ストーン・ヘンジ
やはり紀元前3000年頃、アフリカ大陸からジブラルタル海峡をわたって、西ヨーロッパにひろがった人々の存在が確かめられている。彼らは、イベリア半島、フランスのブルターニュ、ブリテン諸島などに、有名な巨石文化(イギリスのストーン・へンジなど)や農業遺跡を残している。
このアフリカ起源の人々は、イベリア半島を第二次の起点としたので、イベロ族とか、イベリア人とかよばれている。そして、イギリスの歴史学者、モートンは、彼らについてつぎのように書いている。
「コーンワル、アイアランドおよびウェールズとスコットランドの海岸にそって、紀元前3000年から2000年のあいだにブリテンに移住したイベリア人ないし巨石文化人の残した遺跡が群がっている。
……かれらは、短身、暗色の皮膚、長頭の人種で、……かれらの遺跡の大きさとみごとさとは、かれらが多数のよく組織された人びとであったことを物語っている。なん千人もの人びとが、大きな土塁を盛りあげるのに共同で労働をおこなったにちがいない。そして、輸送路が、整然たるやり方で定住地と定住地とを結んでいるのである。したがって、イクニールド路は、ノーファクのブレクランドにある大規模な火打石採集場たるグライムズ・グレイブズという産業の中心地とエイヴベリの宗教的中心地とをつないでいるのである。丘原地帯の段々は、鍬や鋤で集約的な農業がおこなわれたことを示している。……
イベリア人の社会構造のより直接的な証拠は長い塚である。しばしば長さ200フィート《約60メートル》をこえるこれらの塚は、埋葬地であって、明確な階級区分が存在したことを示している」(『イングランド人民の歴史』、p.16~17)
この民族は、最初は、新石器文化の段階にあったようだ。この時代に、輸送路、火打石鉱山、宗教的中心地(ストーン・ヘンジのこと)、段々畑の集約農耕がみられ、しかも、その起源はアフリカに求められている。おそらくは、サハラ農業文化地帯の出身者であろう。
もっとも、この年代は、アフリカ大陸に古代エジプト上下王国が成立し、オリエントに進出したのちなのだから、イベリア人の遺跡の巨大さは、おどろくには当らない。だが、この民族とつながりのある文化は、アフリカには残されていないのだろうか。ストーン・ヘンジなどの巨石文化のにない手は、アフリカ大陸のどこで、なにをしていたのであろうか。
残念ながら、そういう研究をした学者はいないらしい。漠然と、「北アフリカ」出身を示すのみの場合が多い。
だが、西アフリカにも、同様な巨石文化があった。現在のガンビアにある巨石の遺跡は、イギリスのストーン・へンジよりは小さいが、同じ型のものである。そこには古墳もある。そして、同じような古代遺跡が、ニジェール河中流域にもみられる。しかも、この2つの巨石文化の中心地は、例のアフリカ稲の栽培地の真只中にある。しかし、これらの古代文明については、ほとんど調査がなされていないらしい。フランスの学者がとなえる推定年代も、紀元前1500年から紀元後1000年頃までといったぐあいで、全くまちまちである。わたしはこれも、相当に古いのではなかろうかと思う。
また、サハラ沙漠の中にも、謎の遺跡が残されている。例のウマと戦車のサハラ縦断ルートの南端で発見された遺跡について、木村重信はこう書いている。
「壮大な石造の住居遺跡や墳墓……非回教的な巨大な古墳がいくつかあった。……これらの住居遺跡や墳墓の絶対年代は分らない」(『アフリカ美術探検』、p.92~94)
サハラの砂の中にも、まだまだ遺跡がうもれているにちがいない。やがては、イギリスのストーン・ヘンジを建設した民族の出発地点も、推定できるようになるだろう。
イベリア人のほかにも、やはりイベリア半島の南端から西ヨーロッパにひろがった人々がいる。彼らは、全属精練用のルツボを各地に残した。このルツボが、つり鐘(ベル)をさかさまにしたような形なので、ベル・ビーカー人とよばれている。彼らも、おそらくアフリカ大陸の出身者であろう。
イベリア人やベル・ビーカー人のあとから、ケルト語を使用する民族がやってきた。そして、現在の調査においても、「ケルト語族とくにウェルシュ人は小さくて皮膚も濃色であることが明らかになった」(『人種とは何か』、p.182)。つまり、イングランド南部、ウェールズ地方の住民には、かつてアフリカ大陸からわたってきた先住民の特徴が、残されている。
しかし、以上のような、ヨーロッパ各地へのアフリカ大陸からの移住は、海岸づたいのルートによるものばかりではなかった。まず、最も明確なブロンド人種地帯とされている北ヨーロッパにとんでみよう。