電子手紙の送信日付け順・注釈付き一般公開文書館 2001年7月

「つくる会」教科書の最大の成果は現在の教科書免責のメビウスの帯「会社擁護」編と指摘

送信日時 :2001年 7月 9日 月曜日 12:13 PM

件名 :[pmn 15526] 教科書問題メビウスの帯「会社擁護」編

 先に私が送った電子手紙、[pmn 15467]「教科書問題誤報と偽善系の主体性なき右往左往」に対して、いくつかの反応がありましたので、それにも、少しは応えるように努めながら、これもかなり先に指摘した「メビウスの帯」の錯誤を敷衍します。

 一番目は、私個人宛に送られてきたもので、おそらく、こういう発言を電子手紙広場に送ると、常連の攻撃魔に襲い掛かられるのが嫌なので、個人宛にしたものと思われます。以下です。

 なりふり構わぬ「つくる会」教科書バッシングには、あきれるばかりです。「他人の褌を借りて」まで、自国の教科書の、それも、8種類の一つの採択を阻止しようとする人々の主体性のなさに、情けなくなります。

 一言すると、「阻止」など不可能です。「ごまめのはぎしり」でしかありません。十年ひと昔、高校の歴史教科書に現在の「つくる会」の源流、自由主義史観の教科書が登場して、やはり、小騒ぎになりましたが、今回の騒ぎでは、ほとんどその「敗北」の歴史は語られていません。しかも、その折には、同時並行で、消費税騒ぎがあり、議席が増え、「山が動いた」と仰った大先生が党首の政党の成れの果て、社民党は、都議選で零敗、共産党も惨敗、じり貧なのです。

 つぎに、広場で「sen」さん曰く、

 誤りを含むことは確かですが、侵略を進出と書き改めさせようという意図が問題なのですから、誤りの部分をもってして全てを否定しているように見えるこの文章は変です。

「意図が問題」という主旨の発言は、湾岸戦争で「油まみれの水鳥」をイラクのせいにした朝日新聞の記者が、訂正報道もせず、私の目の前で言い放った弁解の居直り台詞と、そっくりです。テレビ朝日の特集でも、朝日新聞記者、和田某が、同じような台詞を吐きました。典型的な居直り強盗の台詞なので、御注意下さい。事実を正確に押さえない発言を続けていると、今後ますます、信用されなくなります。

 最後に、萩谷さんの次のような幼稚っぽい表現ですが、

 愛ちゃんは、みんなでいじめたからむくれてるだけのような気がする。

 確かに、私の「ガス室の嘘」発言に、何人かの悪餓鬼が逆らってきたのは事実ですが、「みんな」ではありませんし、「いじめ」られたなどとは、まるで思っていません。卓上玩具電算機が壊れたので、阿呆な悪餓鬼を相手にするのは一時止めましたが、蚊に刺された程の痛みも感じてはいません。萩谷さんの「みんな」という表現は、何かを親にねだるときの子供の常套文句みたいですが、おそらく、他の人を悪餓鬼と一緒になって「みんなでいじめた」記憶と混同しているのでしょう。萩谷さんにも、見境のないところがありますから、気を付けて下さい。

 この種の「いじめ」については、最近の宅間容疑者に、その典型が見られます。要するに、動物行動学的観察によると、「弱いものいじめ」なのです。教科書問題でも、いわゆる「右」と正面衝突などできもしない臆病な連中が、いわゆる「左」の方が優勢と思っている電子広場で、少数派の揚げ足を取っては、「いじめ」本能を満足させてるのです。むなしいことです。

 その点、軍国主義教育と言われるでしょうが、「強きを挫き、弱きを助ける」と教わった世代の方が、正常なのです。

 私個人に対しても、私が「少数意見」だからと思って安心して、襲い掛かったのです。ゲバ棒を卓上玩具電算機に持ち替えたような連中は、卑劣な野獣が「群れからはぐれた草食動物」を襲う場合に典型的に見られる本能的な行為として、しかも、さらに卑劣にも、遠く離れた電網空間から襲い掛かろうとするのです。私は、その種の「全共闘世代」もどきの腰抜け振りを、厭になるほど見てきましたから、驚きもせず、適当にあしらっているだけなのです。自ら名乗れば、この数多の修羅場をくぐり抜けてきた一騎当千の荒武者を見くびるとは、笑止千万、愚かも愚か、それらの悪餓鬼連中は、末代までの恥を、一生懸命になって自ら曝しているのです。

