イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。(33−34)
小さなものが大きなものに打ち勝つ。小さなものが大きなものを凌駕する。これを「逆転」という。聖書にはよくこの逆転が語られる。小さく弱かったイスラエルが強大なエジプトから空手で脱出したという故事をはじめ、やせた土地に住みながら豊かになったアブラハム、次男なのに家を受け継いだヤコブ、など、創世記を始めとして「逆転」を語るエピソードは数多い(とりわけ有名なのは屈強な戦士であったゴリアトを打ち倒した羊飼いの少年ダビデのエピソードであろう)。
聖書ばかりが逆転劇を報告するのではない。『カチカチ山』や『猿蟹合戦』などの民話には、力弱く一方的に敗れ去った者たちが逆転して勝利を得る様子が物語られる。ちりめん問屋のご隠居が実は先の副将軍であったとか、遊び人の金さんが実はお奉行さまであったとか、とにかくそもそも我々は「逆転劇」を見るとスカッとするのである。
今日の箇所は、神の国を「種」の成長になぞらえて説明する箇所であるが、何よりも小さな(ごま粒よりも小さな)からし種が、何よりも大きな(鳥が巣を作るような)野菜に成長する、という逆転に目を引かれる。それは、逆転劇が好きな我々だから、というばかりのことではないだろう。からし種は、新約時代のユダヤ人の間では、「小ささを表す象徴」として用いられたという。このたとえには、「何よりも小さかったものが、あっと驚くような成長を遂げて何よりも大きくなる」という逆転を語る意図が明確に込められているのである。
イエスの周囲に集まっていた人々は、大国ローマによる支配を嫌っていたのであり、この「からし種のたとえ」に何らかのカタルシスを覚えたに違いない。これを書き記す舞台となった原始教会においても、少数弱者であるキリスト教徒たちの働きが、いずれ大きな逆転をもたらすという希望を具体的に語るエピソードとして広く読まれたに違いない。現状に満足できない人々、あるいは現状に痛めつけられている人々こそが、逆転劇からカタルシスを得るのではないだろうか。
しかしこのたとえにおいては、そうした逆転を演出するのは種を蒔く「人」ではない、とされている点に注目したい。「人」は種を蒔くが、どうして種がそのような成長を遂げるのか「その人は知らない(27)」とされている。同様に、「人」が苦労して育てたから大きくなった(逆転した)とも言われてはいない。
蒔かれた種は、種自身の持つ力によって「どんな野菜よりも大きくな(32)」るとされるのである。
つまりこのたとえには、種を蒔いた「人」が、それを育てるにあたって当然傾けるに違いない「手入れ」の要素が一切欠落しているのである。畑を耕し、雑草を抜き、肥料をやり、時には水さえまくであろう「人」の働きには一切触れられない。「何よりも小さかった種」は、それ自体の内包する成長力と、その成長を促す土の力によって「何よりも大きな野菜」となるのだ、と述べられているのである。
これが「神の国のたとえ」として語られていることを考えるとき、神の国を来らせるのは種を蒔く「人」の努力ではない、と断言されていると考えざるを得ない。人は、種を蒔いた後は、鎌を入れて刈り取る収穫のときまで、することがない、ということになる。
イエスの時代には、武装蜂起してローマ帝国を打ち倒しユダヤの独立を勝ち取ろう、と考えるテロリストたちが人気を集めていた。マルコ福音書の成立は、そのような武装蜂起がとんでもなく悲惨な敗北に結びついた後の時代であり、他にも「ユートピア志向」を前面に押し出して蜂起するグループが後を絶たない時代だったと言われている(そして、こうした「ユートピア志向」のグループは、今日に至るまで絶えることなく出現しつづけている)。聖書に証しされる「最後の審判」やイエスの語った「神の国の到来」は、そのような形でもたらされるのではない、というとが示されているのである。
むしろこのたとえは、それを聞く(読む)人の関心を「種を蒔くか蒔かないか」に集約させようとしているのである。そして、種を蒔いた人こそが収穫を得るのだ、それも、空の鳥が巣を作れるほど大きな収穫を得るのだ、と語ろうとしている。その収穫を得るか得ないかは、ひとえに種を蒔くか蒔かないか、にかかっているのである。種を蒔く人は、もちろん収穫に希望をおいて種を蒔くのである。
つまり、「どんな種よりも小さな種に過ぎないものに、将来の希望を置くか置かないか」が問われているのである。
無論、収穫を期待して種を蒔くならば、その種が大きな収穫に結びつくよう手入れを怠ることはできなくなるであろう。その種にかける希望が大きければ大きいほど、人はその種の成長に目を注ぎ、考えられる限り、なし得る限りの手入れを施すことであろう。だが、そうした種の成長のプロセスにおける手入れは、種を成長させる土の力と、種自身の持つ成長する力があってこそ報われるのである。
つまり、「人」の努力は、その種にかける希望の大きさの反映に過ぎない!
