竹迫牧師の通信説教
『任せられた働き』
ヨハネによる福音書 第21章20−23 による説教
1998年2月22日
浪岡伝道所礼拝にて

ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることをわたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」(21−22)

イエスの12人の弟子の代表格とも言えるペトロと、最後まで名前の明かされない「イエスの愛しておられた弟子」と呼ばれる人物とが、またも対比されている場面である。この正体不明の弟子が誰のことなのかについては次回の説教で改めて触れたいと思うが、今日はこの人物とペトロの関係については少し省みておきたい。

この名前の明らかでない「イエスが愛しておられた弟子」は、(あるいはかなり初期からイエスと行動を共にしていたかもしれないが)「あなたがたのうちの1人がわたしを裏切ろうとしている」とイエスが語る「最後の晩餐」の場面で初めてクローズアップされる、イエスの胸元によりかかって「主よ、それはだれのことですか」と質問する人物である。しかし彼がその質問をイエスに投げかけるのは、ペトロが「だれについて言っておられるのか」と質問するように合図した結果であった。

続いて彼が登場するのは、逮捕されたイエスが大祭司の屋敷に連行された後の事である。彼は大祭司の知り合いだったので、イエスと共に屋敷の中庭に入ったが、その後ペトロが中庭に入るよう手引きをした事になっている。十字架の場面では、いま死のうとするイエスが、イエスの母(ヨハネ福音書は、他の福音書に「マリア」という名前で紹介されるイエスの母の名前を1度も語らない)の身柄を「見なさい。あなたの母です」と託す人物であると語られる。この時ペトロがどこにいたのかについては語られていない。

そして、マグダラのマリアによって「イエスの死体がなくなった」との知らせを受け取って墓へ走るのは、この弟子とペトロである。墓に先に着いたのはこの弟子だが、先に中に入ってイエスの死体がないことを確認するのはペトロである。しかし、その後に死体がない事で復活を信じるのは、ペトロでなく「もう一人の弟子(つまり名前の明かされない『イエスの愛しておられた弟子』」である。

ペトロが「漁に行く」と言い出して夜通し収穫のない働きを終えた後、復活のイエスと出会う場面では、岸に立った人物がイエスであることを最初に指摘するのがこの弟子である。しかし、湖に飛び込んでイエスのもとに急ぐのはペトロである。そしてイエスとペトロの問答があり、今日の場面に至る。

このように、イエスの母を巡るやりとりの他は全て、この弟子はペトロと絡んで登場するのである。胸元によりかかることを許され、また後にはイエスの母を託されるほどイエスに愛されているが、最後の晩餐での彼の発言はペトロの意を汲んでのものである。ペトロよりもイエスに接近しやすい立場にいるが、「イエスの仲間」として告発される危険を冒しているのはむしろペトロである。イエスの遺体の行方から「復活」という信仰的な真実に到達するのはこの(名前の明らかでない)弟子だが、彼は先に墓に着いたにもかかわらずペトロの後で遺体がないことを確認している。船の上では誰より先に「あれは主だ」と気付いていながら、イエスのもとに到達するべくいち早く行動を起こすのはペトロである。

こうして並べてみると、この弟子とペトロとは信仰上の競争相手として位置づけられていると思われるのである。どちらが(信仰のあり方として)より優れているかについては、一概に判断出来ない。信仰的な直感についてはこの弟子の方が秀でており、また信仰に基づく行動ではペトロの方が抜きんでいているように思われる。「イエスの愛されていた弟子」と形容されるからには、単にイエスに重んじられただけでなく、精神的に何かを共有するまでに親しかったのはこの弟子の方であろうが、「この人たち以上にわたしを愛するか」と問われているのはペトロである。

ヨハネによる福音書の作者が属していた集団(教会)においては、初代教会の有力な指導者であったペトロより、こちらの弟子が重んじられていた事の反映である、と説明する人もある。あるいはそういう事かもしれないが、この弟子が何についてもペトロより勝っていたと描かれているのでない点を考えるならば、むしろ両者が共に信仰を持つ人にとっての理想像でありうること、またその両者の優劣がつけられない・つけてはならないことが、ここには示されているのではないだろうか。

ペトロに対し「わたしを愛しているか」と3度にわたって問うイエスは、ペトロの死に方について予告する。それはペトロにとっては不本意な形であるが、しかしそれにも関わらず神の栄光を現わすために用いられる、との約束が語られている。ここで注目するべきは、自分の頑張りが成就しなくても、あるいは弱さをむき出しにしたままのあさましい姿であっても、神の意志に沿う形でそれが用いられるのだ、という宣言である。自分の仕事が思い通りに成し遂げられるか、自分の望む栄光が現わされるか、ではない。自分の求める正義が実現するか、自分の働きが正当に評価されるか、ではない。必ず・神が意図する形で・この命が用いられる、との断定的な宣告なのである。その神を信じよ、とイエスはペトロに語ったのであった。

