「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」(11−12)
イエスは、湖のほとりに集まった「おびただしい群衆」を前に、舟に乗って教えを語った。その際、イエスは「たとえ話」を語ることによって教えを宣べていた。そのひとつが先週読んだ「種蒔く人のたとえ」であるこの4章には、ほかにも「たとえ話」がいくつか語られるが、イエスはそれらのたとえ話を「聞く耳のあるものは聞きなさい」と結んだようである。
今日注目したいのは10−12の部分であるが、ここではひとりになっていたイエスのもとに「イエスの周りにいた人たち」が12人の直弟子と共に集まってきている。この「イエスの周りにいた人たち」というのが具体的にどんなグループなのかは不明であるが、直接には、3:32に記されるイエスの周りに座っていた「大勢の人」と同一であろうと考えられる。そこは、イエスの母と兄弟たちが来て「外に立ち」、人づてにイエスを呼ばせる場面である。そのときイエスは、自分の周りに座っている人々を見回して「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と述べる。
実の母と子、実の兄弟姉妹の関係を大切に考える人々にとってはクールな印象を与えるイエスの言葉だが、もしその場に肉親との関係から疎外された人がいたとしたら、その人にとっては強烈に「熱い言葉」として聞かれた宣言であっただろう。血筋に拠らない家族! イエスの弟子たちの中には、病のために家族から見捨てられた者もいれば、自分から家族を捨ててイエスに従った者もいた。彼らは、「血縁を超える何か」をイエスに見出したというより、「血縁に縛られた自分の解放」をイエスに求めたのではないだろうか。カルト問題においても、カルト団体の共同体が魅力を感じて取り込まれる人の中には、もともと自分の血縁関係に基づく家族のあり方に批判的であり、また家族関係によって傷つけられている人々が多くあるのを見る。イエスの時代には家族共同体が社会経済の基盤とされていたから、家族から受ける重圧の密度は今日よりも大きかったかもしれない。
さて、そうした動機はともかくとして、イエスの周りには大勢の人々が集まってきていた。その数は、舟に乗ったまま岸辺の人々に語らねばならないほど多かった。集まった人々は、イエスの治療行為に期待をかける者が大半であったろうが、イエスの教えに心を動かされる者も増え始めていたに違いない。その中から、イエスが謎(11で「たとえ」と訳されているのは、元来「謎」を意味する言葉だという)を提示すると、解散した後もなおその説き明かしを求めて集合するグループが成立していた。彼らの自覚は「自分たちは新しい家族だ」というものであったのかもしれない。イエスが特に選んだ12人の直弟子と共に行動する人々であり、この個所でも両者は並列に記されている。今日の聖書個所は、そのような人々とイエスとが対話する場面なのである。
イエスはこのグループに向かって「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される」と語る。この言葉に違和感を覚えざるを得ない。ここに集まった人々は、イエスのたとえの意味が「わからなかった」のである。だからここに集まって「たとえについて尋ねた(10)」のである。それなのにイエスは「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられている」と述べているのである。
旧約聖書の『イザヤ書』が引用されている。
『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦される事がない』
このグループと他の群集との違いは、どこにあるのだろうか。強いてこの引用から見つけるとするならば、「立ち帰って」いるか否かの違いがあるかもしれない。『イザヤ書』においては立ち返る対象は神であるが、マルコ福音書においては「神の心に適う者」(1:11)としてのイエスに帰属することになる。その意味では、確かにこのグループは「立ち帰って」いると言えるかもしれない。しかし彼らにしても「見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず」という状態は、他の群集となんら変わることがないのである。イエスはいったい何を「打ち明け」たというのであろうか。マルコ福音書に書かれていない特別な教えがあったのだろうか。
