竹迫牧師の通信説教
『召命』
マルコによる福音書 第1章16−20 による説教
1998年4月12日
浪岡伝道所礼拝にて

イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。(17−18)

イースターである。十字架に死んだイエスが甦った朝、我々人間のいのちの意味が変えられたのであった。死をもって終わる他ない存在であった我々人間は、死に対する無力の事実がもたらす恐怖や虚無感の虜であったが、死を越えてなお立っておられるイエスの呼びかけにより、その束縛から解かれたのである。イエスが十字架へと急いだのは、死が無力なものに変えられたこと・いのちが死によって終わることのない豊かなものへと変えられたことを、復活をもって示すためだったのである。

教会は、この復活の喜びを宣べ伝える群れである。従って、後に教会の要として立たされることになる4人の人物が、弟子としての召命を受ける今日の聖書箇所は、そしてとりわけ「人間をとる漁師」とイエス自身が定める教会の使命は、イエスの復活の光に照らして読まれ、受け取られるべき事柄なのである。

さて、この箇所を読む時に我々の目をひくのは、この4人が揃って漁師であること、そして4人ともただちにイエスに従っていることである。

ある人々は、この記事から漁師という仕事の特殊性に注目しようとする。農業ほどには計画的な生産が不可能な漁業においては、天候や魚の習性などのコントロール不可能な自然条件に熟知するだけでなく、それらの変化に機敏に対応できる操船・漁獲の技術が必要とされる。生活は不安定であり、豊かな時と貧しい時の落差が激しい。状況によっては、水の上での作業は生命の危険に直結することもある。そうした漁業の特性に、この世に送り出される「教会」という共同体との共通点を見出すことは可能であろう。教会にもまた、自分たちにはコントロール不能なこの世の時機を悟る知恵が必要であり、またこの世に働きかけるための技術への習熟も求められている。順風と逆風の落差は激しく、信仰を持つことが生命を脅かすことすらある。

殊にマルコ福音書が書かれたユダヤ戦争敗北(エルサレム陥落)から間もない時代、ローマ帝国や地域住民からは戦争犯罪者のユダヤ教徒の一員として、また同胞ユダヤ人たちからは敵前逃亡の裏切り者として、二重に憎まれる立場にあったのが、初期キリスト教会の信徒たちである。彼らには、「教会という沈みかかった舟にとどまるか否か」というシビアな問いが突きつけられていたに違いない。

そうした彼らを支えたのは、ペトロを始めとする主要な弟子たちが元は漁師であったという事実から連想される、「自分たちはイエスによって任命された『人間をとる漁師』だ」という意識だったのではないか。舟を離れては生きられない漁師・しかし一旦舟に乗れば命知らずの働きに乗り出していく漁師の姿に、苦難を歩む自分たちを重ね合わせて自らを鼓舞した様子が想像されるのである。そして、ここに登場する4人の人物がイエスの招きに「すぐに=ただちに」応じている様子から、彼らが職業としての「漁師」を放棄する判断を素早く下すのは、まことに機を見るに聡く機敏に実行する「漁師」的判断である、と考える人もある。教会において「良き漁師となろう」という目標は、それほど無理なく導かれることが可能である。

だが、シモン(ペトロ)とアンデレ、ヤコブとヨハネ、という2組の兄弟たちの違いに注目すると、マルコ福音書記者はそれほど「漁師」の特殊性に注意を払っていないようにも思われるのである。シモンとアンデレはたった2人で漁業を営む小規模グループであり、ヤコブとヨハネは父ゼベダイの他複数の雇い人たちが関わる比較的大規模グループである。漁業はガリラヤ湖畔の主要産業であり、その産物はローマに輸出されるほどであったと言われるが、人々は家族共同体を基盤とする生産グループに属することで生計を立てていた。様々な事情で家族共同体から逸脱した者は、「奴隷」や「雇い人」となって、他の家族共同体が営む生産活動に加わることによって生活が可能となったのである。つまりイエスは、家族共同体を基盤とする当時の経済機構の、小規模・大規模の両極から「人間をとる漁師」を集めたことになる。そして「人間をとる漁師」になって「魚をとる漁師」を放棄することは、当時の経済機構や家族共同体から逸脱するという意味を持っていたのである。

