「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。(50−51)
男だけで5000人もの人々に食事を配給した後、イエスは弟子たちと別れてひとりで祈るために山へ出かけた。弟子たちはベトサイダを目指して船出するようイエスに強制されるのである。弟子たちの乗った舟は、夕方には湖の中央に達したが、やがて夜にかけて逆風のために進むことが困難になった。苦労する弟子たちの姿を見たイエスは、湖の上を歩いて弟子たちに接近する。一度は舟のそばを通り過ぎようとするが、その姿を幽霊だと思った弟子たちが怯えて叫び声を上げたので、イエスは弟子たちに言葉をかけて舟に乗り込む。すると風が静まったので、弟子たちは非常に驚いた。
弟子たちは、以前にも突風の最中に舟を漕ぎ、イエスの発する命令によって嵐が静められたという体験をしたことがあった(4:35‐41)。今度はイエスが乗っていない舟に乗って、弟子たちは沖へと漕ぎ出して行ったのであった。イエスが共に乗っていたときでさえもパニックに陥った弟子たちだから、イエス不在のまま漕ぎ出した今回はどれほどの恐れに覆われたことだろうか。
このエピソードが伝えようとするメッセージは明白であろう。弟子たちの共同体(教会)を舟にたとえるなら、イエスなしには夜通し漕いでも目的地に到達できないが、しかしイエスが戻ってくると平穏に航行できるようになる。イエスが共に乗っておられる舟は、どんな嵐にも沈むことがなく、必ず目指す地へとたどり着くことができる。教会をイエスが共に乗ってくださる舟であると考えるとき、特に様々な困難のなかを歩む教会にとっては、「イエスが我らと共にある」とのメッセージは、はかりしれない平安を得ることができるであろう。
逆風に漕ぎ悩んでいる今はそばにいなくても、湖の水面さえ歩いて我らのそばに立ってくださるイエスの姿は、時に幽霊のように恐ろしげに見えることがある
(弟子たちは怯えの余り大声で叫んでいる)。だが、ひとたびイエスが舟に乗り込むと、逆風はたちまち静まるのである。どのような困難に対しても、恐れずに乗り出して行け!との語りかけを読むことができるかのようである。
だが、今日は読まなかった53節に目を移すと、一行は本来の目的地であった向こう岸のベトサイダではなく、むしろこちら岸であるゲネサレト地方にたどり着いているのである。つまり彼らは、一晩中逆風の中を苦労して漕ぎつづけながら、実際には目指す土地にたどり着かなかったことになる。漕ぎ悩む弟子たちの舟を通りすぎようとしたイエスは、つまり本来の目的地へ進もうとしていたが、怯えて叫びをあげる弟子たちの姿を見てそれを中断し、舟に乗り込んで共に別の目的地にたどり着いたのである。
ここには、目的を優先して弟子たちを押し出して行くイエスよりも、弟子たちの恐れに目を留めて目的地を変更しさえするイエスの姿が、主題として描かれているのではないか。イエス自身は嵐を静め湖の上を歩く力を持っているが、「心が鈍くなっていた(52)」弟子たちのために、行き先を変更して舟に乗り込むのである。
弟子たちは湖を歩くイエスの姿を目撃して、幽霊ではないかと恐れて叫び声をあげる。イエスへの信頼さえ失って絶叫する弟子に対してさえも、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語りかけるのがイエスなのである。今怯え、今叫ぶ者たちを見捨てずに、逆に近寄っていくのがイエスなのである。
我々が、平穏無事な航行を進めているかのように思われる平和な日々を過ごしているとしたら、それはイエスが我らと共におられる証拠になるであろうか。むしろイエスが我らと共にいないことを決定的に意味するのではないか。夜明けまで逆風の中に漕ぎつづける弟子たちの舟を、イエスは通りすぎようとされた。弟子たちが恐れの余り漕ぐのをやめたとき、イエスは彼らに近寄って声をかけたのである。
イエスが共に立っているのは、誰のところであろうか。弟子たち、すなわち教会は、イエスによって強いて船出させられる群れなのである。むしろイエスは、教会の歩みを通り越して、今怯え、今叫ぶ向こう岸の者たちを目指して進んで行く。たとえそこが我々の教会と関わりのないところであっても、そこに立ち尽くし、呻き、絶叫する人々がいるならば(そしてそういう人々は、いつの時代にも大勢いる!)、そのそばに立って「安心しなさい」と声をかけるために、我々の「舟」を通り越して進んで行くのがイエスなのである。
このエピソードが、イエスの命令により弟子たちの手で大勢の人々に食事が配られた物語の直後に配置されている点を見るならば、そしてその行為が「飼い主のいない羊のような有様」を呈する大勢の人々の貧窮に参与することを目指すものだった点に心をとめるならば、むしろ「弟子たちは、世の人々の苦悩に参与するために強いて舟に乗せられた」とすら言えるのではないか。逆風に苛まれ湖の中央で立ち往生するかのような困難に立ち向かう人々の恐れとおののきを共有するために、イエスは弟子たちを強いて船出させたのではなかったのか。
我々もまた、イエス不在のまま様々な困難に立ち向かわなければならない。それが教会の本来の姿であろう。我々自身、既に様々な困難や苦悩を抱えている。
それを癒していただく、というのは、我々の正直な希望でもある。しかしイエスは、その先へと果敢に舟を進めることを、我々に求めているのではないか。ここに、教会が目指すべき真の目的地が示されているのである。怯え、叫ぶ者たちを目指して進むこと! 立ち尽くし、呻き、絶叫する人々のそばへと舟を漕ぎ出すこと! そこに一足先に立っておられるイエスと出会うために、我らは逆風に立ち向かうのである。その我らを通りすぎて彼らのところへ急がれるイエスに追いつく為に、我らは向こう岸へと船出するのである。
イエスは、その我らが困難と恐れの余り叫ぶその声にすら振り向いてくださる方なのである。困難の余りイエスへの信頼さえ我らが失おうとするその時には、我々の舟にもイエスが乗り込んでくださるのである。この場に共に立ち、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と声をかけ、逆風を静めてくださるのである。
弟子たちが「不在だったはずのイエス」と夜明け頃に出会う、というこの場面は、まさしく復活の朝に起こったことを伝える場面と酷似した構成をとっている。
敗北と危機と恐怖の真っ只中に、イエスは立っておられるのである。いま敗北のなかに立たされる者・いま危機に取り残されている者・いま恐れの余り叫びを上げる者と共に、イエスは歩まれる。教会に集う我らは、イエスが目指すそれらの人々と出会うために、強いて舟に乗せられるのである。心が鈍いままであるかもしれない。我らもまた怯えて叫ぶかもしれない。それでも我らは舟に乗り、逆風の只中へと漕ぎ出すよう命じられるのである。
イエスがそばに立っておられる人々と共に、その祝福に与るために!
