すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。(11)
マルコ福音書は、「福音書」というスタイルの文学作品の第1号である。これまで読んできたヨハネ福音書も、他のマタイ・ルカ両福音書も、その執筆にあたってはマルコ福音書を直接下敷きにしていると言われる。イエスの行動・言葉・その生涯の最期を、ひとつの物語として書き留める事に、マルコ福音書作者の意図がある。
ここで「ひとつの物語」と断るのは、必ずしも「イエスの伝記を書き記す」ということがマルコ福音書の作者の意図ではなかった、と考えられるからである。
マルコ福音書が書かれた時代、「イエスの伝記」をまとめようとする試みは他にもあったと言われている。イエスの言葉や振る舞いに関する伝説を集めた文書(いわゆる『Q資料』)が既に成立していたとされる。マルコ福音書作者がそれを参考に福音書をまとめたのかは定かでないが、どちらにしろこの人物は、イエスの姿をそのまま書き留める事ではなく、イエスという存在から与えられた信仰的遺産を、自分が生きている時代の人々と共に分かち合うために、敢えてひとつの「物語」として記したのである。
「物語」が持っている力について、我々は無知であるわけにはいかない。事実をありのままに並べた「報道」よりも、始めから終わりまで嘘で出来ていると百も承知の「文学作品」の方が、真実を伝える力において勝っているのを我々は知っている。人は小説を読むことによって慰められたり励まされたりする事がある。
また、演劇や映画によって力づけられたり癒されたりすることがある。我々は、そうしたフィクションによって与えられる心の動きを「感動」と呼んでいる。これは、単に我々人間が騙されやすいということばかりを意味するのではない。我々人間が、想像力によって「他人の体験」を「自分の体験」にすることができる存在であり、同時に、そのことによって時間や空間の隔てを超えた他者との関係を構築できる存在であることを意味しているのである。
イエスという存在が我々人類にもたらした、その慰めや励まし、またイエスが我々に与えようと欲した癒しや回復を、作者・読者が共に分かち合うために「物語」を媒体とする方法が採られたのである。それは、イエスという人物の死によって示された事柄が、遠い過去の歴史的な一点にしか意味を持たないものでなく、何10年経とうと何百年過ぎようと、我々人類にとって共通で永遠の財産である事を訴えるためなのである。
我々は、十字架へと歩んでいくイエスの「物語」を通じ、あたかもイエスに従ってそれを目撃した当時の群れの一員であるかのように、その言葉・行いを追体験する事ができるようになる。
そしてそれだけでなく、我々はイエスの「物語」を通じて、イエスそのひとの「体験」をさえ自分のものとすることができるようになるのである。イエスの行動や言葉が、我々に対する深い愛と慈しみから出発している事を知り、その愛の深さ・慈しみの豊かさの故に、悲しみと怒りに彩られざるを得なかった事を知ることができるようになる。そのイエスの愛と慈しみを自分のものとする事ができたとき、我々はこれまで読んできたヨハネ福音書において繰り返し語られているのを見た「あなたがたも互いに愛し合いなさい」という新しい戒めによる生活へと招かれている「事実」を知るようになる。これこそが、「物語」という方法を選んだマルコ福音書作者の意図なのである。
さて、そのような視点からマルコ福音書を読むとき、作者が我々を含む読者たちをイエスに同一化するよう誘導しながら、しかし決定的に同一化を退けるような「罠」を物語に設けていることを悟らないわけにはいかない。その「罠」の最大のものは、イエスが最終的に十字架で殺害されるという事実である。
我々もマルコ福音書に描かれるイエスのように、群集を憐れんだり支配者の不正に憤ったりすることがある。その力さえあるなら、人々に癒しと回復をもたらす「奇跡」を行ないたいと欲し、その願いも決して功名心や欲得に基づくものばかりとは言えない。そして、イエスが行なった数々の奇跡は、物語のイエスほど劇的な形ではないが、実は我々にも充分実行可能なものが数多く含まれているといえる。リアルタイムにイエスの言葉を聞き、またその行いを目撃しているはずの弟子たちが、あまりにイエスに対して無理解である様子を読む時に、それがかなりの部分で自分の現実のあり方とだぶっていることに気付きながらも、しかしイエスに同一化して、自分自身に対してさえイエスと同じ苛立ちや憤りを感じることは可能である。つまり我々は、マルコ福音書に描かれるイエスに、かなりの深さで同一化することができる。
