竹迫牧師の通信説教
『愚かさが愛でられた』
マルコによる福音書 第5章21−43による説教
1998年9月13日
浪岡伝道所礼拝にて

「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。(35−36)

病気で苦しんでいるとき、「この病気が治るなら、死んでも構わない」という矛盾した気持ちになることがある。冷静に考えるなら、「病気の苦しみから解放される」ということは「健康を取り戻す」という意味のはずだが、病気がもたらす耐えがたい苦痛や不安は「健康」というあやふやなイメージをどこかへ吹き飛ばしてしまうのである。我々の心は、まさに「苦痛から逃れる」という一事にのみ関心を集中し、命があるからこそ苦痛が生まれるというパラドックスを凝視する。そして、たやすく「死んだほうがマシ」という思いに囚われてしまう。

会堂長のヤイロという人物がイエスのもとに駆けつけてひれ伏すところから、今日の聖書箇所が始まっている。ヤイロの娘が死にそうな病気にかかっており、あらゆる病を癒すことで評判のイエスの力を借りようとしたのであった。しかしヤイロは「会堂長」である。会堂とは、もちろんユダヤ教の「シナゴーグ」のことであるが、安息日の礼拝を催すほか、子どもに律法を教育する学校としての機能や、裁判所としての機能も備えた、ユダヤ人共同体の中心に位置する機関である。その「会堂」を治めるのが会堂長である。当時の社会の中では、格段に地位の高い人物だったのである。それだけでなく、この「会堂」こそが、安息日に癒しを行った(つまり安息日律法に違反した)イエスに対する明確な殺意が渦巻いた舞台だったのである。

すでにすべての会堂に、イエスという人物に関する警告の通達が出されていたものと想像できる。病の癒しという異能力を用いて人心を惑わし、律法の破壊を推進する危険人物として、イエスの名前が広く知られていたのである。会堂長は、各種礼拝を執行し、また会堂の維持・運営の責任者であるから、当然イエスに対する敵意を共有する人物であったはずである。にもかかわらず、ヤイロはイエスのもとにひれ伏し「どうか、おいでになって手を置いてやってください」と懇願するのである。病気のために死にかけている自分の娘を救いたい一心でのことだったのだろう。彼の振る舞いは、イエスに敵対しようとする仲間たちへの裏切りであり、恐らくはヤイロ自身ももともとはイエスに対する批判や敵意を強く持っていたはずだが、イエスの前にひれ伏すヤイロは、それらのすべてをかなぐり捨てている。社会的な「死」をもいとわず、娘の命のために走り回る必死の父親がここにいる。

病気のもたらす苦痛や不安は、その本人のみならず、本人を囲む人々にも苦悩を与えるのである。そして、病気にかかっているその本人が「苦痛からの解放」と引き換えに自分の命を差し出すことをも恐れないのと同様に、その本人を愛する周囲の人々もまた、どんな犠牲をもいとわず、「死んでもいい!」と、その苦痛から逃れるためのあらゆる試みに、乗り出すことが起こり得る。ヤイロの行動も、そうしたものであった。

このヤイロがイエスを連れて自分の家に向かう途中、12年もの間病気に苦しんでいた女性との出会いが起こってしまう。当初、ヤイロもイエスもこの女性のことはまったく意識の外であったが、病気の治療がうまくいかずに身を持ち崩してしまった彼女もまた、癒しを求めて必死であった。群集に紛れ込んでイエスの服に触れたとき、彼女の病気は癒された。イエスは、癒しを体験した彼女を群衆の中から見つけ出し、対話する。体が癒されたばかりでなく、癒しの出来事に対する恐れの気持ちさえ打ち消されて、彼女は平安を取り戻したのであった。

彼女とヤイロとは、普通であればまったく出会うことがなかった人々である。

ヤイロは高い身分で彼女は無一文である、という社会的な階層の違いだけではない。レビ記15章によれば「生理期間中でないときに、何日も出血があるか、あるいはその期間を過ぎても出血がやまないならば、その期間中は汚れて」いる女性とされていた。「会堂」に関する責任を負うヤイロと、宗教戒律上「汚れている」とされる彼女は、宗教上まったく別次元の存在として断絶されていたのである。

しかも彼女の病気は12年に及んでいた。今死にかけているヤイロの娘も12歳になろうとする年齢であることが説明されているが、今救いを必要とする自分の娘が生まれたときから、この「出血の止まらない女」とヤイロとは断絶した生活を送っていたのであった。

ヤイロにとって「イエスと出会う」ということは、たとえばこの「出血の止まらない女」を始めとする、これまで見ることも知ることもなかった人々と出会うことだった。彼女のほかにも、大勢の人々が癒しを求めてイエスに押し迫ってきていたのである。宗教上の「汚れ」を負った人々も多くいたであろう。ヤイロは、自分の「会堂長」という職務のゆえに遠ざけられていた人々との出会いを、ここで一遍に体験しているのであった。この「出血の止まらない女」との出会いに見るように、イエスの視線は埋もれている1人1人を徹底して見つめつづけ見出そうとするものであった。恐らくヤイロは、始めのうちは気が気でなかったに違いない。今にも死にそうな自分の娘のところにイエスを伴う道行の途上で、イエスは出会う1人1人に目を注ぎ、言葉をかけ、癒しを与えつづけたに違いないからである。その歩みは遅々として進まず、「汚れたものに構わず、わたしの娘を優先してくれ!」と願う瞬間も多くあったに違いないのである。

