週刊『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』
まぐまぐメールマガジン再録版 Vol.41 2004.06.24

[20040624]古代アフリカ・エジプト史への疑惑Vol.41
木村書店Web公開シリーズ

 ■■■『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』■■■

近代ヨーロッパ系学者による“古代史偽造”に真向から挑戦!

等幅フォントで御覧下さい。
出典:木村愛二の同名著書(1974年・鷹書房)

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  第五章:巨石文化の影

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★οO◯Oo。・゜゜・★ 第四章の構成 ★・゜゜・οO◯Oο。★
フェニキア人/タルシシの船隊/海神ポセイドン
ストーン・ヘンジ/北ヨーロッパ人/曲毛の人々
黒色の巨人神[タイタン]/王国の戦士たち

http://www.jca.apc.org/~altmedka/afric-e.jpg
扉絵

◆(第5章-1)フェニキア人 ◆

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 1920年代、フェニキア人の植民都市として有名なカルタゴの神殿遺跡の発掘が行なわれた。

 タニットの神殿とよばれるフェニキア(カルタゴ)人の聖所には、ひとつの石棺があった。フランス人のピッタールは、1924年に、この石棺から発見された遺体について、つぎのように書いている。

 「カルタゴの……タニットの女神像のあの驚くべき石棺……外形は恐らく女神自身を表わしているこの石棺こそは、宗教上の最も高貴な人物の墳墓であったに違いない。ところで、そこに埋葬されていた女は類黒人の特徴を持っていたのである。人種的には、1人のアフリカ女であったのだ」(『人種学的に見たる民族発達史』、4分冊、p.50)

 このピッタールの本は、当時抬頭しつつあったファシズムとのたたかいの一環として書かれたものであった。しかし、この「類黒人」(ネグロイド)の特徴をもつ女性について、その後の人類学者、歴史学者は何も語っていない。これはどういうことであろうか。また、フェニキア人とは、本来、どういう人種を中心にしていたのであろうか。

 まず第一に、へロドトスの証言をみてみよう。彼は、ペルシャの学者にも、フェニキア人自身にもたずね、同じことを2ヶ所で書いている。ここでは、フェニキア人自身のいいつたえによる部分を紹介しょう。文中、カッコ内は、ヨーロッパ系の学者による註釈である。

 「フェニキア人は、彼ら自らつたえるところによれば、古くはエリュトラ海辺(ペルシャ湾岸)に住んでいたが、この地からシリアに移り、シリアの海岸地帯に住むようになったという」(『歴史』、7巻、p.89)

 エリュトラ海とはどこかというと、古代ギリシャ人にとって、紅海・ペルシャ湾をふくむインド洋全体のことであった。それゆえ、エリュトラ海を、「ペルシャ湾」に限定するのは、明らかなまちがいである。むしろ、紀元後60年頃のギリシャ人水先案内人によって書かれた『エリュトラ海周遊記』は、当時のインド洋貿易の中心が、インドと東アフリカにあったことを語っている。

 当時のアフリカ大陸東海岸には、すでに23ヶ所もの港町があった。季節風を利用する、定期的な沿海貿易が発達していた。デヴィドソンは、『エリュトラ海周遊記』の中から、東アフリカ沿岸の状況を書いた部分について、つぎのように要約している。

 「海岸づたいの航海は、立ち寄る港や市場がきまっている一般に認められた多数の『1日行程』に区切られており、これらの港や市場が供給し、また求める品ははっきりわかっていた。貿易船の船長が心得ておくべき政治状態の概要も、ついでながら述べられている」(『古代アフリカの発見』、p.145)

 この貿易ルートの歴史が、どれほど古いものかはわからない。しかし、インドのボンベイの近くからは、紀元前三千年紀にはじまるロトハル(ロータル)港の遺跡が発掘されている。この古代の港湾都市は規模も大きく、焼きレンガづくりの荷役用ドックさえ備えていた。アフリカ東海岸からのエジプトやインドへの鉄などの輸出の歴史は、意外に古いのではなかろうか。その証拠はまだみつからないのだろうか。

 たしかに、もっと早くから定期的な貿易ルートがあったという証拠は、まだないようだ。しかし、エジプトの古記録には紀元前2300年頃、水先案内人のクネムホテップが、2回の旅をしたと記されている。フランス人のド・ボーは、この記録を根拠に、王女(または巫女?)のミイラのそばにあったアンチモンを、ローデシア産ではないかと考えたのである。このクネムホテップの旅は、まさに、ハルクーフがナイル河をさかのぼったのと同時期だが、一般に、クネムホテップの方は、紅海まわりでプーントの国を目指したものとされている。その可能性はあるだろう。

 というのは、当時のファラオは、必死になってミルラを求めていた。紀元前3000年ごろから、サハラの乾燥化がはじまったため、サハラから、遊牧化した民族が、エジプトの南国境に流れてきだした。そのために、国境紛争が起り、ナイル河による貿易路は寸断されはじめた。ミルラを手に入れなければ、ファラオたちは、秘蹟をつづけさせることができない。宗教的権威も弱まるし、武器にも不自由した。そして事実、紀元前2300年頃から2065年頃まで、古代エジプトは、第一中間期とよばれる戦国時代に突入してしまう。

 また、紀元前1380年頃には、ナイル河と紅海を直接に結ぶ大運河が掘られた。古代のスエズ運河である。これは、紅海まわりのミルラ・ルートにちがいない。しかも、フェニキア人のオリエント史への登場が、これ以後であるのも興味深い問題である。このような背景からしても、わたしはフェニキア人の出身地を、東アフリカだと考える。

 ただし、フェニキア語はセム語族という先入観が強いと思われるので、この点にも一言しておく必要があるだろう。簡単な例をあげれば、いわゆる華橋のビジネス・イングリッシュ(ピジョン・イングリッシュ)がある。貿易商人という職業ほど、外国語の習得が早く、母国語をすてさる職業は、ほかにはあまりない。

 では、フェニキア人が東アフリカ海岸に根拠地をもっていたと仮定して、もうひとつの謎をといてみよう。フェニキア人の貿易と、切ってもきりはなせない国、または民族に、タルシシがある。

次回配信は、第5章-2「タルシシの船隊」です。

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