竹迫牧師の通信説教
『選ばれた人々』
マルコによる福音書 第3章7-19 による説教
1998年6月28日
浪岡伝道所礼拝にて

そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。(14−15)

多くの群集がイエスのもとに押し寄せ、イエスに従ったと記されている。その群集には、大きく分けて2種類の人々がいた。一方のグループは、これまでガリラヤ全土で展開されてきたイエスの「宣教と癒し」の働きを直に目撃したガリラヤの住民たちである。そしてもう一方のグループは、イエスが足を踏み入れたことのない地方からやってきた人々であり、彼らはイエスの働きを直接見たわけではないが、イエスについての話を伝え聞いて集まってきたのである。心から癒しを求める病人たちが大勢おり、その数は「群集に押し潰されないために」湖に逃れるための船を必要とするほど多かった。

湖に逃れると言っても、イエスはこれらの群集を見捨てているわけではない。

より多くの人々に教えを語り、またより多くの病人たちを治療するために、イエスは船に乗るのであった。つまり、イエスの働きを直接目撃したガリラヤの人々も、イエスの働きを見たのでないその他の地方の人々も、ここでは「従った人々」として並列に扱われているのである。とりわけ目を引くのは、ガリラヤ以外の人々の中には「ティルスやシドンの辺り」から来た者も含まれていたとされる点で、そこにはユダヤ人でない人々も多く住んでいたのであった。

今日、イエスのからだなる教会に集う我々もまた、イエスの働きを直接見たのでない、人から伝え聞いて集まったグループに属していると言える。そして、我々もまた「非ユダヤ人」である。我々もまた、イエスの話を人から伝え聞いて集まっているのであり、そしてイエスは、そのような我々をも「従う者」として扱って下さることを確認しておきたい。キリスト教はユダヤ教から枝わかれして成立したのであるが、それは決して「ユダヤ人がダメだから」ユダヤ教と決別したのではない。イエスは初めから、ユダヤ人もその他の民族も見つめているのであり、分け隔てなく教え、また癒すのである。イエスの働きはこのように拡大する一方であり、特に12人の直弟子を任命してその働きを受け継がせる事が必要になるほどであった。

今日の箇所では、イエスの働きについてそれほど詳しくは述べられていない。

恐らく、これまで見てきたのと同じように、皮膚病や精神病や、その他多くの「治療が甚だしく困難」と考えられた病気を癒したのであろう。同時に、「神の国(神の支配)の接近」に備えての教えを宣べたに違いない。この世のものでない「神の力」がこの世に行き渡る時、「神の力」ではない「この世の力」はことごとく無力化される。「この世の力」を奮う人々にとって、その言葉は没落の警告となり、逆に「この世の力」を持たない、むしろ「この世の力」によって苦しめられる人々にとっては、その言葉は解放の福音となったのである。その希望が確かなものであることを示すために、病気という「この世の力」を無力化する癒しの働きが行われたのであったことを、これまでも我々は確認してきた。

ここでは特に、「汚れた霊」が「あなたは神の子だ」と叫ぶのを、イエスが厳しく戒めたことだけが報告されている。この「汚れた霊」も、直接には精神病の原因と考えられたものを指すのであるが、しかし同時に、イエスを「あなたは神の子だ!」と正しく証言するほとんど唯一の存在でもある(イエスの直弟子たちすら、この時点ではひとつの信仰告白も記録されていない)。イエスがまことに神の子であるということは、十字架の場面でようやく明らかになることであるから、十字架上の受難が起こっていないこの時点では、確かにまことの信仰告白とは言えないかも知れない。しかしイエスは「自分のことを言いふらさないように」戒めているのであって、必ずしも「オマエの告白は間違っている」とは言っていない。つまり、事実上「あなたは神の子だ!」という告白を受け入れてもいるのである。

この短い報告の中に、イエスのもとに集まってきた人々の生活背景が反映されているのではないか。「この世の力」(それはお金であったり物理的な能力であったり社会的な身分であったり、と様々なものが考えられる)が与えられていないか奪われているかして、全く無力な者として生きざるを得なかった人々の希望の唯一のより所としてイエスがあった、という事実である。あるいは、いく分かは「この世の力」を有しながら、しかしその事によってかえって疎外を強めていく状況にあった者たちの希望のよりどころとしてイエスがあった、という事実である。その状況は、イエスをも新たに獲得した「この世の力」にしてしまう誘惑を含んでおり、イエスが直接問題にしたのはその事だったかも知れない。

だが我々は、厳しく戒めながらもその告白を受け入れるイエスの姿に、慰めのまなざしを読み取るのである。再三にわたるイエスの厳しい戒めにも関らず、イエスの存在を「この世の力」として所有したがるほどに追い詰められた人々! 

