、働くことに喜びをもって仕事をするためには、このバランスが適正でなければならない。しかるに現状はどうか。総合、教育二つのテレビ、ラジオの第1・第2放送、そしてFM、さらには国際放送と、我々は早朝から深夜まで、この6つの波の中に揉まれ続けている。公共放送として、それぞれの目的を持った6つの波を利用することに異議はないが、放送時間の長さには、実際にどれほどの効果があるのだろうか。いたずらに民間放送と張り合うことのみが公共放送の採るべき道ではないはずである。ましてや、受信料の頭打ちを理由に定員の限定をいうのであれば、当然、労働条件との兼ね合いにおいて、放送時間の短縮を検討すべきではないだろうか。働くことを嫌がるのではない。一方において質の高い仕事を要求され、反面において過重な労働を強いられる現在の姿は、業務量と定員のアンバランスによるものであり、その結果として、表面のみ体裁を取り繕った愛情のない番組のない番組が送り出されていると感ずるのは我々だけであろうか。いや、一般モニター、新聞評等にすら、その反映を読みとることができるのである。こうした現実の中で権力に迎合し、表面を取り繕う安易な姿勢が生れる危険は、日増しに大きくなりつつある。

 我々は、国民のための放送労働者として、放送の自由を守り抜く闘いを進めるためにも、適正な業務量と適正な定員を要求する義務があるといえよう。(業務3)――

―― 業務の重点化をはかると同時に、それに伴って重点をおかない部門については縮小することも必要である。年度によって重点をはずした場合、そのスタッフや機械を重点事項にまわしてこそ、定員の固定化、一定の予算による良質の仕事が可能となる。縮小したセクションは成績が下がったとする考え、従来行われてきた誤った膨張主義、いずれもいずれも不可である。(国2)――