送信日時 :2001年 7月 29日 日曜日 8:23 AM
件名 :[pmn 15708] 危ない右顧左眄偽善系の危険に冷や水一杯進呈
「あいつが泥棒だ!」と他人を指して本当の泥棒の自分が逃げるという意味のドイツ語の諺があるようなのですが、私は、それを簡単に挙げた文章を訳したことがあるだけで、実物の探索にまでは至っていません。日本語の諺にも、同種のものがあるのかもしれませんが、これまた探索の時間が取れません。
簡単に言えば「罪人が自分に掛かった疑いを逸らす」ことで、いわば日常茶飯の世渡り技術です。なぜ、これが絶妙な効果を発揮するかと言えば、日本語なら「駄目!」でしょうか、幼児の頃からの条件反射「禁止」学習が行われているからです。「危ない!」とか「いけない!」とかも、その一種です。これを商売にする人、組織は、そこらじゅうに溢れています。
数年前、パリの大型安売り店で安物石鹸を物色していた時、突然、「パ・ラ!」、鋭い女性の声が響きました。ぎくり、振り向くと、よちよち歩きの幼女が、いったん立ち止まり、後ろに向き直って、年増の女性(多分、母親)の方に戻っていきました。鬚抜き文字で記すと、Pas la! でしょう。「そっちは駄目!」の意味です。
この「禁止」条件反射を自分で制御できるようにならないと、大人の歴史議論は成立しません。「つくる会」教科書排撃運動は、この条件反射の狂信的典型です。結果としては、日本の歴史区分の上での「アメリカ王朝」時代の「罪人」、戦後民主主義教科書擁護運動になってしまっているのです。だから、今後も、日米協調を強調する政権が続くことでしょう。イラクやユーゴに同情する日本人は増えないでしょう。
以下、日本の歴史教科書に絶対不可欠の情報を、歴史見直し論では意見が一致するところが多い西岡さんが送ってきたので、抜粋します。私は、以下のホワイトに関する雑誌記事の複写を持っていて、そのことをすでに紹介しましたが、西岡さんは、駄作映画『パールハーバー』との関係で、毎日新聞記事などを紹介しています。以下、抜粋引用です。
[前略]
「パールハーバー」(マイケル・ベイ監督/アメリカ映画)と言う映画を観て来ました。
[中略]
ルーズヴェルト大統領が、真珠湾(ハワイ)攻撃の知らせに驚き、絶句すると言う場面が出て来る。
[中略]
当時の日本の指導者達に最終的にアメリカとの開戦を決意させたのは、1941年11月28日に当時のアメリカ国務省長官コーデル・ハル(Cordell Hull)が日本に突き付けた要求「ハル・ノート」であったと考えられて居る訳ですが、そのハル・ノートの作成を実際に行なったのは、ハル国務長官自身ではなく、実は、当時のアメリカ政府高官ハリー・デクスター・ホワイト(Harry Dexter White)財務省特別補佐官であった事が、今日明らかに成って居ます。
ところが、そのハル・ノートを書いた張本人であったH・D・ホワイト財務省特別補佐官が、何と、ソ連KGBの協力者であった(!)事が、数年前、毎日新聞やNHKによって報道され、又、アメリカでもハミルトン・フィッシュ元上院議員による調査によって、ほぼ証明されて居ます。
この事を数日間に渡って特集した毎日新聞は、1995年11月21日(火)の第一面に、大きな文字でこう見出しを付けて居ます。
日米開戦の引き金
米の「ハル・ノート」
核心部分にソ連工作
--元KGB担当者証言--1995年11月21日(火)毎日新聞日刊第一面
これは、1995年に毎日新聞が、1941年当時、ルーズヴェルトの側近であったホワイトと緊密に接触して居た当時のKGB職員へのインタビューに成功し、3日間に渡ってその内容を特集した記事を掲載した際の見出しですが、毎日新聞のこのスクープは、歴史に残る物に成ると私は思います。
[中略]
[ロンドン20日三瓶良一=前モスクワ支局長]
日米開戦直前の1941(昭和16)年11月、ハル米国務長官が日本に突き付けた言わゆるハル・ノートの原案作成者、故ハリー・ホワイト米財務省特別補佐官は、旧ソ連の協力者で諜報工作の対象者だった事がソ連国家保安委員会(KGB)の元対米諜報担当者の証言で分かった。この担当者は当時、自ら米国に赴いてホワイトに接触、ハル・ノートの核心部分に当たる「日本軍の中国からの撤退」などを、メモの形で渡した、とも証言した。日米開戦の直接のきっかけとなったハル・ノートの背後に、旧ソ連諜報機関の関与があったことが、ロシア側から具体的に明らかにされたのは初めて。
[中略]
毎日新聞のインタビューに応じ、当時の模様を詳細に語ったのは、KGB(当時はNKVD)で戦前から対米諜報副責任者を努めて来たビタリー・パブロフ(81)。
同氏によると、ホワイト工作は英語で白を意味するホワイトの名前の連想から雪(ロシア語でスニェグ)にちなみ、「雪作戦」と名付けられた。同氏は回想録「スパイ半世紀」(未公刊)でも、「雪作戦」と題し対米工作の実態を詳細に記述しているが、その原稿も毎日新聞に提供された。
まず、この作戦を行なった動機について、パブロフ氏は「日本のアジアへの拡大がソ連極東地域への脅威になっていたし、対独戦もいずれあるとの予感があったので、極東での第二戦線が出来るのを避ける事にあった」と指摘。米国を通じて工作を行なうとしたのは「ワシントンを呼び起こし、日本の敵対進出に警告させてはどうかと考えたからだ」と説明した。
[中略]
「雪作戦」がソ連上層部により承認されたのは、40年10月で、ベリヤ内相は、「作戦の全てを秘密とし、この件に関してはいかなる痕跡をも残してはならない」と厳命。作戦は、翌41年5月にパブロフ氏自身が外交官の身分で渡米し、直接ホワイトと接触。アフロメーロフ(ビル)からの伝言を伝える形で、実行に移された。二人の接触はワシントン市内のレストランで昼食を取りながら行なわれ、パブロフ氏はホワイトにソ連側の主張を盛り込んだメモを手渡したと言う。
[中略]
「ハル・ノート」について、予備知識をお持ちでない方々の為に以下のサイトを御紹介しておきます。
http://www.jda.go.jp/j/library/senshi/00-10.htm
[後略]
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