イザヤ書からの引用は、イエスが救い主(=キリスト)であることは十字架の場面まで閉ざされている事柄である、ということを示している。イエスがキリスト(=救い主)である、という事柄が閉ざされているゆえに、人々はその神性を認めず殺害に至るのであるが、それは「神の国の到来」を告知するイエスに対する拒絶であり、つまり「神の国」そのものに対する拒絶である。この時点では、「イエスの周りにいた人たち」ばかりか12弟子にさえイエスのキリスト性は閉ざされた事柄であって、彼らがたとえの意味を了解し得なかったのは、その文脈からすれば当然ということになる。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられている」とされながら、しかし彼らがたとえの意味を了解していないということは、やはりこの時点では12弟子も「イエスの周りにいた人たち」も、すべて「外の人々」とされるグループと何ら変わる点がないことを示しているのである。
その上、十字架の場面を先取りして読むならば、このグループの中からイエスを十字架に引き渡す裏切り者が現れたのであり、またこのグループの大半はイエスの逮捕と同時にイエスを見捨てて逃げ去るのであり、そして十字架の最後までイエスのもとにとどまるのは、「取るに足らない存在」として当局からも無視されていた女性たちだけである(このことをもって、女性たちの忠実さの証拠とするわけにはいかない。彼女らは逮捕する必要がないほど無力であったから放置されていたに過ぎず、彼女たち自身もそれを自覚していたはずである)。つまり、このグループが事実上「外の人々」と質的には変わるところがないにも関わらず、イエスはこの場面では彼らを自分の家族として扱い、「外の人々」とは区別しているのである。
ここではこのグループを、便宜的に「内の人々」と呼んでおく。この「内の人々」と「外の人々」とを区別する要素は、たったひとつしかない。それは、群衆が解散した後もなお「たとえ話」の説き明かしを願って集まっているという一点である。「選ばれた」という事実がすなわち「内の人々」とされる要素ではない事は、12弟子もこのグループと共に「たとえについて尋ね」ている(つまりたとえの真意を了解していない)点から明らかである。
イエスは「たとえ話」の結びに、「聞く耳のある者は聞きなさい」と語った。
「聞いても聞かなくてもいいよ」と言っているかのようである。あるいは、そのたとえに何らかの解釈を加えることで、「自分には聞く耳がある」と自認することを許しているかのようである。そしてそのように受け取る人は、なおも教えを受けるために集まったりはしない。解散後もなお集まるのは、「自分には聞く耳がない」と感じて、しかもそれをイエスに告白する者である。「謎」を「謎」として引き受ける者である。「外の人々」と「内の人々」とを区別するのは、「神の国の秘密がわからない」と自覚する者であるか否かであり、自分の意思でイエス自身に説き明かしを求めているか否かの違いにかかっている。
「聞く耳のある者は聞きなさい」と問い掛けられた人々の中で、なお「イエスに聞きたい」と強く願う者たちが集まるのが教会の姿である。その人々に、イエスは「あなた方には神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々にはすべてがたとえで示される」と語るのである。われわれがイエスの教えを理解できないとしても、イエスの言葉を聞き「聞く耳を持ちたい」と願う限り、イエスは我々を「内の人々」として扱う。そこに裏切り者が含まれていても、苦境にあって信念を曲げる弱い者がいても、とるに足らぬほどの無力な者ばかりであっても、「聞く耳を持ちたい」と願うことそれ自体がイエスの選びへの応答とされるのである。
我々は、何のために選ばれるのであろうか。それは「外の人々」が抱えている、イエスを見ながら認めず、イエスの教えを聞きながら理解せず、立ち帰って赦されることのないままにイエスを十字架につけ殺害するという「罪」を告発する証人となるためである。そしてそれ以前に、キリスト殺害に結びつく救い主(神の国の告知)への拒絶という罪が、自分の内側にも息づいていることを発見し、更にそれがイエスの死と復活において赦されているということを発見するためである。そして、同じ罪を宿しイエス殺害と同じ悪を繰り返すこの世に対して悔い改めを呼びかけ、またとりなしを祈るためである。
「神の国は謎である! 自分にはそれがどんなものかわからない」という自覚と、その謎の説き明かしをイエスに求めつづけることとが、我々を「外の人々」から切り離す。しかし我らは同時に、「外の人々」と同じ人間として、「外の人々」への奉仕に派遣されるのである。「イエスの家族」として!
