竹迫牧師の通信説教
『権威ある新しい教え』
マルコによる福音書 第1章21−28 による説教
1998年4月19日
浪岡伝道所礼拝にて

「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。(24-26)

イエスが宣教を開始した。イエスの宣教は、ガリラヤ各地でユダヤ教の会堂において展開されたとされる。今日の箇所では、その宣教によって二重に驚かされた人々の様子が描かれる。イエスの教えがどのような内容だったのか、ここでは明らかには記されていない。恐らくは、1:15に記された「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という言葉を核とするものだったと思われる。「神の国」とは、人間ではなく神が支配者として治める国の事であるが、イエスは、神の支配が接近していること・それに備えて生活するべきこと、を人々に教えたのである。

さて、なぜ人々はイエスの宣教に驚いたのであろうか。最初の驚きは「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」と説明される。律法学者とは、「神が定めた」とされる律法(今日における法律よりも、はるかに強制力があった)を扱う学者である。新しい状況に適用するために律法を解釈し、弟子たちを育て、裁判においては律法に従って判決を下す役目を負っていた。そして、会堂における礼拝では、民衆たちに律法を徹底するための教育をも担っていた。律法学者の判断基準は「先例がどうなっているか」に置かれており、『言い伝え』を根拠に審判や教育を行なってきたのであった。それは、律法を定めたのは神であり、自分たち人間はそれを神から預かっている者なのだ、という信仰を基礎としていた。だから律法学者たちは、神の名とそれを受け継いできた『言い伝え』の重みこそを権威として、人々に教えを語ったのであった。

イエスの宣教は「律法学者のようにではなく、権威ある者として」行われた。

それはイエスが自分の名前と責任において語った、という事である。これは、当時の人々を驚かすに充分であった。律法学者たちの教育によれば、自分の名前と責任において教えを宣べることができるのは、神の他なかったからである。恐らく人々の驚きは、「自分を神であるかのように考えて神の名を汚す教師が現われた」という不吉な現象を目撃したことから来るものだったのだろう。これまで、そのように語る人を前にしたことがなかったのである。

これは、物語の文脈としては、律法学者を中心として体系づけられたユダヤ社会に対してイエスが公然と挑戦し始めたことを表わすものである。そして同時に、マルコ福音書が書かれた当時「民族に対する裏切り者」としてユダヤ教から排除されつつあった初期キリスト教会の主張でもある。「どちらが神の御心に従う者であるか=どちらが神の支配に服する者か」という初期キリスト者たちの問いを、この場面のイエスは代弁しているのである。

その会堂には「汚れた霊」に取りつかれた男がいた。当時「汚れた霊」とは、今日で言う「精神病」の原因と考えられたものであろうが、それ以上に「人を宗教的に汚れた者とする力」の事であり、神との交わり=礼拝を妨害する要因である。そしてそれは、宗教的権威が支配する社会にあっては、人を、人と人との交わり=社会から疎外する力と同義であった。この人物が「汚れた霊」にとりつかれていながら、どうしてこの時には会堂に入り込んでいたのかは説明されていない。しかし、「構わないでくれ! 我々を滅ぼしに来たのか! オマエの正体は神の聖者だ!」と大声で叫んだ。イエスが「黙れ! この人から出て行け!」と命じると、汚れた霊は追放された。人々は「権威ある新しい教えだ!」と驚き、イエスが単に「神を汚す者」ではないらしいことを知るのであった。

汚れた霊に取りつかれていた結果によるものではあったが、この場面においてイエスが「神の聖者」であることを正しく指摘しているのは、実はこの人物のみである(イエスに従っているはずの弟子たちさえ、ここには取り上げられていない)。そしてこの人物は、イエスの宣教が力あるものであることを証拠立てるためだけに登場する。イエスが、神を汚す軽蔑すべき存在ではなく、むしろ「神の支配」をこの世に実現する存在であることをただひとり雄弁に語っているのが、この「汚れた霊」にとりつかれた男なのである。

ここに、マルコ福音書成立当時の読者たち(初期キリスト者)の自己理解を読み取ることができる。ローマ帝国の支配下にある地域住民から疎外されるユダヤ教徒の中にあって、なおそのユダヤ教徒たちからも敵視された初期キリスト教徒たちは、自分をこの「汚れた霊」に取りつかれた人物と同一視せざるを得ない。

「民族に対する裏切り者」というレッテルは、(旧約)聖書に示される神を信じるユダヤ教共同体から疎外される最も大きな要因であった。

初期キリスト者が、なぜ「裏切り者」とされたのか。それはまさしく、「神を汚す者」と考えられたイエスを信じ、それを公に言い表したからである。「イエスこそ神の聖者だ」と信じ、告白したからである。その告白も、言葉だけによるものでなく、民族独立を悲願とする戦争に加わらないという形で表わされたものであった。なぜなら、この世の力を誇る者を救い主とは認めなかったからである。

人々の前に「権威ある者」として登場し、かえって「神を汚す者」という驚きをもって迎えられたイエスが、実は神を汚すのでなく「神の支配」を正しく指し示す「神の聖者」であることを証しするのは、この人物が人々の交わりの中に帰還すること(「汚れた霊」が追放されること=その人自身が追放されるのではなく、汚れを根拠とする「疎外」の現象が追放させられるのである!)によるのである。そのようにして、人々は「権威ある新しい教えだ!」と驚きに導かれたのであった。

