禁断の極秘文書・日本放送労働組合 放送系列
『原点からの告発 ~番組制作白書'66~』5

メルマガ Vol.5 (2008.02.12)

第1章 空洞化すすむ「国民のための放送」

3 規制と考査

A その底流は何か

―― 原子力潜水艦……潜水艦本体の姿はよいが、デモは写してはいけない、ということで、デモのために配備した中継車は、全く何もしないで帰ってきた。――

―― 『世界の窓』でイギリスの電子計算機を扱ったドキュメンタリーを放送した時、考査室が事前試写に出向いてきて、商標名の部分をカットするよう指示したのはともかくとして、ヒナ鳥を紙箱で運ぶシーンに横文字が出てきたのをカットするよう指示した。よくよく見たら、“HANDLE WITH CARE”と書いてあった。(教5)――

 笑いだしてはいけない。NHKの番組制作現場は、この手の規制と考査は、今や日常化しているのであり、こうしたケースは「笑い話」にすらならなくなりつつあるからだ。だが、本当に笑い話にもならなくなった時のことを想像するがよい。それを思えば、笑うだけではすまないのではなかろうか。

 冒頭に述べた、現場の沈滞や、PDのあきらめムードというのも、単に、制作=労働条件のきびしさや、才能と理想のギャップ、人を生かさない機構と運営などにのみ原因を求めては誤りである。むしろ、最大の問題は、この章で明らかにしようとする、放送の反動化、私物化への大きな底流の存在であり、さらには、それを、今や体質化せんとしているかに見える、NHKの在り方への疑惑と不信感なのだということを知ってほしいのである。

 この底流は、現場の製作者たちにとっては、日々、有形無形の圧力として示されている。その有形無形の圧力とは何か。一言にしていえば、規制と考査である。規制とは何か、番組制作者外からの、企画、内容、演出、表現の変改の方向をもった力である。考査とは何か、番組の内容、演出、表現に対する、制作者以外の検閲である。これら二つは、理論上では存在して不都合ではないものではあろう。しかし、現在のPDたちからは、有形無形の悪しき不当な(太字は原文傍点、以下同)圧力として考えられているのが問題である。「規制」「考査」は、今や現場では、悪い意味でしか用いられていない。この「規制」と「考査」の上に、意図された「提案の蒸発」という操作が加わって、この圧力は倍加される。

 そして、積年のこの圧力を前にして現れるのが、自己規制という現象である。自己規制であって、自主でないことに留意してほしい。自主規制は必要かつ当然なことであるが、自己規制は、不当な外的圧力の存在があってはじめて現象するものなのだ。(協会パンフレットなどの、公共放送たるNHKは、公平な放送実現のため、自主規制のための機関としての考査室をもっている、といった類の自主規制とは異なるものである)。「意にそまぬ、我自からの規制」、これが自己規制である。

 ただ一つ、この点については、その自己規制が、「意にそまぬ」の意識が既にぬけおちて、「我からの規制」だけになってしまう、あるいは「我からの自主規制」の意識にすりかわってしまっている面も、はっきり認めよう。既に、悪しき、不当な規制への迎合が、少なくとも一部は、我々の中に体質化されている、という点をいさぎよく認めなくてはなるまい。

 この姿勢を確認した上で、我々は、まずこの自己規制の問題から、スタートしよう。数々の報告に語ってもらいながらアプローチしよう。

B 規制から自己規制へのメカニズム

―― 確かに、外的圧力が有在しないかぎり、自己規制の問題もありえないであろう。入局したてのPDは、おそらく言論の自由の教科書にもとづいて、政治的にも幅広い出演者、アクチュアルな問題を番組で企画したいという欲求をもち、実際に提案してみるものである。しかし、多くの場合、班の提案会議でそういうことは不可能であり、班より上のレベルの会議で必ず落とされることを先輩にさとされるのがおちである。そして、事実、班の提案会議を通っても、部の会議、さらに上の会議で落とされることになる。こうして、言論の自由のたてまえにもとづいて、対立する立場の論争を企画したい。白黒の区別、あるいは民主的なもの非民主的なものの区別をなるべく明瞭にしたいというような大それた試みを諦めるようになる。こうして新人のPDは、この出演者は駄目、こういう企画は通らないということを暗黙のうちに予見し、多くの場合、この成文化されていない禁止令の事実上の承認者となってしまうといえよう。自己規制のからくりを単純化していえば、以上のようになる。

 しかし、自己規制の問題は、PDの個人的問題に解消することはできない。職制が、大きくいえば経営の意図がこのような成文化されざる禁止令を作っていることが、むしろ一層問題である。(教5)――

 「提案の蒸発」を意図的に、系統的に行うことによって、自然に多くのタブーを作り出していく。これが、自己規制を生む一つの重要なカラクリである。

 例えば、田中彰治事件などは、報道局のある分会では、演出方法までつけて提案したところ、キャップ会では決まらぬまま、部長会にかかり、扱わないことに決定したと報告されてきたが、理由は全く不明のままであったという。

 さらには、タイミングがもっとも良い時期があろう、という理由で、提案を後にしてしまうやり方もみられる。

―― 小林章事件……取調べ中は、国会議員だから決着がつくまではとり上げないことにされ、決着がついたあとは、今までやらなかったのだから、今更とり上げるのもおかしい(最もしばしば用いられる常套的論理)という理由でふれずじまいになった。この場合、決定の所在は、報道局上部ということだけしか、わかっていない。(報7)――

