ナルメルの遠征
古代エジプトは、上下または南北2王国という制度をとっていた。最初の統一者、ネブウ・タウイ(2国の王)は、伝承によれば、メネスである。しかし、現在までに発見された最古の上下王国支配者は、ナルメルである。
ナルメルが最初の統一者である、という論拠として、ナルメルの業績を記したパレット(石板または化粧板)があげられている。写真(11ページ[web公開では序章の扉絵])のようなものである。日本の例でいえば、神社にかかげる絵馬のような位置づけになるだろう。これには絵文宇で、ナルメルの名が記されている。
エジプト史学者の加藤一朗は『古代エジプト王国』の中で、この絵を、上エジプトの王であったナルメルが下エジプトを征服した記録だと説明している。これは、エジプト史学者の大勢をしめる考えであったようだ。
ところが、オーストラリアのオリエント史学者、キュリカンの説期によると、この時にはエジプトの上下統一はすでに達成されており、ナルメルが征服したのは、下エジプトではなくオリエントになる。これでは歴史の様相が一変してしまう。
彼は、統一王朝出現以前のエジプトと、オリエント各地との通商関係の事実を、まず、出土品によって証明する。そして、つぎのようにいう。
「これらの最初の物資交換の背景にある政治事情はわからない。古代の通商は非常にしばしば移住または征服というやり方をとるし、またシュメルとナイル間の初期王朝文化にはたしかに類似があることからみて、両地域は何らかの接触をもっていたと想像される。ナルメル王みずからがアジアの秘密を探険するのに重要な役割を演じたのであろう。
というのはカイロ博物舘に所蔵される彼の有名な化粧板[パレット]のある解釈によると、それはトランス=ヨルダン遠征と『双生河』を『飼いならす』ことの記録だとみるからである。その化粧板にはたしかにアジア人が表わされているようだし、またその板の反対測に、長い首をからみ合わせている2ひきの豹は、先王朝時代のメソポタミアのウルク朝に一般に通用したシンボルだった」(『地中海のフェニキア人』、p.15-16)
たしかに、長髪の人物像は、後代のエジプト絵画にでてくる、オリエント(アジア)人の典型である。ファラオの象徴である牡牛の角で破壊されている城壁も、オリエントの都市遣跡と同じ型である。とくに、2匹の豹の説明は、これ以外にはなしえないだろう。
コルヌヴァンは、このパレットに関連して、つぎのように書いている。
「ナルメルのパレットは、まさにエジプトの歴史の開幕をつげる。しかしそれは同時に、世界の歴史のはじまりを年代づけてもいる。事実、紀元前3000年紀のはじめには、ひとりバビロニアのシュメル人のみが、エジプト人と同じように文字を発明し、その名前が伝説にのこされている諸王によって統治される、いくつかの都市を建設していただけだから、である。しかし彼らは、まだ国家を形成しておらず、彼らの都市は、セム系のアカデア人があらわれる紀元前2300年までは、連合することがなかった。その他の、古代世界における文明中心地、すなわちインド、中国、地中海の東海岸地帯は、紀元前2000年紀まで、歴史への登場に達しなかった」(『アフリカの歴史』、p.76)
オリエントからエジプトへの、文化・文明の伝播によって、世界史の開幕を説明しようとするならば、以上の年代的なギャッブの、合埋的な解釈が必要になる。
エジプトのヒエログリフの起源は、ナイル河中流域の岩壁にのこる線刻画にまでさかのぼることができる。そして、ナルメルの登場以前に、上(南部)エジプトで、はっきりした形をとっている。その年代は、紀元前3500年から3000年以上の古さである。上下エジプトの統一の年代のきめ方は、学者によって、約500年もの差がある。だが、ヒエログリフはそれ以前に完成していた。
エジプトの統一は、しかも、上エジプトからなされている。オリエントとは反対側、つまり、よりアフリカ内陸に近い方からなされている。上下王国を合わせた二重帝国という大事業においても、エジプトはオリエントに先んじている。途中から追いこしたという主張は、果して成り立ちうるのであろうか。