しかしヤイロは直に気付いたはずである。他のすべての者たちに目を注ぐイエスであったからこそ、イエスがヤイロの願いをも聞き入れたことを。ファリサイ派の人々を中心に、すでにイエスを殺害する謀議が始まっており、イエスがそれに気付いていなかったとは考えにくい。ヤイロもイエスに敵対する立場の人物である。そのヤイロの願いが聞き入れられたのは、娘のためになりふり構わずイエスの前にひれ伏した、その必死さにイエスが目を止めたからである。ヤイロ自身もなりふり構わず助けを求めたが、同じようになりふり構わず助けを求める人々がひしめき合っていた。それぞれの信念も社会的立場も常識もかなぐり捨てて、言わば救いを得るために「愚か」になった人々に、イエスは目を留めるのである。

イエスは「出血の止まらない女」に「あなたの信仰があなたを救った」と言葉をかけている。彼女の「服にでも触れれば癒される」という考え方は、ヤイロからすればおよそ信仰と呼ぶに値しない、呪術的なあり方であったはずである。しかし病気のゆえに、12年もの歳月と、すべての財産と、神との交わりを失っていた彼女を見て、イエスに対するその愚かしいまでの希望の置き方に、ヤイロ自身も十分共感するものがあったのではないか。恐れながらもすべてを打ち明ける彼女の姿に、ヤイロは「もうひとりの自分」を見ているような思いに捕われたのではないか。

他のすべての者たちに対するのと同じように、イエスが自分に目を注いでくれている。だからこそイエスは、自分の娘のために歩き始めている。むしろヤイロは、目の前で癒しが起こるそのたびごとに、イエスこそが自分の娘を救い得るとの確信を逆に育てたに違いないのである。

この「出血の止まらない女」が、身も心も癒されたのと引き換えのように、ヤイロの娘が死んだという知らせが届く。ヤイロの必死の行動も、死に行く娘を救うことができなかった。ヤイロはその知らせをどのように聞いたのだろうか。無論、「間に合わなかった」と落胆し、自分の努力や決断が遅きに失したこと、そのすべてが無駄になったことを悔しく思う気持ちは強かったことだろう。だがもはや、「あなたがノロノロと歩いていたからだ!」とイエスをなじる気持ちにはなれなかったのではないか。

会堂長という立場を捨てたヤイロの愚かさを諌めるかのように「もう先生を煩わすには及ばないでしょう」と語る使者の言葉をそばで聞いていたイエスは、「恐れることはない。ただ信じなさい」と言葉をかける。すでに死んでしまった娘に「死んだのではない。眠っているのだ」と治療を施そうとするイエスの姿を、集まっていた人々はあざ笑ったが、それは娘のために愚か者になってしまったヤイロその人に対する嘲笑でもある。もちろんヤイロは、自分の愚かさを十分に承知していただろう。だが、彼の心を支配していたのは「自分はもっと早くに『愚か』となるべきであった!」との思いだったのである。イエスの評判を聞いていながら、会堂長という立場上イエスを頼れなかったヤイロは、みすみす娘を見殺しにしてしまったも同然であった。「娘のために愚か者となることが、どうしてできなかったのか」とヤイロは考えつづけていたに違いない。

しかしイエスは、死んでいた娘に言葉をかけ、甦らせたのであった。人々は驚愕し、それに続いて激しい喜びに満たされたかもしれない。しかしヤイロ自身はこの出来事を、むしろ静かな喜びをもって受け入れたのではないだろうか。「愚かさ」にもたどり着けなかった、二重に愚かな自分を、神は顧みてくださった。

二重に愚かであればこそ、神は自分に目をとめ、娘を救ってくださった。イエスのまなざしに垣間見た「神の愛」と、それが自分にも注がれているということを、ヤイロは静かに感謝したに違いない。

愚か者のように、自分と自分の愛する人々の救いを求める我らでありたいと願う。

願わくは、この言葉があなたに福音を届けるものとして用いられますように。


(追記)

9月17日、葛西武弥氏が召天されました。葛西氏は、わたしがこの三月まで兼務していた八甲田伝道所の信徒です。19日に、現在の担任牧師である江戸 清先生の司式により葬儀が執行されました。

葛西氏は、戦後開拓された農村である「沖揚平」の開拓団長でした。八甲田連峰に分断された津軽と南部を結ぶ道路建設のために、満州や樺太からの引揚者を棄民的に投入して建設されたのが、この「沖揚平」でありました。積雪4メートルを超える地域柄、開拓は困難を極めたといわれます。日本基督教団による開拓伝道資金を投入して八甲田伝道所が設立され、賀川豊彦氏から洗礼を受けていた葛西氏も、会員となりました。

一昨年、ようやく城ヶ倉大橋が完成し、開拓当初からの計画であった「津軽と南部を結ぶ道路建設」は50年がかりで達成されました。が、「沖揚平」の農業は危機に瀕し、毎年消滅の危機につながる不安に襲われています。

良くも悪くも、ひとつの歴史の節目に立ち会ったのだ、との思いを抱かざるを得ません。在任中のわたしには何の働きもなし得ませんでしたが、現在八甲田伝道所を中心とする「農村センター構想」の第1弾として、八甲田伝道所および農村センターの会堂建築が始まっております。雪に閉ざされる冬期間に生産する農産加工品の実験施設を備え、「沖揚平」の農業の活性化に教会として取り組もう、という企画です。

葛西氏はその完成を待たずに召天されました。葛西氏をはじめとする多くの人々の祈りを受け継ぎつつ、今を生きるわたしたちがあるのです。

(なぜか未だに葬儀を執行したことのないTAKE)