[20040318]古代アフリカ・エジプト史への疑惑Vol.27
木村書店Web公開シリーズ
■■■『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』■■■
近代ヨーロッパ系学者による“古代史偽造”に真向から挑戦!
等幅フォントで御覧下さい。
出典:木村愛二の同名著書(1974年・鷹書房)
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第三章:さまよえる聖獣
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◆(第3章-4)オオツノウシと巨人 ◆
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「オオツノウシ〔大角牛〕ウシの1品種で、インド産のコブウシの系統に属する。……角がいちじるしく長く、 1.2メートルに達し、基部の太さも47.5センチに達する。体重 400キロぐらいで、肩には顕著な肉瘤がある。古くからアフリカで飼われている」(『大日本百科事典』)
以上がオオツノウシについての、百科事典の説明である。つまり、このオオツノウシは、インドの原産であるとされてきた。従来の説によると、家畜ウシには2系統あり、インドのコブウシ(瘤牛)系と、オリエントまたはヨーロッパ原産の原牛(ゲンギュウ)系がある。そして、アフリカには、この両方の系統がつたわった。つまり、コブウシは現在のエチオピアあたりから東アフリカ方面へ、そして原牛はナイル河をさかのぼって、エジプト周辺にはいりこんだとされてきた。
この前提にもとづいて、アフリカの家畜ウシを研究すれば、当然、コブウシ系の純粋種に近いもの、原牛系の純粋種に近いもの、そして両者の混血種、という分類法がでてくる。
ところが、ウシの解剖学的研究、つまり、骨格や筋肉の構造の研究がすすむと、この説明はうまくいかなくなってきた。家畜史の研究家、加茂儀一は、アフリカのウシの頭骨の特徴などが、系統的に説明しにくくなったとしており、つぎのように書いている。
「今日東アフリカの家牛については、それが原牛種であるか、あるいは瘤牛であるかということは問題になっている」(『家畜文化史』、p.624)
すなわち、従来の2系統の起源論では説明しきれなくなってきた。もともと、この2系統説そのものも、最初に立てられたヨーロッパ起源の原牛(よんで字のごとく、最初の家畜ウシの原種の意)の1系統説の破綻から生じたものであった。この1系統説では、インドのコブウシの背瘤などが説明できなくなったのである。
しかし、今度は機械的に、2系統説を3系統説へと切りかえればよいものではないだろう。わたしは、オオツノウシこそが、最初の家畜ウシの直系ではないかと思っている。まず、すでに加茂儀一は、東アフリカの家畜ウシの説明についての疑問を表明している。しかし、それより奥地の、そして、東アフリカ経由でつたわったとされているオオツノウシについては、その特徴を記しているのみで、最早、系統説明をしていない。ここに最大の鍵がある。
わたしにはもちろん、家畜ウシの解剖学的知識などは全くない。だが、別の角度からオオツノウシの周辺を追求することによって、この品種を最初の家畜ウシの直系ではないか、と考える根拠を示したい。
まず、オオツノウシを 100万頭も飼育している現在のルワンダとブルンジ(かつてはルアンダ=ウルンディの2重王国)を訪れた日本の外交官夫人、山本玲子の手記をみてみよう。この地帯は旧ドイツ領からベルギー領コンゴーヘ併合という経過をたどったため、おもに英・仏系をたよりとする日本の研究者には、この地帯の実情はほとんど知られていない。だから、こういうルポルタージュ的なものにしか、手がかりはみつけられなかった。
さて、山本玲子はこう書いている。
「ここの牛は、波うつ大きな角を持っています。90万頭から 100万頭もこの狭いルアンダ・ウルンディにいるこれらの牛は、祝福されたものと考えられ、広々とした原野にゆうゆうとし、ただ牛乳を人間に供給するだけで、あとは一切の労働もせず、死ぬまで生活は保証されているのです」(『剣[つるぎ]と蝸牛[かたつむり]の国コンゴー』、p.97)
オオツノウシは、このように、大変に可愛がられており、神格化されている。しかも、1頭1頭に、名前までつけてある。山本玲子は、白分の名前が「玲瓏」という意味だと説明したら、このオオツノウシを飼っている青年から、こういわれた。
「ああそれは美しい名前だ。ちょうど私の牛にもその名前がついています」
わたしは、このようにウシを大事にし、立派に育てあげた人々こそ、最初のウシの飼育者の直系にちかいと考える。では、その人々は、どんな謎を秘めているのだろうか。
この民族は、わたしの考えでは、人類史上最大の謎を秘めている。この民族こそ、すでに農耕起源の神話で紹介したワッシ民族である。しかも、生物学的にみても、超一流の不思議な集団である。
まず、あきれるほどに背が高い。男女の平均でも、2メートルもあるらしい。そして貴族層ほど背が高い。1958年に、ルワンダの宮殿を見た早稲田大学の遠征隊は、『アフリカ縦断1万キロ』の中で、「7尺以上もあろう衛兵が2人、ヤリを持って立っていた」、と記している。また、山本玲子は、ルワンダの王(ムワミ)に会った。そして彼女は、こう書いている。
「ムワミは、2メートル15センチの長身で、あまり高いので、か細く、弱々しいみたいに見えました。しかしこの長身は、さすがに巨人族の王者としてはふさわしい体格です。王と握手をする私は、背のびして天を仰ぐような恰好をせねばなりませんでした」