4人は、「すぐに」イエスに従った。そこに迷いやためらいの葛藤は描かれていない。実際は4人がどのような戦いを経てイエスの弟子になったのか、今日の我々が歴史的な事実を明らかに知ることは不可能である。しかしマルコ福音書成立当時の読者たちには、その点についての細かな描写は必要なかったのであろう。

なぜなら、ユダヤ戦争を経て「二重の憎悪」にさらされていた彼らは既に、当時の経済機構から逸脱した人々であったから。それだけでなく、家族すら敵になる時代に生きていたのだから。むしろ彼らにとり、この4人の姿は、英雄的な決断であるよりは、自分たちが置かれている状況をほんの少し先取りした「先輩」であるに過ぎなかったのである。だから、この記事を根拠に「全てをすててイエスに従うべき」というメッセージのみを単純に読み取ることはできないのである。

この4人は偉大な決断をなしたのではなく、初期の読者たちと同じ状況に「イエスの招きを受けて立った」に過ぎないからである。

この記事に、我らの生きるこの時代との共通性を見る。戦後日本がたどってきた資本主義経済は、今日見るような大手企業の倒産や金融業界の破綻にあらわれる限界を露呈しているだけでなく、方向転換しなければ地球規模の破滅を引き起こすほどに破壊的な力を宿してしまっていることは、もはや周知の事実と言わなければならない。この資本主義経済を基盤として成立する民主主義自体に、疑惑の目が向けられていることも無視できない現象である。そして、民主主義的感性を育む場として位置づけられてきたはずの家族共同体もまた、「家族」の意味内容を修正せざるを得ないほど崩壊してしまっている。「魚をとる企業(家族)」から「人間をとる漁師(個人)」への転換は、それがイエスに従うという意味を含む以前に、もはや必然ともいうべき選択肢にならざるを得ないのではないか。

現代の我々もまた、この記事を、単純に「現在の生活を捨ててイエスに従う」ことを勧める物語として読むことはできないのである。むしろイエスは、この場面においては「世の機構」からの逸脱を促しており、ただちにイエスに従う彼らの姿に「世の機構」の崩壊を前提とするマルコ福音書の初期読者の共感が寄せられたであろうことを考えるなら、イエスは家族のあり方や経済機構のあり方から逸脱した者・違和感を抱えている者に向かって「わたしについてきなさい」と呼びかけていると言うべきなのではないか。

イエスに従うということが、今日の状況において意味する所を、我々はもう少し注意深く取り上げる必要がある。復活がわれわれの「いのちの意味」を変えたにも関わらず、依然として実体の我々は終わりある命を死や病に対する恐怖を携えながら生きなければならないのと同様に、イエスによる召命を受ける決断をなした我々が、この世に生きる事の意味を変えられていながらなおこの世の機構(それも、今日かなりの混乱を来した機構)のただ中に生きざるを得ないでいる点に注目したいのである。

「イエスに従う」という決断を下した時点で、すでに人はこの世の機構から逸脱した存在とされている。しかしそれは、必ずしも「出家」に類する物理的な乖離やキリスト教的な職業を探すことを要求するのではない。そうではなく、復活の出来事がいのちの意味を転換させたのと同じように、「職業」の意味・ひいては労働で支えられている「生」の意味の転換を迫っているのである。この世の基準からは推し量ることのできない(むしろその存在意義を疑わざるをえないような)「生」のありようや「職業」ですら、「人間をとる漁師になる」という選択であり得るのだ、という事である。問題は、そこに「わたしについてきなさい」と呼びかけるイエスを見るか否か、である。

そして同様に、何等かの事情で既にこの世の仕組みから逸脱させられている人があるならば、その人は既に「人間をとる漁師」であり得るのである。そこに「わたしについてきなさい」と呼びかけるイエスの姿を見るならば。