このイエスの言葉に、殊に自分の非力さ・無力さを痛感する我らは、慰めを見る。

「互いに愛し合いなさい!」と命じるイエスに、むしろ従い得ない自分を見詰める者は、この宣言にむしろ希望を見る。

「すべての命を慈しみ、また悲しむ者に平安を与える神は、その愛の意志のために我らを用いて下さる」と語りかけて下さっているからである。

我々は、正義の実現や愛の実践や信仰の向上にすら、競争的な比較を試みる事がある。「あの人にはこんな能力があるのに、わたしには…」と嘆息し、また目の前に置かれた課題の大きさ・重さに、それを担い得ない自分の弱さを見せ付けられて「もっと力のある人がここにいるべきだ!」と全てを投げ出したくなる。ペトロが「イエスの愛しておられた弟子」が後ろからついてくるのを見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と尋ねる心には、ある種ライバル的な関係にあったその弟子の将来に自分が負けているのではないか、との不安を読み取ることができるかもしれない。信仰的な事柄に限らず、「自分を高めたい」「より良い自分でありたい」と願う我らが、あるいは自分の存在は無価値であるかもしれない、と恐れて抱く不安である。

あるいは兄と弟のような指導関係がペトロと彼との間にあったのだとしたら、「わたしがそのような死に方をしたら、今後の彼はどうなってしまうのですか」という、ある意味での「配慮」に基づいた心配が湧いてきたのかもしれない。「ここでわたしが倒れたら、残された家族はどうなるのですか」「ここでわたしが去ったとしたら、残されたあの人たちの面倒は誰がみるのですか」という不安を抱える者も、我々の内には多くある。

しかしイエスは「それがあなたに何の関係があるか!」とペトロに語る。それらの不安を捨てろというのではない。全てを無責任に投げ出せというのでもない。それを丸ごと神に任せよ!と呼びかけているのである。神がそれらを引き受けて下さると信じよ!と招いているのである。

我らには多くの働きが任せられている。それらは大きく、重く、我らを押しつぶすかに見える勢いを備えている場合すらある。しかし、その直中を歩む我らに要求されるのは、ただ「イエスに従いなさい」という一事である。「我らが直面する諸々の課題が全て神の支配の下にある」と信じるという「招き」に応える事のみである。その一事に、我らの慰めと希望の全てがかかっている。

願わくは、この言葉があなたに福音を届けるものとして用いられますように。


(追記)

『通信信徒』の誕生にあわせて、せっかく浪岡での礼拝との同時性を回復したこの『通信説教』ですが、パソコンのハードディスクの不調に伴い発信にタイムラグが生じることになりました。現在そのパソコンは知人の好意に基づく作業により、後日アップグレードされた形で復活することになりまして一安心です。しかし、わたしが不完全なデータのバックアップしかとっていなかったために、パソコンが戻ってくるまで幾つかのメールアドレスが読み出せない状態です。つくづくマヌケな事で申し訳ありませんが、今回は同時発信でなくなってしまいました。順次発信する形をとらせて頂いております。

またファクス受信の方への送信は、これまでは電子メールと同時発信だったために大変読みにくい形で送られることが時々ありましたので、こちらからもファクスを使って送らせて頂くことにしました。『通信説教』読者からのご提言により、今回から電子メールの方も少し読みやすい形にレイアウトを変更しております。

『通信教会』という、これまで例のなかった教会形成に乗り出した浪岡伝道所ですが、98年度からのより充実した活動を目指して模索を開始しております。皆様のお知恵を貸して頂くと共に、その歩みのためにお祈りの内に加えて頂ければ幸いです。

先ごろの役員会にて、この『通信説教』をわたしこと竹迫 之「個人」の働きではなく、浪岡伝道所という「教会」の働きとして認めて頂くことができました。あるいは将来的に、タイトルやこの「追記」欄のあり方が変更されるかもしれません。それについて、ご要望をお寄せいただければ幸いです(今しばらくはこの形をとっていきたいと思っています)。

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幾つかの心痛む出来事に向き合い、今日の説教によって慰めを受けているのは、何よりわたし自身でありました。「説教」という行為の、そしてその源である聖書の不思議さを感じるのはこういう時であります。改めて聖書の誤用、そして悪用に「否!」を語っていきたいと決意するものです。また、その聖書の使信を取り次ぐにふさわしい者への成長を願い求めて行きたいと願っています。

全てが神の栄光に用いられると信頼しつつ。

(年度末処理の書類に翻弄されるTAKE)

(追記その2)

上の文書を書いてから、既に1週間以上過ぎてしまいました。NIFTERMという通信ソフトを新規に導入し、同時発信の方法を試行錯誤するうちに今日まで延びてしまったのでした。ようやく修理(というかハードディスクのアップグレード)をお願いしていたノートパソコンも復活しましたので、すみませんが今回はFAXの方にも同時にNIFTY経由で発信させていただきます。

それでは、また。

(来週から学年末試験を迎えるTAKE)