それはまた、我々の姿でもあるのである。この世のものでないイエスの存在に希望を求めるほど、我々は「この世の力」に絶望している、あるいは絶望させられている。イエスは我々のその姿を見つめているのである。

イエスは、もはやひとりでは対処しかねるほどに拡大した群集に向き合うため、「これと思う人々を呼び寄せ」、特にその中から12人を選抜して使徒と名付けた。いわばイエスの手足となるために直接教育を施し、また身代わりとして派遣して「宣教と癒し」の働きを拡大して行なうためである。この使徒によって教会が立てられ広められたことを考える時、イエスはここで事実上「教会を立てた」のである。「使徒と名付けられた」という一文は、元来のマルコ福音書にはなく後代の挿入であるとの説もあるが、いずれにしろここでは「教会とは何か」ということを考える上で重要なヒントが語られている。

それは、イエスの「宣教と癒し」を受け継ぎ、拡大して行なう群れである。希望を失い、あるいは奪われた人々に「この世の力」が終焉する日が近いことを告知するため、そして希望を回復するために、イエスのもとに集まった人々から選ばれたのが「教会」なのである。

しかしそれは、同時に「この世の力」により頼まない群れでもあることを強く確認したい。12名の顔ぶれを見た時に、彼らが必ずしも優れた能力の持ち主ばかりではない印象を受けるのである。当時のガリラヤにおける経済機構からあぶれた者、「雷の子ら」というあだ名の短気な性格を思わせる者、名前だけで実際には何をやったのかもよくわからない者、「熱心党」という過激派に属する「この世の力」のみを頼りにする者、そしてイエスをカネと引き換えに引き渡すことになるユダが含まれている。むしろ徹底して、「この世の力」の無力さと、この世のものでない「神の力」を明らかにするために、この12人が選ばれたのであることを痛感するのである。

ここに示された神の恵みに感謝する。癒し、または宣教の働きに乗り出していく我々は、この世をすっぽりと覆っている病の根深さに呆然とする。何より我々自身が「この世の力」により頼む心根を抜きがたく備えており、むしろ癒されるべきは我々自身であることを、ことあるごとに発見するのである。「神の支配の接近」を知り信じる我々は、この自分が癒され解放されることを願う。しかし同時に、「神の支配の接近」を信じれば信じるほど、来るべき日には没落せざるを得ない自分自身の姿に暗澹とさせられるのである。だが、選ばれた12人を見る時、そこに現わされた神の選びの真意を探る時、そのような我々だからこそ神が選んで下さったことが知られるのである。

むしろ我々は、神の選びを自覚した瞬間から、自分の内側にある「弱さ」の発見に踏み出さねばならない。神は、強いからではなく、弱いから我々を選ばれたのである。こういう能力を持っているとか、こういう感性を持っているとか、そのような「強さ」を選ばれたのではない。隠された能力の発見に努めることも、有効ではあるかもしれないが、神の選びの理由はそこにない。むしろ「こういう能力を持っていない」とか「こういう感性を持っていない」とかの欠乏を、神は埋めて下さるのである。「こういう(余計な)考え方を持っている」とか「こういう(誇れない)感覚の持ち主である」とかの尊敬に価しない部分をこそ、神は目に留めておられるのである。自分が「弱さ」と感じるもの、そして社会的な文脈に「弱さ」として位置づけられるものを、我々は幾つ抱えているだろうか。

イエスは我々を厳しく戒めるかも知れない。しかしイエスは、我々を拒絶されない。むしろその弱さに目を留め、我々を用いるために教会としてたててくださるのである。

願わくは、この言葉があなたに福音を届けるものとして用いられますように。


(追記)

浪岡伝道所のホームページの製作を始めています。「オタクにモノを作らせてはいけない」の典型で、ひたすら仕掛けに凝るばかりで遅々として進まない状況ですが、7月中には公開したいものだと考えています。

パソコン歴がようやく1年になるかというわたしですが、今では「電脳教会」という壮大な妄想に取り憑かれるようになりました。「教会は本質的にネットワークである」という再発見も、パソコンとの格闘からなされたものでありました。

新しい飛躍のステップとなりますように。

(2台目のパソコン用デスクを自作したTAKE)