「安息日に律法で許されているのは、善を行なうことか、悪を行なうことか。命を救うことか、殺すことか。」――彼らは黙っていた。(4)
イエスは、以前(マルコ1:21)にも訪れたことのある、カファルナウムにあるユダヤ教の会堂に再びやってきた。以前来た時には、そこにいた「汚れた霊に取りつかれた男」をイエスが癒したので、そこに人々はみな驚いて「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」と論じ合い、イエスの評判がたちまちガリラヤ中に広まったのであった。今回も同じ場所で、イエスは癒しの働きを行なったのである。しかし今回は、そこに集まっていた人々の前回とは全く様子が違う反応が報告されている。「イエスを訴えようと思って(2)」注目する人々があったのである。
今日の箇所の直前にある「安息日」を巡る問答に続き、ふたたび安息日の事が問題とされている。当時、生命の危機に関るものでない限り、安息日に病気や怪我を治療することは律法違反であると考えられていた。「イエスを訴えようと思って」いた人々は、果たしてイエスが前回この会堂にやってきたのと同じように病人を癒すかどうかを注目していたのだった。そこには、片手の麻痺した人がいたのである。もちろんそれは、突然その日に麻痺したものではなかったと考えられる。少なくとも生命の危険に結びつく障害ではなかった。もしイエスが、この「生命の危機に関らない病の癒し」を行なうなら、人々はイエスを訴えるための口実を手に入れることになる。
イエスは、その人々の意図を見抜いており、片手が麻痺した人をわざわざ中央に立たせた上で、その腕を癒したのであった。「人のために安息日が定められたのであって、人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2:27)というイエスの主張は、今日の箇所にあって更に劇的に、しかも攻撃的に打ち出されたのである。イエスを訴えようとしていた人々は、この様子を見てイエスを殺す相談を始めている。しかも、その陰謀の中心を占めたのは、ファリサイ派の人々とヘロデ派の人々であった、と記される。
ヘロデ派については、今日では不明な点が多い。しかし名前からしてローマ帝国に迎合して民衆から憎まれたヘロデ王を支持するグループだったと思われる。
外国人による支配を嫌ったはずのファリサイ派の人々と、外国人による支配に取り入って身分を保っていたヘロデ派の人々という、まるで正反対のグループが結託したのは、イエスの存在が共通の敵となったからに他ならない。民衆の支持を集めつつあったイエスの存在は、ローマ帝国に取り入るために民衆を手なずけようとしていたヘロデ派の人々にとって脅威であり、また安息日の規定をひっくりかえしてみせるイエスの言動は、律法の遵守によって民族の団結を強めようと考えていたファリサイ派の人々にとって邪魔な存在となったのである。彼らは普段の対立を忘れたかのように結託して、イエス殺害の機会を狙い始めたのだった。
片手が麻痺していた人が癒されたという奇跡そのものを考える以前に、心にとめたいことがある。それは、この片手が麻痺していた人物が、イエスによって「人々のまん中」に立たされるまで、その「交わりの周辺」に置かれていたという単純な事実である。人々の関心は「イエスがこの人に何をするか」に向けられていた。人々の意識の中では、この人物の存在が既に中心にあった。にもかかわらずこの人は、物理的には「まん中」ではなく「周辺」に置かれていたのである。
イエスを訴えようと狙う人々は、この人物の麻痺した片腕に最大級の関心を抱きながら、同時に見て見ぬ振りをもしていたのだった。この人物を最大限に利用することを考えながら、しかしあたかもそこに存在しない人であるかのように扱っていたのであった。
手の障害ということで、わたしが連想したのは「幼女連続誘拐殺人」の犯人である宮崎 勤氏のことであった。彼は手首の骨格異常のため掌を上に向ける事ができず、それが大変なコンプレックスになっていたという。幼稚園に入ってこの障害を強く意識させられたのは「お遊戯」の時間であり、彼はどうしても「ちょうだい」のポーズが取れずに悩んだと言われる。その後も、買い物をしてもつり銭を受け取ることができないので、欲しいものがあると必ずつり銭が出ないように金額丁度を用意して買いに行った。やむなくつり銭を受け取らなければならなくなった時には、衝動的に店の人の手を叩き、散らばった小銭を急いで拾い集めて逃げるように立ち去ったという。
実は、わたしもこの宮崎氏と同じような思いを味わっていた時期がある。わたしは小学生時代の怪我がもとで左目がほとんど使えないのだが、やがて外見的にもそれとわかるほどの外斜視になった。そのことを強く意識していたわたしは、人と目を合わせて対話することができなかった。周囲の人々も、目つきのことで冗談を言い合っている時にわたしが居合わせると、ピタリとその話をやめたものだった。やむを得ず人の顔を見なければならない時には、自分の顔を斜めに向けたり下に向けたりしていた。その後、矯正手術を受けた時、「人の顔を正面から見ることが出来る」と思うと、本当に人生が変わったような気がしたものだった(今でもサングラスを多用するのは、強い光線から目を保護する必要の他に、この時期に蓄積した視線恐怖が残っているからでもある)。
わたしや宮崎氏をもっとも傷つけたのは、恐らく「特徴的な障害を、あたかも存在しないかのように思いこもうとする」という自分自身の視線であったと思う。
存在しないかのように振る舞っても、それは存在するのである。そのギャップが余計に心を傷つけていたと今では思うのである。今日の場面に登場するこの人自身は、自分の腕のことをどう考えていたのだろうか。イエスが「手を伸ばしなさい!」と命じて、この人が腕を伸ばすと、手は元どおりになった、と記されている。元どおりになる前に伸ばすことは出来た、つまりは普段縮めていたのではないのか。彼自身も、自分の腕の障害が存在しないかのように思いこもうとしていたと想像するのは行きすぎだろうか。