混乱した社会・崩壊した家庭にこそ「人をとる漁師にしよう」と呼びかけるイエスの姿が近づいている。逸脱した者・零落した者にこそ「すぐに」イエスは呼びかけてくださっているのである。

自らの死を体験しないままの我らにとって「復活」の意味する所が、ここにある。復活を宣べ伝える教会が向かうべき人々は、まずイエスの召命を受けている我ら自身である。我らの生の日常に語りかけるイエスの姿を見るか否か、我らの生活そのものが「人間をとる漁師でありうる」という発見に支えられているか否か。我ら自身がイエスの宣教の対象である。我らが「すぐに」従う時、そこから世の人々に「神の国への招き」を宣べ伝えることが可能とされるのである。

願わくは、この言葉があなたに福音を届けるものとして用いられますように。


(追記)

4月4日、札幌にある「北海道クリスチャンセンター」で開催された、北海道YMCA創立記念礼拝に出席しました。記念講演であるパスカル=ズィビィさんの『破壊的カルト集団からの離脱』というお話を、奥羽教区統一協会対策小委員会委員長として聴くためであります。元弘前学院YWCAのメンバーで今は札幌にお住いの水木はるみさんと一緒に講演を聞きました。が、確かにパスカルさん御自身から有益な情報の幾つかを頂くに至ったものの、突然に「元学生YMCA協力主事」として紹介されてしまったので、「何のために青森から?」と何度も質問を受けました。

その後、元弘前大学YMCAのメンバーで現在は恵庭市の小学校に転勤された伊早坂貴宏さんと落ち合い、夕食をご馳走になりました。わたしを含めたこの3人が、同人誌『せば・ぺるそな』創刊時のメンバーだったのでした。久々に顔を揃えた3人でプリクラなど撮影し、再会を約束してお別れしました。5日の日曜日には野幌教会の礼拝に出席し、八甲田伝道所の「農村センター」設立計画と、それに伴う会堂建築資金へのご協力をアピールさせていただきました。浪岡伝道所の礼拝はお休みさせていただいた(だから通信説教も1回お休みでした)ので、もう少し北海道をふらふらと歩いてみたいとも思ったのですが、何と友人の山田牧師が浪岡に来られるとの連絡が入ったので日曜日の夜には帰宅しました。

久々にお会いした山田牧師は、あいかわらず楽しい方でした。この4月から四国の教会に転任されるとのことで、退職金・餞別をつぎ込んだ「豪遊」に混ぜていただき、久々にゆっくりと羽根を延ばすことができました。

そこで「あっ」と気付いたのですが、何とその週は「受難週」だったのでありました。毎年「受難週には主の十字架の苦しみを覚えましょう」と語っていますので、わたしも1週間の禁煙を習慣としてきました。それが懐かしい人々と再会して「ほややん」と過ごしていたら、どっかへ行ってしまったのであります。

何とも情けない話だなあ、と思っていましたが、イースターに日を合わせた浪岡伝道所の教会総会のために資料をまとめていて、考え方を変えました。特に財務の資料に、97年度の歩みの苦しさがはっきりと現われていたからです。1996年度分が未納となっていた納付金を97年度に完納するため、地区諸教会から借金をして、2年分を支出していたのでありました。そして、各種献金収入が目標額を大きく上まわっており、わたしを含めて信徒ひとりひとりの言葉にあらわせない努力の積み重ねで乗り切った97年度だった、ということに、資料をまとめていて気付かされたのでした。

「何も受難週という1週間に、今さらこだわる必要もない1年だった」と感じています。

イースターには、通信信徒第1号の横山由利亜さんも駆けつけてくださり、また入院などで教会に来れなかった信徒が2ヶ月ぶりに「復活」したりして、とても喜びの深いイースターとなりました。

匿名の方から、パソコン通信用の献金をオンラインでいただきました。もしこの『通信説教』の読者であられるとしたら、この場を借りてお礼申し上げます。

何かと嬉しい日々を過ごした受難週とイースターでありました。感謝。

(花粉アレルギーで受難中のTAKE)