そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。(34)
群衆から連れ出した「耳が聞こえず舌の回らない人」の両耳に指を指し入れ舌に唾をつけ、「エッファタ」と命じる。すると、その人は耳が聞こえ喋れるようになった。マルコ福音書にのみ収録されたこの癒しのエピソードは、細部においてこれまでとは異なった描写も目立つが、基本的には他の癒しの記事と同じ構造を持っている。これまでと違った描写とは、癒すべき病人を群衆から連れ出す点や、唾液を使うなどの呪術的な振る舞いが見られる点などであるが、イエスが言葉によって命令すると癒しが起こる点、口止めすればするほどイエスの評判が広まって行く点などにおいて、他の癒しの物語と共通している。そうした相違点や共通点から、様々な解釈がこれまでも試みられてきた。
このエピソードに限らず、新約聖書の物語一般に共通する問題がひとつある。先日、ある教会の機関誌に掲載されていた文章を読んだのだが、そこには障害を負って信仰生活を送る牧師の言葉が紹介されていた。「聖書の中には、障害者の癒しの物語がたくさんあるが、どうも聖書の中の障害者は、イエスや使徒たちを神格化したり、偉大なものとして高めてゆくための道具にされているような気がしてならない。自分は、イエスさまが当時の根強い差別意識を超えて積極的に障害者と交わりを持たれたことには希望を感じるが、障害者が癒されたと言う物語の中にはどうしても障害者が道具にされているという感じを否めない」。
この言葉には、わたし自身共感せざるを得ないでいる。歴史上実在したイエス(史的イエス)が、当時「汚れた者」「呪われた者」とされていた様々な障害者たちに光を当て、共にその苦しみを分かち合ったであろうことには疑いがなく、そのことからわたし自身も希望を得ているものである。しかし、新約聖書の特にイエス物語を書いた人々にとって、それら障害者にとっての苦悩は、本当に自分のものとされていたのか、という点については、疑問を感じざるを得ないのである。
わたし自身は、統一協会の脱会者である。マインドコントロールからの脱出には、様々な精神的トラブルがついてまわることが多いが、わたしも不定期もしくは定期的に、不眠や鬱状態を経験している。同じく脱会者で現在は精神科医を務めているある人物は、この症状をPMCS(ポストマインドコントロール症候群)と名づけ、PTSD(精神外傷後ストレス障害)と似たものだと述べている。福音書に時々出て来る「悪霊追放」の物語は、現代で言うところの精神病の治療を思わせる物語だが、そこに出て来るイエスや使徒たちのように「この人から出て行け!」と叫んでみたところで、そうした症状はなくならない(かえって悪くなることはある)。
また、わたしは小学校三年生の時の負傷が元で、今でも左目がよく見えない。そのことは手術を受けるまでの長い間外見上のコンプレックスであったし、それは今でも写真に撮られるときに緊張を覚えるほどである。また、遠近感がはっきりしないので生活上も不便を感じることが多く、さらに肩こりや腰痛の原因になったりもしている。新約聖書にある「眼が見えない人の癒し」の場面を読むとき、そこに一抹の希望を見出しながらも、しかし実際に見えるようになったわけではない自分の左目のことを意識せざるを得ない。
我々が、イエスの力や教会の希望について読んだり語ったりするときに、陥りがちな危険がこのようなことに表れているのではないか、と考えさせられている。「イエスはすごい!」「キリスト教会は偉い!」ということを語ろうとする余り、本来イエスが注目していたはずの障害や差別の苦悩を、ただの宣伝道具として用いてしまう、その結果そうした苦悩を更に増幅させてしまう、という誤りを犯すことが我々にはとても多いのではないだろうか。特に死者にまつわる出来事に教会が介入するとき、遺族の悲しみを逆手に取るようなことが起こっていないか、ということについては、注意してしすぎることはないようにも思う。
私たちの浪岡伝道所には、幸いにして障害や差別の苦悩と日常的に戦っている人々が集まっている。しかし、良く指摘されていることであるが、日本の大部分の教会からでさえ障害を負っている人や差別に苦しめられている人々が締め出されているという現実がある。我々には、このことから目をそらす事が許されない。先日も、様々なボランティア活動で活躍しているあるキリスト者とお話する機会があった。その方とカルト問題について語ったとき、「オウム真理教にはブラクが集まっているんでしょう」と言われて愕然とした。その人は確かに、様々な救援活動ですばらしい働きをされている方だが、部落差別から解放されていなかった事を知り、大変心が重くなった。こうしたことは、すべての教会を「キリストのからだ」として受け取るとき、浪岡伝道所がそうでないからといって避けて通ることのできない問題であることを意識したいと思う。
今日の箇所で、イエスは人々に「だれにもこのことを話してはいけない」と口止めをしている(36)が、その口止めの理由はこういうところにあるのではないか、と考えている。人々はイエスの口止めにも関わらず、「この方のなさったことはすばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」(37)と熱狂した様子が描写される。我々に癒しを起こす力があるかどうかはさておき、イエスが目指し、また弟子たちに要求した「人々の苦悩への参与」を心に留めつつ、今日の箇所のメッセージに耳を傾けたい。