願わくは、この言葉があなたに福音を届けるものとして用いられますように。
(追記)
奥羽教区主催で行われた「社会問題セミナー」に参加しました。直接には、統一協会問題対策小委員会報告の責任を負っていたためですが、六ヶ所村への搬入が強行されてしまった使用済み核燃料の問題(なんと容器の実験データ改竄の問題まで持ちあがってしまいました。核燃料問題は徹頭徹尾これです。「ある程度の原子力利用はやむをえないのではないか」という意見に共感する部分はないではありませんが、こうしたいい加減さの問題を放置して頷くわけにはいきません)、に対する取り組みについても知りたいところでしたし、なにより講師として招かれていた黒多伸枝さんのお話を聞きたかったからの出席でした。
黒多さんは、日本基督教団 北海教区の「アイヌ民族情報センター」で主事を務めておられます。今回の「アイヌ・ネノ・アン・アイヌ−人間らしく生きる−」
と題された講演は、日本ではあまり知られていないアイヌ民族差別の問題を扱ったものでした。
1899年に制定された「旧土人保護法」は、アイヌの生活空間であった土地を「合法的に」収奪し、当時の財閥に払い下げることを目的とした法律でした。北海道のみならず、東北地方において、さらに台湾や朝鮮半島においても繰り返し行われた「植民地政策」の一環なのです(東北や北海道に今でも国有地が多いのは、これが原因です)。結果、狩猟民族であったアイヌは日本人化を強制され、それまでの生活習慣を捨てさせられました。
この法律はようやく1997年に撤廃され、かわりに「アイヌ文化振興法」が制定されました。何と100年近くも「旧土人保護法」が残されてきたわけですが、「アイヌ文化振興法」には、これまでの「国家犯罪」に関する謝罪も保証もない、北海道以外の地域に居住するアイヌ民族を対象外としている、などの問題が数多く残っています。現在のアイヌ人は、一般の日本人と同じ生活を送っていますが、たとえば学校において、あるいは結婚時や就職時において、差別は根強く残っています。
引き続き(たとえばウタリ協会が提唱するような)新しい法律の制定を目指すことを通じ、民族的な被害を救済すると共に、人種的差別の一掃、民族教育と文化の振興、経済的自立対策などに総合的に取り組むとともに、日本国政府が収奪した土地をアイヌの生活空間として返還する必要がある、と黒多さんは訴えておられました(現在でも北海道全面積の40%は国有林であり、返還は充分に可能です。現在は密猟漁として禁じられている狩猟・漁業行為を、アイヌの民族的権利回復の一環として、併せて認めることも必要になります)。また、アイヌの子どもたちの神学・学習教室・交流活動のために「アイヌ奨学金」制度を設け、支援活動を続けている様子も報告されました。
全くどの問題も、根幹はひとつだなあ!と感じたことでした。多数派の権利のために少数者を犠牲に供するのが、この世の「悪」の典型的な姿です。追記冒頭でちょっと触れた六ヶ所村の問題もそうですし、統一協会問題に至っては、教祖の文鮮明に対し「日本による朝鮮半島の植民地支配が生み出した怪物」という印象を深くしています。
問題の大きい小さいや被害の深さ浅さに限らず(もちろん大きく深いものが優先されてしかるべきですが)、「わたしたち自身が、それら諸問題の当事者である」という自覚なしには、なにも解決できません。「多数者に属しているということは、その自覚なしに生きていくことが可能だということである」という点に、まずは思いを深くしたいと思います。
日本キリスト教団北海教区アイヌ民族情報センター連絡先
〒 069−15 北海道夕張郡栗山町中央3−250
日本キリスト教団 栗山教会内
TEL・FAX共用 01237−2−2425
振替 02720-7-29366 加入者名 アイヌ民族情報センター
アイヌ奨学金キリスト教後援会連絡先
〒 060 北海道札幌市北区北7条西6丁目
北海道クリスチャンセンター内
TEL 011−716−5334
振替 02720-4-50088 加入者名 アイヌ奨学金協力会
(北海道開拓者の子孫でもあるTAKE)
ファクス 0172-62-8506
電 話 0172-62-5763
E-mail CYE06301@nifty.ne.jp
(追記その2)
ついにホームページを開設しました。まだまだ工事中の部分も多いですが、アクセスできる方はhttp://member.nifty.ne.jp/namctakep/index.htmへどうぞ。
(心の底からデジタルカメラが欲しくなったTAKE)