(1)『図書新聞』(1999.2.20)
ロジェ・ガロディ著 木村愛二訳 偽イスラエル政治神話
9.30刊四六判413頁 本体3800円 れんが書房新社
ロジェ・ガロディ『偽イスラエル政治神話』を読む
“歴史修正主義”の手法
問題の核心に迫る
杉村昌昭
出来事の記憶を未来に開かれた文脈のなかで刷新しつづけることなべて記憶も持続も出来事に属しているが、記憶は単なる持続ではなくて、つねに刷新でなければならない。そうでないかぎり、記憶に依拠する過去の事実の生命力は朽ち果てていく。
20世紀最大の出番事といってよいナチスによるユダヤ人大虐殺の記憶は、戦後一貫してさまざまなかたちで刷新されてきた。資料、映像、証言、理論的研究等々、それなりに時代状況に応じたナチスとファシズムについての考察を通して、この出来事は地球上に戦争の脅威が絶えないかぎり不可欠の参照経験として機能してきたのである。
しかし、この2、30年、とりわけ80年代以降、一方で、目に見える戦争が局地的に分散化すると同時に、他方で、戦争を内在化させた日常が広くいきわたるという世界界的状況のなかで、ユダヤ人大虐殺の記憶はヨーロッパにおいても風化をとげはじめていた。
つまり、同時代の出来との関係におけるその記憶の刷新が、大小さまざまな目前の事態に目をくらまされて困難を強いられるようになったのである。そして、そういう時期に符節を合わせたように、ユダヤ人大虐殺の事実をも“再考証”しようという“歴史修正主義”の流れがしだいに浮上し、今日にいたるまで議論を呼ぶところとなったのである。
フランスでは、80年代初頭に物議をかもしたロベール・フォリソンの「ガス室存在否定論」から、最近この本の出版を告発されてフランス法廷で有罪判決を受けたロジェ・ガロディの主張にいたる展開がそのもっとも露出的な局面を体現している。
わけても、このガロディの本は、キリスト者としての真摯な社会活動で知られるカトリック神父アべ・ピエールがガロディの友人として推薦者のひとりにくわわっていたことなどからももスキャンダルとなった。ことほどさように、この本はその内容もさることながら、戦時中のレジスタンス活動家から戦後共産党の大幹部へと、そして70年に共産党を除名されたあと独立活動家を任じながらカトリック進歩派の極左翼に接近し、さらに80年代にイスラム主義者へと転身した著者ガロディの数奇な足跡の着地点として大きな関心を集めたのである。しかし、私の見るところ、ガロディの政治的転身はそれほど意外なものではない。
私事にわたって恐縮だが、私の翻訳活動家としてのデビユー作は、60年代の末に軍事クーデターで逮捕されたギリシャの作曲家ミキス・テオドラキスの獄中記『抵抗の日記』(河出書房新社刊)である。さて、そのテオドラキスがフランスへ脱出後の73年に続編として出版した『文化と政治的次元』という本(残念ながら未邦訳)にガロディがかなり長い序文を寄せていて、そのなかで彼はテオドラキスを援用しつつ共産党離脱後のみずからの政治的立場と世界認識を披歴している。
個の自立を重んじる独立左翼としての立場を強調しながら、めざすべきは「各人の全面開化がすべての人の全面開化の条件であるような社会」というマルクスからの引用でしめくくられているこの序文は、反米(アメリカ民主主義)反ソ(ソ連官僚主義)主義者としてのガロディの立場を鮮明に示したものである。その彼が、やがてソ連崩壊とアメリカによる一元的世界支配への流れが強まるという情勢変化のなかで、孤立した独立左翼としてのいささかのぶれをともないながら反米=反イスラエル(シオニズム)=親アラブという路線にむかっていったのは不思議でもなんでもないといえよう。
だからこそ、少なからぬアラブの知識人がガロディに「いかれる」という付随現象も生じているのである(ちなみに、エドワード・サイードが昨年の『ル・モンド・ディプロマティック』8月号でこうしたアラブにおける親ガロディの傾向を批判的に論じている)。
したがってこの本は本質的に反シオニズムの書といえるのだが、それを歴史的に補強する一環としてナチスによるユダヤ人大虐殺の「再考証」を「歴史修正主義的」な手法でおこなっているところがみそである。その手法の特徴は、大きな出来事の経験に必然的にともなう多様なトラウマの蓄積過程への洞察を欠いた単面的な「文書証拠主義」であり、またそれと表裏をなすさまざまな様相をもって現れる「非文書的証拠」の希釈である。
こうした「修正主義」の手法は、すでに邦訳もあるピエ-ル・ヴィダル=ナケの本(『記憶の暗殺者たち』、人文書院刊)によって痛烈に批判されているのだが、それに対するガロディの反批判(私はそれを期侍して読んだのだが)はこの本のなかに皆無である。そして、この「いきちがい」、この「すれちがい」か、この論争ならざる論争の最近の不毛な生産性を象徴しているように思われる。
しかし、紙幅の都合もありここでは示唆するだけにとどめるけれども、読者はこの2著を合わせ読むことによって、出来事の記憶の仕方しだいで、過去は死にもすれば生きもするというこの問題の核心に迫る手がかりを得られることはたしかであろう。
一言だけ付言するなら、歴史の創造的主体としてのわれわれに課せられた仕事は、出来事の記憶をつねに現時点において未来に開かれ文脈のなかで刷新しつづけることである。そして、その刷新の仕方の創造性の質が、過去の事実のもつ生命力を保証するとともにその価値評価を決する試金石となるのである。また、そういう前提があってこそ、記憶の刷新から未来の創設へという新たな展望も開かれてくるのではないだろか。むろんこの程度のことはガロディにも十分わかっでいるはずなのだが・…(龍谷大学教員)
週刊『憎まれ愚痴』17号連載記事より書評部分のみ掲載
書評に論評を加えた全文はシオニスト『ガス室』謀略周辺事態(その17)参照
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