これが、自分自身によってのみでなく、他人からもそう扱われる時、それは殆ど自分の存在を抹殺されることではないのか、と強く感じている。この片手が麻痺した人は、人々から最も強い関心を向けられながら、しかし表面的にはそれを出さず、あたかも存在しないかのように振る舞う交わりの中に置かれていたのである。人々の関心は、イエスがこの人に対して安息日には禁じられていた治療行為を行なうかどうかであって、自分たちが彼をどう扱っているか、彼自身は自分(の障害)をどう扱っているかではなかった。
イエスは、人々が表面には出さなかった関心事を、交わりの中心に据えて問う。
「安息日に律法で許されているのは、善を行なうことか、悪を行なうことか。命を救うことか、殺すことか」。安息日の規定(1週間に1度の労働禁止)は、元来農作業に使役する奴隷や家畜の疲労を回復させ元気を取り戻させることが目的であったと考えられるが、後には民族全体が奴隷とされて一切の休日を与えられなかった体験(バビロン捕囚など)を踏まえて、「我々は自由な存在である」と繰り返し確認するための記念日とされたのだった。自由な神の似姿としての自由な人間が、イスラエルの信仰の原点であるはずだった。
それがいつしか(恐らく政治的な動機から意図的に)人々を束縛する規定にされてしまった。その日人々は、一挙手一投足が律法に違反しないかどうかだけに気を遣い、決められた歩数以上を歩かず、決められた行為以外の事をしなかった。
数十項目に及ぶ規定に合わせてその日を過ごし、自分を押し殺すことに懸命になった。言い替えれば、安息日は「あたかも自分がそこに存在しないかのように」振る舞わねばならない日だったのである。そしてその事は、当時のイスラエルの指導者たちにとって、とても都合の良い状態であった。民族的な自覚が最も高まりやすい「安息日」を様々な規定で縛り上げることにより、民衆を「あたかも存在しないかのように」する事に成功したも同然だったからである。
イエスを訴えようとした人々は、そのような民衆の中に現われたイエスを何とか無力化しようと考えたのである。「あたかもイエスが存在しないかのように」してしまうことが、彼らの狙いだったのである。その時点で既に、彼らはイエスを抹殺しようと考えていたと言うべきである。イエスを殺害することそのものは、イエスを「あたかも存在しないかのように無力化する」ために必要な手続きに過ぎない。人間の自由の象徴であった安息日に人を束縛し抑圧し、本来許されていないはずの「殺すこと(存在を無力化し否定すること)」を行ない続けてきた彼らの正体が、この時イエスによって明るみに引き出されたのであった。
イエスは、そのような人々に対する怒りと悲しみを込めて、この人物に「手を伸ばしなさい!」と命じた。あなたが「あたかも存在しないかのように」振る舞う日々を捨てなさい! 自分を縛り上げるその思いを捨てなさい! 神は、あなたをこそ自由にするのだから! あなたをこそ愛するのだから! イエスに導かれて、この人は手を伸ばした。存在しないことにしてしまいたかったその片腕を前に伸ばした。その癒しは、あたかもこの人物が存在しないかのように振る舞う人々のまん中に立つことから始められているのである。
イエスの招き、イエスの命令を、「教会に集う」ことに限定してはならない。
むしろ人々のまん中に立ち、最も許せない自分の姿を見つめることが、イエスの招きと命令に対する応答とされるのである。教会の礼拝に集うことは、その出発点に置かれるべきことなのである。周辺に置かれている人々をまん中に引き出し、存在しないかのように思われている人々に光を当てることこそが、イエスの働きなのである。そのイエスの働きによって押し出されて、我々はこの世の旅路を歩むのである。
願わくは、この言葉があなたに福音を届けるものとして用いられますように。
(追記)
6月14日の礼拝後、青森戸山伝道所の設立式が行われました。新しい教会の誕生です。昨年、以前からの活動拠点としていた建物から移転し、新しい会堂を建築しました。今回の設立式で初めてその会堂を訪れましたが、「これが本当に伝道所なのか」と驚くような、大きくて立派な建物でありました。
当日配布された資料には、青森戸山伝道所設立に至る経過が年表にまとめられていました。青森松原教会において「戸山団地伝道」が決議されて、何と20年もの間、地道な努力が重ねられてきたのでした。青森松原教会に集う「戸山団地」の住民である信徒たちが祈り、その祈りに応えるために青森松原教会が一丸となった20年の成果が、今回の伝道所設立だったのでした。
教会を生み出すという働きの困難さを思います。青森戸山伝道所は、今後もしばらく青森松原教会の経済支援を受けなければならず、専任牧師もいません(現在は青森松原教会の森田光博牧師が兼務)。しかし、そこに込められた祈りがひとつひとつ実を結んでいるのも確かなのです。
浪岡伝道所や八甲田伝道所の他、かなり以前に設立されながら活動に困難を抱えている教会が、同じ地区内には幾つもあります。そのような状況で新しい教会を設立することの是非を問う声もあります。都市近郊のベッドタウンに教会を置くのも、「都市中心の教会形成」として批判される面を含んでいるのは確かです。
しかし、「わたしたちを助けて下さい」という幻(使徒言行録16:9)に応答しない教会形成もまた、福音の視点からは批判を受けなければならないでしょう。
そうした四面楚歌的な状況の中で、青森戸山伝道所は設立されたのでした。
批判的な憂慮が現実のものとならないように関っていくことにも「祈り」は欠かせないのだと思います。青森戸山伝道所が主の委託に豊かに応える教会として成長することが出来るよう願いたいと思います。
(「ジューン・ブライド特需」が終わりつつあるTAKE)