小さな種がもたらす収穫に大きな希望を置くものは、その希望の反映として、種の成長に心を配り手入れを施すのである。努力が希望を生み出すのではない。
「この小さな種こそが大きく成長する」との希望があるからこそ、「人」は種を蒔く。その希望は、「人」の努力の以前に存在するのである。小さな種にかける希望があるからこそ、「人」は手入れの努力に乗り出して行くことができるのである。
神の国は、我々人間の努力によって成立するものではない。それよりも、今はどんなものよりも小さいとしか見えない「神の国の希望」に、どれほど自分の望みをかけることができるか、が問われているのである。「こんな小さな種、蒔くだけムダだ」とまったく希望を置かない人、「こんな小さな種だから、ちょっとでも収穫があればマシ」と、少しの希望しか置かない人、当然彼らは、まったく手入れをしないか、その希望に応じた小さな手入れしかしないであろう。そして、与えられる収穫も、それに応じたものになるに違いない。
「この種によってこそ私は生かされる!」と確信する人が、そこに大きな労力を傾け、収穫の喜びに与るのである。
「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた」(33)。「聞く力」とは、「理解力」のことであろうか。「洞察力」のことであろうか。それとも「記憶力」であろうか。
この部分は、「人々の『神の国』に賭ける希望の大きさに応じて」と読みかえるべきである。イエスが「御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された(34)」のは、教えを的確に理解し洞察し記憶する能力を持った人々を弟子として選んだからではなく、イエスの教え(「神の国の教え」!)にもっとも大きな希望を置く人々こそがイエスの弟子とされたに違いないからである。彼らは、自分の心にイエスの「神の国の教え」を受け止めたのである。他の何に比べても小さく思われたであろうそれを、他の何よりも大きな収穫をもたらすものとして受け止めたのである。そして、自分もその種を蒔く者として立ち上がる決意をした。
種蒔きの働きに参与することは、その種がもたらす実りに最大級の希望を置くということである。我々にとっての「神の国」とはそのようなものだ! とイエスは語ったのである。
「このような自分ではダメだ」「こんな状況では不可能だ」という思いに囚われる我々である。イエスの教えに耳を傾けて、一歩を踏み出したいのである。
願わくは、この言葉があなたに福音を届けるものとして用いられますように。
(追記)
出張している間に、同居人の家族が牧師館のあちこちを修繕してくださいました。外壁が崩れて水道管が剥き出しとなっていた台所の出窓付近も、断熱材が入れられ壁が復活しました。冬期の水道管凍結も、これでずいぶん避けられるのではないかと思います。歪んでいた窓枠も補強されたので、夏でも閉め切りになっていた台所のサッシが開閉できるようになり、風が通って涼しさを感じるようになりました。出張から帰ってくると出来上がっていたので、驚くやら嬉しいやら。
で、このところ台所の窓は開けておくことが多くなったのですが、いつの間にか黒い物体がすぐそばに落ちているのを発見しました。わたしの視力では屋内から見極めることができなかったので、外に出てよーく観察してみると、なんとカラスの死骸だったのでした。そういえば、見逃した生ごみもないようなのに、ヘンな臭いが漂っているなあとは感じていたのです。まさかカラスが死んでいるとは!
異様な臭気にイヌどもも恐れをなして近寄りません。大急ぎで穴を掘って埋めたのですが、しばらくすると、台所の臭いも消えたのでありました。
カラスが死んでいるところなんてはじめて見たような気もするのですが、いろんな野生動物がいますから、たまにはカラスが死んでいたって不思議はない、と思い直しました。直したばかりの台所の窓下をわざわざ選ぶこともないだろうに、とも感じましたが、「カラスの勝手でしょ〜」という古い歌を思い出して、ひとりで笑ってしまいました。
浪岡にやってきて7年目の夏が終わろうとしています。少なくとも、行きずりのカラスを埋葬することはできたのだ、と何となく考えました。
(「いや、イヌの埋葬もしたっけな」と思い出したTAKE)