 で、肝心の「メビウスの帯」の敷衍ですが、今回は「会社擁護」編とします。最新の念のための取材確認結果を先に報告します。

 日教組の担当者は、現在までの教科書にも問題は多いことは自覚しており、内輪の議論にはなっているが、教科書全体を再検討せよという方針にはなっていない、と認めました。出版労連との関係では、作っている人自身が自分の仕事を批判するのは難しいでしょう、との感想でした。

 このことへの批判を自由な立場で展開したいこともあって、私は、6月末日をもって、出版労連加盟のネッツ労組から退会したのですが、出版労連の方には、そのことをも伝えつつ、後述の民放労連での経験をも話し、実情を聞いたところ、やはり、現在までの教科書への批判の運動方針はないと認めました。

 問題の核心は、ちょっと考えてみれば、まったくもって何のことはないことなのですが、「つくる会」批判運動をやっている出版労連の組合員の社会的身分なのです。出版労連の教科書共闘は、教科書会社の企業内組合の組合員によって構成されています。悪く言えば、自社製品の売り場を確保すための運動だから、会社は、この「労働組合の活動」を妨害しないのです。

 ところが、日教組や、かつての社会党やら共産党やらは、親亀の上に子亀、その上に孫亀が乗るような状態なのに、上に乗っている方ほど、威張りくさるという実に間抜けな構造になっているのです。本来という言葉を使うならば、亀より先に人間の親の方が動くべき問題なので、誰が悪いのかと言えば、皆が悪いのです。

 私が、この構造を詳しく知っているのは、昔からのことです。民放労連の放送問題の担当をしていたからです。出版労連の内部事情も知っていましたが、基本は同じなのです。

 1960年安保闘争で戦闘化した民放労連は、最初、「放送を国民のものにしよう」という宣伝文句を作りました。これに対して、国労の綱領制定にも関わった堀江正規さんが、そんなことできるわけはないよという主旨の批判をしたので、「放送の反動化に反対し、民主化を獲ち取る闘い」と変わりました。

 事実経過を見れば、これも、じり貧の敗北の連続です。民放労連の場合には、出版労連の教科書問題に対する闘い方よりも、少しは反体制的でしたが、やはり、「企業内組合の連合体」の域を出ていませんでした。「反動化に反対」と言いましたが、それだけでは、現状が「反動」ではないかのような誤解をされかねません。事実は、すでに「反動の極」なのでした。特にテレヴィ放送の場合には、最初から全国放送網がアメリカの意図の下に、張り巡らされたのでした。

 私は、それだからこそ、個人として、いくつかの組合新聞の連載記事を書きましたし、単行本としては、1979年に「征矢野仁」の筆名で、『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』(汐文社、絶版)を発表しました。これも含めて、私が出した関連の単行本はすべて、佐野真一さんの『巨怪伝/正力松太郎と影武者たちの一世紀』の資料リストに収録されています。

 詳しくは、その後の『読売新聞・歴史検証』(汐文社、1996)にも記しました。これはまだ残部があります。民放労連の方針を上回った一番象徴的な問題点は、日本のテレヴィ放送網の建設がアメリカの議会での「共産主義との戦い」「B52爆撃機2機分」とい演説の文句にも露骨に表明されていた事情です。

 そこで再び、かなり前の教科書問題のメビウスの帯の指摘を繰り返すと、現在の日本の教科書は、「アメリカ王朝」時代の歴史粉飾なのです。「つくる会」の方は、その粉飾に逆らう「かのように」見えるから、一般受けするのです。「いじめ」っ子諸君!

「つくる会」に対抗して、自分の歴史書を作ってみんしゃい。呵々。


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