さて、この箇所を書いたマルコ福音書記者には障害を負う人の苦悩を道具化するという限界はあるかもしれないが、この箇所に訴えられているのは「イエスには、聞こえない耳を聞こえるように、語れない口を語れるようにする力がある」という事柄である。このことには、実際に聴覚障害・言語障害を治療する力をイエスが持っている、ということ以上に、「人々の叫びに耳を傾けない人に辛抱強く語りかけ、発言しても顧みられない立場に追いやられている人の発言権を回復する」という意味が含まれている。障害を持っていて厄介者扱いされている人、差別を受けていて存在そのものを無視されている人、子どもたちや老人たちや貧乏な人たちや女性たちの、「声なき声」に耳を傾けその叫びを代弁するのがイエスだ、ということが訴えられている。イエスの「エッファタ=開け」という命令は、ただ聞かず語らない人に向けてだけ語られたものではない。声なき声に耳を傾けず、語るべきときに語る言葉を持たずにいる我々すべてに向けられた命令である。
それは、旧約において繰り返し語られつづけているメッセージでもある。イスラエルにとっての神とは、どういうお方であったか。なきに等しい弱小民族であったイスラエルを救い、みなしごややもめや在留外国人といった立場の弱い人々を顧みるように、と辛抱強く教えつづけた方であった。イエスが、当時の指導者たちに訴えてきたことは、そうした神への信仰を取り戻せ!ということであった。「飼う者のない羊のような有様の人々」に向けて宣言したのは、あなた方こそ神に愛されるかけがえのない人々だ!ということであった。だからこそイエスのメッセージは、無力な者として十字架に処刑されたイエスの死後も、力を持たず痛めつけられるばかりの人々によって語り継がれてきたのである。
そのイエスを信じる我々だから、なお一層、顧みられることなく忘れ去れて行く一方の「死んだ人々」の歴史に耳を傾けたいと願うのである。様々な苦しみを辿り、多くの思いを抱えて天に召された人々が、つまりもはや我らの言葉が聞かれずその想いを語ることもないと思われている死者たちが、今も変わらずに神に愛されており、今もなお我々の言葉に耳を傾け我々に向けて語りかけている事実を信じたいと願う。そして、それらの人々の願っていた事柄が、すべて神にあって実現する希望を、いま生きている人々に向けて語りたいと願う。
イエスは、我らの「聞こえない耳」と「語れない舌」を開いてくださった。この週の隣人たちとの生活が、神によって祝福されていることを堅く信じ、歩み出して行きたいと願う。
願わくは、この言葉があなたに福音を届けるものとして用いられますように。
(追記)
今年の永眠者記念礼拝には、弘前学院大学から「ハンドベル・クワイア」の皆さんをお招きして、演奏の奉仕をしていただきました。この「ハンドベル・クワイア」が結成されるまで、わたしはちゃんとハンドベルというものを聞いたことがなかったのでした。数人から時には数十人の人が一体となってひとつの音楽を演奏する様子は、音の美しさも手伝ってなかなか感動的です。
ちょっと強引でしたが、この日には東北大学YMCAから3名の学生にも来ていただき、弘前学院の学生と交流していただくと共に、今年の2月から3月にかけて学生YMCAのインドスタディキャンプに参加した井戸海平くんのキャンプ報告もしていただきました。このキャンプでかなりの日数を費やすのが、「アンブマナイ・ボーイズホーム」で共同生活する子どもたちとの交流です。現地の写真をスライドで見ながら、「向こうでハンドベルの演奏ができたらすごいよな」と無茶な妄想がアタマをもたげてきたのでありました。
さて、今回の説教を作るにあたり、大いにインスピレーションを与えてくれたのが、以前にもこの「追記」で紹介したことがあるパトリシア=コーンウェルの『検死官』シリーズであります。変死体の検死を通じて科学的に事件を解明していくミステリィでありますが、なんとわたしの両親もかなりハマっているようで、先日の東京出張の折に未読分の5冊を借りてきて一気に読んだのでありました。
このシリーズは、微細な手がかりの分析を通じて思わぬ犯人像が浮かび上がるあたりが見所なのですが、それ以上に魅力的なのが、女性検死局長のケイ=スカーペッタの人物像です。医者であると共に弁護士でもある彼女は、もはや語る言葉を持たない死者たちに耳を傾け、その言い分を代弁することを使命としています。死者に対する冒涜は、たとえどんなに些細な冗談であっても容認せず、その尊厳を守り抜くために細心の注意を払って証拠集めを続けるのです。
人間の尊厳の回復という、やや観念的な課題が正面から取り上げられています。そして報道を見るとき、取り上げられている事件そのものだけでなく、それを取り上げるマスメディアの報道の方法にすら、その課題への問題意識がきれいに欠如していることを感じさせられます。
わたしたちが日常において他者に向き合うとき、その「尊厳」をどれだけ心にとめているだろうか、と思わずにいられないのでありました。
(大カゼひいて休養中のTAKE)
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