だが我々は、マルコ福音書が「十字架のみを目指して走り続けるイエス」を描いていることに気付く時、イエスとの同一化の可能性が全く自分には残されていないことを思わずにいられないのである。我々は、イエスのようにただ十字架だけを目指して歩むことができるだろうか? 多くの者(恐らく全ての者)は「できない!」と言わざるを得ないだろう。人々を救う力を持っていながら、自分を救わない。自分を見捨てていく仲間に向かって、全く助けを求めない。神に由来する大きな力を持っていながら、それを示さない。我々は物語を通じ、イエスに深く同一化すればするほど、十字架の場面において「自分はイエスではない!」と痛感させられるのである。イエスの力によって癒され、イエスの言葉によって勇気を与えられれば与えられるほど、また、十字架に際してイエスを見捨てていく弟子の姿に、イエスの視点から憤りと情けなさを感じれば感じるほど、我々は「自分はイエスではない!」と見せつけられるのである。
マルコ福音書の作者は、その効果をこそ計算して「物語」を構築したのである。
すなわち「イエスは我々と同じ人間でありながら、我々人間の誰とも違う!」と示そうとしたのである。人間に対して愛と慈しみを示しつつ、しかし人間ではないものを、我々はこの地上で見出すことができないでいる。無論我々は、ある種の動物たちが我々に対して無条件に親愛の情を示すことがあるのを知っている。
しかしそれらの動物は、自分に危害が及ばない範囲でしか我々を愛さないことを、我々は同時に知っている。突発的なアクシデントとして仕方なく受け入れるのではなく、最初から十字架で果てるために我々を愛する地上の存在と、我々は出会ったことがないのである。
マルコ福音書作者は、イエスの物語において、そのように「この世に存在しないはずのものが現れた!」と示そうとするのである。我々に最も近い者でありながら、その近さのゆえに遠い者である存在。しかも、我々の側から近づくのではなく、向こうから近寄ってくれる存在。それこそが「神」であり、また「神の子」イエスである、と示そうとするのである。
マルコによる福音書は、このように初めから終わりまで、イエスが神の子であることを示す物語である。その神の子によって、我々が招きを受けていることを訴える物語である。そして、この神の子によって与えられた恵みを、共にわかち合おうと呼びかける物語なのである。
「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と、神によって示されたイエス=キリストの語る福音に、しばらくのひととき、耳を傾けていきたい。そして、その福音が我々にもたらす神の恵みを、共にわかちあう生活へと乗り出していきたい。
願わくは、この言葉があなたに福音を届けるものとして用いられますように。
(追記)
先日ある居酒屋にて、非常勤講師を務める高校から昨年卒業したかつての教え子に声をかけられました。「ああっ先生だ!」と指差されて、まるでUFOでも見たかのような反応でありましたが、卒業後も元気で過ごしている様子に、そして何より卒業してもわたしを忘れないでいてくれたことに、喜びを感じたのでありました。
毎年高校2年生を受け持っておりますが、その時期の彼らの内面における成長の速さにはいつも驚かされます。知識が増えることばかりでなく、自分という存在の受け止め方において、「本当にこれが同じ人間か」と驚くような変化を遂げるのです。「他者との関係における自分の位置」というものに、自覚的になりはじめるという事でしょうか。
この非常勤講師の仕事は、浪岡伝道所に赴任するにあたって地区の諸教会が準備してくれたアルバイトでありました。「死んでも学校の先生にはなるまい」と考えていたわたしにとり始めはいやいや勤めた仕事でしたが、近ごろでは生徒たちの成長を見守ることにわくわくするような楽しさを覚えることが多くなってきています。この仕事が与えられて本当に良かった、と思える瞬間が増えてきました。
もちろん楽しいことばかりが続いたわけではないのですが、それだけに出会った喜びが大きなものとして感じられるのではないか、と思います。
先週、今年度の授業のすべてが終わりました。あとは学年末の試験が終わるのを待つばかりです。「何を伝えることができたのか」よりも、わたし自身が彼らと過ごすことで何を得たのかについて考えたいと思っています。そして、4月に起こるであろう新しい出会いに備えて、充電の期間を過ごしたいと考えています。
(「その前にいやーな採点と点数計算があったよ」と思い出したTAKE)