これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。(24)
ヨハネ福音書の締めくくりの言葉である。1996年5月から読み進めてきたヨハネ福音書は、この2節をもって終わるのである。ここでは、この福音書の著者・もしくは福音書の元になった証言者に関わる記述が含まれている。
ここで「この弟子」と呼ばれているのは、ヨハネ福音書後半から登場する「イエスが愛しておられた弟子」のことである。前回も見た通り、シモン=ペトロと対比されて描かれることが多いが、その弟子としての振る舞いにはペトロより劣っている面も優れている面も見出すことができる。つまりこの弟子とペトロとは、優劣を比較するべき対照的な人物として描かれているわけではなかった。むしろ、信仰の表わし方において多様な可能性を提示するための典型的な人物像として、両者が対比的に描かれているのである。
さて、この「イエスが愛しておられた弟子」の名前が明らかにされていないのは何故だろうか。
イエスの母の名がマリアである、ということはマタイ・マルコの両福音書では明らかに示されているが、ヨハネ福音書では単に「イエスの母」と表記されるのみであった。ヨハネ福音書の作者がイエスの母の名を知らなかったとは考えにくく、何らかの意図に基づき、名前に触れない形で物語を進めたかったのであろう。
同様のことは、この「イエスが愛しておられた弟子」についても指摘されている。他の福音書では登場している12弟子の1人「ゼベダイの子ヨハネ」の名が、不自然さを感じさせるほど出て来ないのである。そこで、今日の個所に記される「この弟子」、すなわち「イエスの愛しておられた弟子」はゼベダイの子ヨハネであろう、と指摘する人が多くあった(『ヨハネによる福音書』という書名はこれが由来である)。ヨハネ福音書の作者には、敢えて「ゼベダイの子ヨハネ」と書かなくても(あるいはゼベダイの子ヨハネを意図するのでなかったとしても)読者にはそれが誰のことか理解される、との確信があったと言われる。あるいは、ヨハネ福音書の作者や直接の読者たちが所属していた教会にとって、大きな影響を与えた人物が暗示されているのかもしれない。いずれにしろ、作者はこの「イエスが愛しておられた弟子」が誰であったのか、を直接描かなかった。それは、歴史上実在した「誰か」とされてしまうことで、「この弟子」の存在が他人事になってしまうことを避けるためだった、と考えられる。
つまり「この弟子」は、「かつて存在した誰か」ということだけでなく、イエスに従う者すべてが目指すべき「理想の弟子像」として描かれているのである。
明確にゼベダイの子ヨハネを暗示しながら最後までその名を特定しないのは、この弟子のあり方が歴史上実在したヨハネにとどまることなく、それを読む(現代の我々をも含む)人々が達すべき理想の姿であるとの訴えが込められているのである。「あなたがその弟子となれ」と勧めているのである。
その「理想的な弟子」とは、具体的にはどのような人のことであろうか。それは「互いに愛し合え」とのイエスの命令に応え続ける者である。イエスに愛されイエスの胸元近くにいることを許されるほどに、またイエスの臨終に際しその母を託されるまでに、イエスの命令に忠実に生きる者なのである。
それは、ヨハネ福音書が書かれた当時においては、ローマ帝国とユダヤ教勢力とによる二重の迫害のただなかにあって、なおイエスの教えを手放さず生きようと決意する事であった。当時の教会にとっての「あるべき弟子の姿」とは、迫り来る患難に立ち向かって、イエスに対する愛・イエスから託された愛の実践を決意する者となることであった。
また「理想的な弟子」とは、イエス不在の時代にあっても「イエスの臨在」を確信する者でもある。遺体が消失し空虚になった墓に直面しつつ、しかしその復活を確信し、また目の前に展開する出来事からイエスの働きを読み取って「あれは主だ!」と指し示す者なのである。
それは、患難の中にあって、安易な現状否定・もしくは安易な現状肯定に流れた異端教派(味方から生じた敵!)に対峙しつつも、「救いの実現の約束」への信仰を手放さず、なおその困難な状況に神の支配を見つめて、喜びと希望を保って止まり続ける勇気を呼びかける者である。
現代の我らに置き換えるなら、それはどういう招きとなるであろうか。我々にとっての患難・我々にとっての異端に戦いを挑む時、それは明らかになるであろう。今日において「互いに愛し合う」とはどういう形を取るのか、現代において「希望を語る」とはどういう生き方なのか、それを祈り求めて歩む時に、我々が「この弟子」と呼ばれる姿にたどり着く道が示されるであろう。
それがどのような姿であるにしても、我々が「この弟子=イエスが愛しておられた弟子」であるかどうかは、我々の証しが真実にイエス=キリストを指し示しているか否かで計られることになる。我々の忍耐がキリストの愛を行うものとして示される時、我々の喜びがキリストによって示された希望に基づくものである限り、我らの証しは真実のものとなる。