願わくは、この言葉があなたに福音を届けるものとして用いられますように。
(追記)
映画『タイタニック』をようやく観ました。知人の説教者たちが相次いで話題として取り上げたので、やはり観ておくべきか、と考えたからです。
監督を務めたジェイムズ=キャメロンは、以前は好きな監督のひとりでした。特に注目するようになったのは『ターミネーター』を観てからで、低予算を補うメリハリの効いた演出の巧みさもさることながら、SFアクションの形をとりつつ実はラブストーリィであるという変化球的な表現の新しさに驚きを感じたからでした。続く『エイリアン2』では、ストーリィ的にも演出的にもあらかじめ限界を付与されがちな「パート2モノ」でありながら、前作に対する独自な解釈を下地に新しい世界観を構築する力量を、やや泥臭い演出ながらも見事に発揮しているのを見て、「これはすごい」と感激したのでありました(残念ながら、『エイリアン3』においては、キャメロンの世界観はすべて淘汰されてしまいましたが)。
そして『アビス』という作品。事故で閉じ込められた深海作業基地で異星人と遭遇するという特殊なシチュエイションの中で核戦争の危機に巻き込まれる人々の戦いを描いたものでした(最初に公開されたときには「核戦争の危機」はすべてカットされていましたが、後に出た完全版では復活してました)。なぜ「異星人」なのかが良く見えず、主人公がキャリアウーマンの妻と離婚寸前だったのに、主人公の愛情だけが肯定されて復縁してしまうくだりには疑問を感じました(実はこのとき、キャメロン監督自身が離婚問題の渦中にあったそうです)が、絶対的な極限状況の中でなお戦い抜くというドラマは十分に魅力的でありました。
ところが、かなり期待を寄せていた『ターミネーター2』が前作以上のドラマ性を持っていなかったこと、続いて公開された『トゥルー・ライズ』が「国家のために働くお父さんを中心に家族が立ち直る」というお話でしかなかったこと、などから、キャメロン監督の思想には前進が見られないと感じ、急速に関心が薄れていたのでありました。
で、『タイタニック』であります。豪華客船の沈没という壮大な舞台仕掛けに、確かに「金がかかっている」ことは明白でした(無論、エンターテイメント作品としては文句なしの一級品であると思います)が、「なぜタイタニック号が舞台でなければならないか」が良くわからない映画でした。階級を超えた恋愛を描くのに、階級社会のミニチュアであるタイタニック号(下層船室に下層階級が押し込められる)の沈没という舞台装置が象徴性を帯びていることは認めますが、積極的な理由はただそれだけのようにも思われます。
物語は、タイタニック号と共に沈んだと言われるルイ王朝ゆかりの宝石を捜す探検家が、生存者の語りを通じて沈み行くタイタニック号に展開された悲恋物語を聞くという形で進みますが、壮大な人間ドラマに接したこの探検家が心を入れ替えるという結末にまったく説得力を感じられないのは、恐らくキャメロン監督自身に「多数の死傷者を出したタイタニック号遭難という史実をダシにしている」という自覚がないからであろうと感じます(『シンドラーのリスト』という映画でも、スティーヴン=スピルバーグ監督に対して同じような問題を感じています)。全編を通じて流れている「生存者が移住したアメリカは、階級のない自由な新天地である」という思想も、根拠がないばかりか悪質なウソですらあります(製作者は違いますが、『インディペンデンス・デイ』という宇宙からの侵略者との戦いを描いた映画の悪質さも、同様のものでありました)。
『タイタニック』に関して、それほどたくさんの評論を読んでいるわけではありませんが、こうした批判と出会ったことがないという事態には、かえって驚きを感じています(もし同様の指摘が誰かによってされているとしたら、どうか情報をお寄せください)。『タイタニック2』の企画が持ち上がっているとの情報もあります。そのニュースの真偽は不明ですが、仮に次作が製作されなかったとしても、そのような情報が好んでやりとりされるという現象を、単に主演男優の人気に帰して説明するわけにいかないと感じています。
ずいぶん前のことですが、他教派の説教者による洞爺丸号沈没の出来事を取り上げた説教を聞いたことがあります。洞爺丸号に乗り合わせていたキリスト教宣教師たちの身を呈した活躍が伝えられています(うち1名は、当時の学生YMCAの協力主事でした)が、まるで我が事のように語るその説教者に対して、言い知れぬ嫌悪感を覚えたものでした。特に聞くに耐えなかったのは、海に投げ出された宣教者が、同様に波間に漂う遭難者に「神を受け入れますか?」と迫るくだりでした。その遭難者がキリストによる救いを信じて沈んでいった、というのがその説教の山場なのですが、真偽はともかくとして死ぬ前に信仰を受け入れたというエピソードに涙する人々が多くあったのにも驚いたものでした。「信仰者」たちの自覚されない特権意識のなせる業であろう、としか考えられません。
『タイタニック』を観るまでは、「醜悪なキリスト教の姿」と捕らえていましたが、いまや日本中が同様の特権意識を自覚しないまま持っていることの証拠ではないのか、とさえ疑うのであります。
(室蘭行き「びなす」号にてこれを書くTAKE)