 「枠がない」が、2カ月前の定時番組提案に対する、拒否のための常套句であるとすれば、「タイミングが悪い」が、報道番組提案に対するそれである。理由にならない理由を挙げての拒否を頻発することによって、タブーを一般化していくことが、一つの圧力をかける手段となるのである。

 こうした企画自体の否定と並んで、企画の扱い方自体にも、規制を加えようとする際には、しばしば、題名変更の上での採択という手段がとられる。

―― テレビ教養特集の『近代日本の歩み』シリーズの11月分で、『言論弾圧』のタイトルで提案したところ、提案会議では『弾圧』という言葉を使わないタイトルにすることという条件で採択された。PDが苦心して考え出したタイトルは『失われゆく自由』。(教5)――

―― TV教養特集提案で、『青年の保守化とは何か』という趣旨のタイトルを、『青年の政治意識』に変えられた。部長会または編成会議で、一部勢力を刺激するし、一つの予断をもって番組をつくっているととられるからとチェックされたもの。(教4)――

 これらのケースは、「提案は通すが、扱いはごく穏当に」ということの要求を暗々裡に示しているのである。

 このような、各種のカラクリの発動と、後に詳述する具体的な規制の数々の存在こそ、自己規制を強要し、習慣化する必要条件なのである。

―― こうしたチェックがしばしば行われることによって生ずる最も大きな弊害は、プロデューサー各自が、自己規制をしてしまうことである。

―― この7月、松岡洋子が帰国した時、最も新しく、また最も生々しい現場を見てきた彼女を出したいという気持は、多くのプロデューサーの中にあったにも拘わらず、一度拒否されたものはダメに決まっているということで、提案もされなかった。このような傾向はさらに強くなると、政治的な問題はどうせ提案してもだめであろう、ということで、できるだけ避けて通ろうとするようになる。 現に荒船運輸大臣が急行停車駅をつくった時は、遂に誰一人これをとり上げようとする者が出なかった。(報7)――

 規制→自己規制の定着は何も、社会番組部、教養部、青少年部などに限られているわけではない。

 教育第3分会からは、戦争に関する事柄がまず絶対に番組にできないという悩みが報告されている。核の問題をはじめ、科学の戦争の時代にありながら、客観的に、科学的に、現代戦の問題をとり上げようとする番組の企画はほとんど無視されるし、また、されるだろうという自己規制が支配しているという。

 さらには、医学番組を数多く持っているこの部では、医師会関係を刺激することを避けるという点で、大きなタブーと自己規制を負わされているとも報告されている。

 教育第1、第2分会などが、教科番組以外に、「教師の時間」、「お母さんの勉強室」、「教育時評」などをもっていながら、教育関係者の間に最も関心の深い政治的な問題をとり上げることが難しく、常に教育技術的な路線に踏み止まらされている、というのもよく知られたことである。

 この種の実情を教育第2分会の報告も、「教育時評」に触れて次のように言っている。

―― 時事的な問題を扱うがために、政治的な話題に対する通信教育部内の姿勢が端的にあらわれる番組となっている。第一の問題は、やはりテーマに対する規制であり、出演者に対する規制である。提案でも、非行問題、公害と教育、安全教育など、NHKキャンペーンものが多く、また、教育技術的なものが多くとられ、学テ、教科書等、政治的なものは部内段階で規制されてしまうことが少なくない。また出演者については全体として文教政策批判を行うものは、出演がむずかしく(NHK全体としてそうなのだが)徹底した自己規制が行われている。(教2)――

 また、報道第2、第3、第9分会などの記者部門からも、次のような報告がなされている。

―― NHKニュースのなまぬるさは、よく指摘されるところであるが、これには、現場記者たちも大きな不満をもっている。 例えば、10月初旬の原潜寄港の際、横須賀の前線デスクと担当者は、常に他社と同じく、取材出稿を続けていた。入港当初の1、2日は平常に扱われ、ニュースになっていたが、終りの2日はほとんどニュースにならなかった。少なくとも、原潜出港のニュースは従来、当然全中で扱われていたのについにこの時はニュースに出ないでしまった。この措置については、前線デスクも非常に怒り抗議をしたが、最終編集段階で、何らかの圧力による規制もしくはデスクの自己規制があったのであろうか。

―― 荒船事件についても、各紙と同じ趣旨の立場の出稿は、NHKでも、前夜には出稿されていた。

 当然、当夜7時のニュースに出るべきところが全然でない。やっと翌朝8時のニュースで扱われた。最終編集段階で、自主規制が行われ各紙朝刊の扱いを見て、あわててニュースにしたのだと推察せざるをえない。――

 このほか、現場の記者たちは、我々は、他社と少しも変らない、真実のための取材と出稿を行っている。その中には、情報としてのみ扱われざるを得ないものもあろうし、比重の上からは没にされるのも仕方ないと思うものもある。しかし、衆目の見るところ、価値が大きく、また、それを認めるが故の取材陣の配備や、力の入れ方をしめしていながら、出稿されたものがニュースにされない、少なくとも、他社の扱いを見るまではニュースにしないということが余りに多すぎる。最終編集段階での職制内の自己規制が(ニュース・ヴァリューの判断の曖昧さ)を含めて、いかに激しいかを思って常に疑惑と不満にさいなまされている。という指摘が一致してなされている。