再び「この弟子」と呼ばれる者の歩みを振り返るならば、彼がイエスを愛する以上に、まずイエスが彼を愛して選ばれたこと・イエスの母を引き取る前に「ご覧なさい。あなたの子です」とイエスに推薦されたこと・復活を信じる前にイエス自らが墓を出て行ったこと・「あれは主だ!」と気付く前にイエスが近づいて来られたこと、を見るのである。イエス自らが彼へと接近し自身を明らかにすることで、初めて「この弟子」はイエスが救い主であることを証しし得たのである。
我々はどのようにしてイエスの愛を得ることが出来るだろうか。どういう弟子になれば、イエス自らが近づいて下さり、御自身から「わたしである!」と声をかけてもらえるのだろうか。それは全く、イエスの意志に委ねられた事である、と知らなければならない。イエスによる選びなくして、我々がイエスと出会うことはあり得ない! イエスによる愛なしに、イエスを知ることはできないのである。
すなわち、ヨハネ福音書を通じてイエスの姿・言葉に触れている我々は、「既に」選ばれている! 「既に」愛されている! それを知り、「真実の証しをなさせたまえ」と祈ることから始めるよう、我々は「既に」招かれているのである。
我々は、イエスを知る以前からイエスによって知られており、イエスを愛する以前からイエスによって愛されている。イエスによる希望を手に入れる以前から、その希望を約束されているのである。イエスが真実であることを知り、そして信じる時には、我らの証しは真実なものとされている。「この弟子」と呼ばれる者になりたいと願う時、我らは既に「この弟子」とされているのである。
感謝とともに、この喜びを宣べ伝える働きへと出発したい。
願わくは、この言葉があなたに福音を届けるものとして用いられますように。
(追記)
ヨハネによる福音書の連続講解説教は、今回で終了します。前回に書いたことと重複しますが、2年近くに及んだこの働きによって、誰より力づけられ勇気を与えられたのは、他ならぬわたし自身であります。説教というものは語り手が聞き手に対して「教える」ものではなく、聖書を通じて与えられた慰めや希望を「分かち合う」働きであるとの確信を強めています。
ヨハネ福音書の連続講解に踏み切って以来、外的な環境の変化が多く起こりました。特に大きかったのは、この『通信説教』のスタートであります。元々ファクスを用いての説教配信の働きが、ワープロによる電子メールとなり、更にパソコンを用いてのものへと変化し、受信者数もそれにつれて増えていきました。これはわたしの功績ではなく、祈りをもって育てて下さった人々のお支えによるものです。殊に、友人の山田牧師と、学生YMCAメーリングリストに登録の方々のお勧めとご協力(パソコンの支給という物理的なものも含めて)がなければ、今日のような形にはなり得ませんでした。また、『通信教会』という新たな幻も、そうしたお支えがあってこそのものでありました。
「うん、これは良く出来た」と自信を持ったものだけをメールとして流すという「自力への過信=み言葉への不信」でしかなかった働き・そして「この人には聴いてもらいたい」という「恣意的な愛=祈りを欠いた好みに過ぎない感情」でしかなかったこの働きが、"電子ネットワークによる通信"という現代ならではの
(やや特殊領域に属する)「地域」における「教会」の働きへと導かれたのでありました。
それにふさわしい言葉の取り次ぎ手となるにはまだまだ修行が足りません(謙遜でない所が自分でも怖い)が、引き続き祈りを保ちつつ取り組みたいと考えています。
次回からはマルコによる福音書に基づく連続講解説教に入ります。イエス=キリストの福音を「物語」として再構築するという、人類史上初のユニークな試みの跡を辿り、再び十字架に示された神の救いを見つめていければ、と願っています。
拙い説教の数々に「またか」の思いを拭えない方々も多くおられるとは思いますが、よろしくお付き合いくださいませ。
(JOHN LENNON の"IMAGINE"を聴きながらのTAKE)
(追記 その2)
復調したノートパソコン(DELL製のLatitude XPという機種です。そこで、「拉致くん」と呼んでおります)に新しくインストールしたメールのソフトの使い方が今一つ飲み込めず、通信説教の配信が今日までずれ込んでしまいました。
ようやくある程度の操作が可能になったのでお送りします。
ただし、FAXへの発信には対応していないようなので(じつは前回分も、何故かFAXに向けて発信したものは全部エラーが出て返ってきちゃったのでした)、2週分溜めてしまっていることになります。何とか発信できるよう方法を研究中ですので、お待ちいただけたら幸いです(って、結局ファックス受信の人はこれを読めないのだった。困った)。
では、また。
(学年末試験に突入したTAKE)