この人物のその後についてはまったく何も語られない。しかし、交わりを疎外する要因であった「汚れた霊」が追放されたのだから、「神の民」として礼拝の交わりに帰還したことは間違いないであろう。つまり、イエスが言葉で宣べ伝え、実際の働きをもって示した「神の支配」とは、『交わりの回復』だったのである。

イエスを「神の聖者」として証しするのは、『交わりの回復』の出来事なのである。この「汚れた霊」にとりつかれた男は、霊が追放される瞬間、まるで断末魔のようなケイレンを起こした。大声で叫んだのがこの男であるか霊そのものであるかはっきりしないが、どちらにしろ大きな苦しみが想像される描写である。交わりから疎外されて苦しむこと! それも、今にも死にそうな激しい苦しみの中に投げ込まれること! これが『交わりの回復』が起き、イエスが「神の聖者」であることが示される瞬間であった。

交わりから追われる苦しみのただ中にある時こそ、『交わりの回復』が起ころうとしている瞬間である。今にも死にそうな苦悩のただ中にあるその時にこそ、「神の支配」がわたしたちの上に臨んでいるのである。

これが初期キリスト者たちを支えるメッセージであった。同時に、我々をも支える福音である。我々が交わりから疎外されるという苦悩のただ中にあるまさにその時、「この人から出て行け!」と汚れた霊に命じるイエスの声が響いている。

神の支配が我々の上に始まっている。我々の苦悩は、我々の抵抗が及ばないほど悪魔的な力を奮うその時にこそ、イエスが「神の聖者」であることを証しするために用いられるのである。

様々な不安の満ちたこの世において、福音を証しする我らの使命を読み取りたい。苦悩のただ中に呆然と立ちつづける他ない姿ですら、宣教の言葉として用いられる事を信じよう。

願わくは、この言葉があなたに福音を届けるものとして用いられますように。


(追記)

今回の説教準備のためというわけではなかったのですが、映画『エクソシスト』と『エクソシスト3』を立て続けに観る機会がありました。奇怪な描写が突出して紹介される『エクソシスト』ですが、わたし自身はとても好きな映画です。悪魔に憑かれた少女の、助けを求める心の叫びに触れたダミアン=カラス神父が、悪魔祓いに立ち上がるという内容です。ショックシーンの特殊効果にも見るべき所は多くありますが、それよりも、信仰共同体が形骸化した現代における「信仰」の「回復」とは何か、を問う内容の方に新鮮な感動を与えられます。

科学技術の一領域である精神医学が太刀打ちできないでいる「心の闇」ともいうべき部分を置き去りに進むわたしたちの時代のありようそのものが、既に悪魔的になっている(悪魔に取りつかれている)ように思われて考えさせられます。

破壊的カルト問題に関わる時、よく思い出すのがこの『エクソシスト』であります。まるで人が変わってしまったかのように変貌した本人を囲む家族の苦悩、本人が堅く信じる教義のおぞましさ、本人の変化のなさに噛み締める無力感、どれもこれも映画の中に描かれるものと共通しているように思われます。

正直言って、数年前に観た『エクソシスト2』がどうしようもない映画だったので、今回初めて観た『エクソシスト3』には殆ど期待を持っていませんでした。

しかし、精神と肉体とを二元化しすぎる傾向は気になったものの、「悪魔化した時代」を切り取る初作のテーマを見事に継承した佳作であり、得をした気分になりました。「非人間化」が極度に進行した結果として現われる「快楽殺人」にスポットをあて、謎解きを軸に悪魔化した時代を垣間見る展開には、なかなか見ごたえがありました。

ナチスに対する抵抗声明として起稿された『バルメン宣言』の主要執筆者であるカール=バルトは、後に国家的支配者への従順を説くローマの信徒への手紙13章の解説として、「国家は、人々の生活に正義と平和を実現するという使命を託された存在であり、いうなれば神の目的に奉仕する天使である」という趣旨の言葉を述べています。同時に、サタンが堕落した天使であるとのテーゼを援用して「人々を殺戮するような蛮力を奮う(ナチス=ドイツのごとき)国家は、悪魔化した天使である」とも言っています。そして「悪魔化した国家であっても、神の支配下に置かれ神に奉仕する天使としての使命は不動のものである」と語ります。

ここに、絶望的とも思われるナチスへの抵抗を貫き通したバルトの「希望」の源泉を見るように思います。

『いかに悪魔的な力を奮おうとも、それは神の絶対的な支配のもとに置かれている! 神は、悪魔をも奉仕せしめる権威をお持ちの絶対者である!』

そのような信仰に立つからこそ、いかに不利な闘争であっても戦いぬく事ができるように思うのです。

またもや、カルト問題に関わる相談が寄せられています。カルト問題に関わる中で、これが複合的に絡み合った『現代』そのものの病の現われでしかない事を見る時、果てしない無力感に襲われることがあります。それぞれの領域における「ダミアン=カラス神父」たちの戦いに祝福があることを祈りつつ、バルトの示した希望を仰いで励みたいと考えています。

(『勇者王 ガオガイガー』にも熱い希望を見ているTAKE)