送信日時 :2001年 8月 20日 月曜日 2:27 PM
件名 :[pmn 15936] 試供品2:暴力の新発見と権力の解剖と猿学の成果
昨日送った試供品1にも誤植があり、冷や汗3斗の思いです。目と頭が疲れ果てたころに読み直してはまた追加訂正をすることになるので、よほど注意しないと打ち間違えを見落とすのです。小泉八雲は一度書いた作品を引き出しに入れて、忘れた頃に取り出して直したと伝えられますが、ああ、羨ましい。
先に「暴力主義反対」の姿勢を明らかにしたものの、これまた冷や汗3斗の思いで告白すれば、私は、軍国少年として8年余り、「鞭声粛々夜河を渡る」の剣舞の舞台写真が残り、戦後の小学校時代にも「喧嘩太郎」と教師から呼ばれたこともあり、防衛大学校3期中退、1960年安保闘争では国会突入、その後、当時の友人たちが密かに私を「暴れ者」と呼んでいたことを知り、などなど、裸の猿の中ではむしろ暴力的な本能と身体機能を優れて備えた部類と自覚せざるを得ない。
しかし、だからこそなおさらに、暴力反対なのである。敗戦の日の衝撃以来、暴力と権力に関して、何度も考え直してきた。問題は、そのような本能的な行為の個人的および社会的な抑制機能なのである。そこでまず問題は、過去の行状を告白し、公然と人前で反省を示すか否かにある。
最新情報から紹介すると、先に私がこの電子手紙広場でも日経の連載「しつけの謎」から紹介した問題、脳の「前頭連合野」に関して、さらに詳しい記事を入手した。わが電網宝庫読者が切り抜きを届けてくれた『朝日新聞』連載記事なのだが、「私の暴力論(2)」(2001.8.15)に、42歳の「脳科学者」澤口俊二北大教授が登場した。著書に『知性と脳構造の進化』(海鳴社)があり、「この10年で脳の解明が急激に進みました」と語っている。
「チンパンジーでも前頭連合野はヒトの6分の1、約70グラムしかない」のだそうで、うむうむとなるが、「ヒトの進化は前頭連合野の発達と言ってもいい」とまで極言、または「聞き手」記者による記事構成がなされると、他の部分を軽視することになるから、それは行き過ぎだと思う。「弱者への手加減も、強者への敬意も、実際にけんかしてみないと分からない。運動会で騎馬戦や棒倒しもやらせたらいいんです」などと主張する部分は、私の経験的知識、教訓、持論と一致する。
同連載(5)(2001.8.18)には44歳の松原隆一郎社会経済学教授が登場するが、その専門とは別に空手3段で格闘技をやっており、「暴力的」な連中に「格闘技をやらせるとおとなしくなる」などと語っている。
もっとも、このような事実は、昔から経験的に分かっていたことだった。それがいわゆる科学的研究によって裏付けられたというべきであろう。
ひるがえって1984年に『権力の解剖』という訳題のTHE ANATOMY OF POWERを発表したガルブレイスは、1908年生まれだから存命なら93歳になるが、はしがきに「マキアベリからは影響を受けてきたと思う」と記している。マキアベリは、平凡社の『世界大百科事典』に1469-1527とあるから、差し引き58歳で死んだことになる。当時では長生きだったのかもしれないが、今なら若死である。
同事典には記されていないのだが、日本でも知っている人が多い『君主論』は死後の出版で、生前に世に出ていたのは戯曲と『戦術論』だけだった。フィレンツェ共和国の外交官だったと紹介される場合が多いが、軍事と外交を担当していたのだった。
同事典ではまた、欧米で必読文献の扱いになっている『ティトゥス・リウィウスの10章に関する論考』を単に『リウィウス論』(1531)としているが、日本語訳には『ローマ史論』『政略論』の訳題があり、この方が主著であり、どちらかといえば共和政論である。『君主論』は、フィレンツェの共和制を覆したメディチ家の当主に捧げたもので、共和政論の部分を言い換え、短くしている。しかし、主著の方でも、指導者の決断と指導責任を強調しているのであり、衆愚政治への批判は共通している。
ガルブレイスは、欧米ではマキアベリを近代の始祖とする政治学の蘊蓄を傾け、権力の基礎的要素を「威嚇権力」「報償権力」「条件付け権力」の3つに分ける。上記の訳書の副題に「条件づけの論理」とあるのは、この最後の権力構造の現代的な重要性の強調である。
ガルブレイスはまた、前2者については人々が「自分の服従に気付いている」が、「条件付け権力」の場合には「本人に自覚されない」とし、これを特徴として指摘している。「条件付け」とは、古くは宗教、最近の例では資本主義とか社会主義とか共産主義とかの教義による心理作用を指している。
上記のことと猿学の成果の上に立って、私は、いわゆる民主主義による組織運営の場合でも、その成員に「自覚されない」組織権力闘争が、日夜行われていると考えるのである。「自覚されない」の意味は二重である。言葉や文字に表現される裸の猿の「思考」なるものは、実際にその全身を駆動している本能的な衝動、それも何百万年もの蓄積による「威嚇「報償」「条件付け」の内のごくごく一部に過ぎないからなのである。
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