一般にもたしかに、同一人種でさえ、牧畜に従事していると、背が高くなってくる。イギリスの農民と、アングロ・アメリカンのカウボーイとでは、 300年ほどの間に、20センチも差がでてきた。食料源のちがいもあるし、背をかがめて力仕事をする農耕民と、草原を歩きまわる牧畜民とでは、骨格がかわるのも当然である。
それにしても、平均2メートルの巨人民族は、世界最高は当然ながら、桁はずれといわねばならない。しかも、これにつづく高身長集団は、チャド湖南岸のサラ民族(平均181.7センチ)、スマトラのマライ人(175.5)、南アメリカのパタゴニア人(175)、スウェーデン人(174.4)、といったものである。つまり、20センチほども大巾に、平均身長がさがっている。
一般に、高等動物ほど、環境による変異の巾はせまい。最大値を特別に引き上げるためには、それなりの特別な事情が必要である。残念ながら、前述の事情もあって、人類学者による説明は発見できなかった。だが、わたしは、ワッシ民族が、ナイルのみなもとの、気侯のいい草原で、数千年間、定着牧畜をつづけてきたと推測する。つまり、農耕民と分離はせず、遊牧民ではなく、放ち飼いの牧畜専業著として暮してきたと考える。ウシの体躯も、こういう落ちついた環境の中で、長年月を経て、世界最大(近代の改良品種は別)になったし、人間の方も、世界で最高の巨人になったと考える。
ただし、ワッシ民族をはじめとする中央アフリカ以南の牧畜を行なう農民について、北方起源をとなえる学者も多い。彼らの論拠は、家畜のオリエント起源以外に、もうひとつある。それは、ナイル系といわれる言語を使用する牧畜民族の伝説である。彼らは、中央アフリカにも若干進出しており、北方からきたと語りつたえている。
しかし、いわゆるナイル系の牧畜民の南下は、サハラの乾燥化によってひき起こされたものにすぎない。彼らも、オリエント起源の民族ではありえない。むしろ、バントゥ系の民族の根拠地から、北方へ進出し、また少し南へ戻ってきたと考えるべきである。
一方、バントゥ系の言語の使用者であるワッシ民族などには、北方起源の伝説はない。ワッシ民族の神話では、彼らの始祖キグワたちが、天から降ってきたところは、ナイルの水源、カゲラ川のほとりの丘の上(高天原か?)として語られている。ウシのオリエント起源説のみを根拠に、人種的にも北方からきた白色人種と断定する学説は、二重の誤りをおかしている。そして、その強引さは、ケルレルによる、つぎのような、オオツノウシのつたわり方の説明をみれば、よりはっきりするだろう。
「多数の牛の流れがエチオピアから古代のナイル谷に向った。これは最初は角の大きい種類であった。これは今では中央亜弗利加に引き込んでしまった」(『家畜系統史』、p.135)
この論理をたどると、ケルレルはまず、オオツノウシは、最初からそういう種類だったのだと考えている。つまり、中央アフリカ(ウガンダ、ルワンダ、ブルンジなどのあたり)に行ってから大きくなったとは考えていない。おそらく、品種改良に必要な年代を考えると、この説明以外にできないのだろう。では、ケルレルは、オオツノウシが最初に飼われていたところはどこだと考えているのかといえば、インドである。ところがインドには、こんなに大きな角を持つ種類はいない。インドの牧畜民(アリアンといわれているが?)は、すばらしいオオツノウシをかつては持っていたのに、いまは失ってしまったとでもいうのだろうか。彼らは、品種改良をするどころか、聖牛を、みすぼらしい品種におとしてしまったのだろうか。
一方、ケルレルは、家畜ウシの起源はアフリカ大陸には求められないと主張し、その唯一の根拠として、アフリカに野生のウシがいない(本当はいたわけだが)ことをあげていた。ところがここでは、まったく逆に、インドにオオツノウシの品種がいないのに、オオツノウシはインドの原産だと主張している。こんな手品は通用しない。それゆえ、ケルレルの系統史は、強引なだけでなく、書かれた時から、論理的に破綻していた。
オオツノウシの系統の伝播方向は、逆であったにちがいない。中央アフリカは、わたしの考えでは、ウシの品種改良(もちろん聖牛としての意味を含めて)の中心地であった。わたしはのちに、エジプト古記録による証拠を示すが、中央アフリカからは、各地に種オスの供給が行なわれていたにちがいない。というのは、ウシに優雅な名前をつける習慣はアフリカの各地にもある。そしてこれは、サラブレッド競走馬の場合と同様に、種オスの選抜、血統の確認という作業でもある。よりのけられたオスは、去勢ウシとされ、いけにえにもされた。しかし、その前に、このすばらしいオオツノウシの血統は、周辺の諸民族にもわけ与えられたにちがいない。
ところで、人間の品種改良といっては、大変に失礼に当るが、ワッシ貴族がとびぬけて高身長になった原因についても、似たような経過が考えられてもよい。そして、その論拠となるような記述が、ヘロドトスの『歴史』の中で語られている。しかし、これは牧畜文化とははなれてしまうので、予告にとどめ、つぎには、ヘロドトスの『歴史』、つまり、エジプト・オリエント・ギリシャの古代史に、かくことのできない動物、ウマの原産地をさぐってみよう。
ウマはモンゴルの草原で飼いならされたともいわれ、現存のターパン馬という野生状態にあるものが、その祖型であると主張されてきた。しかし、これにも相当に疑問がではじめている。また、ここでも、アフリカには野生ウマがいなかったと主張されつづけてきた。それがやはり、あやしくなっている。
次回配信は、第3章-5「騎馬帝国」です。
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